(十四) 突然の雨
その日、なつ紀はデパートの中番の仕事を終えて帰宅する途中だった。フォーマル売場の客足はいつもどおりで、取りたてて多くもなければ少なくもなかった。数組の客の応対をし、喪服が一着売れた。
なつ紀が応対したその客は、五十代くらいの母親と二十代はじめくらいの娘との二人連れだった。娘のほうはおとなしそうな印象で、なつ紀が何か声をかけても終始はにかんだような笑みで、「はい」とか「そうですね」とか短い返事をするだけだった。反対に母親はお喋りが好きでたまらないらしく、訊ねてもいないのにあれこれといろいろなことを話してくれた。こういうタイプは接客していて楽だ。気を遣わないで済むし、勝手に喋って勝手に満足してくれる。
この子の喪服を見にきたのよ、と母親は目顔で娘を指しながら言った。
「実は夫の兄が癌で、今、闘病中なの。……まだ死んでもいないのに喪服を見にくるなんて、気が引けるんだけど」
「いえ。いざというときに間に合わせの服で送りだすより、よっぽどいいと思いますよ」
なつ紀がにこりと笑ってそう答えると、母親もどうやら安心した様子だった。誰かに肯定してほしかったのだろう。夫の兄はヘビースモーカーだからおそらく長年の喫煙が
だから母親も、こうして娘を連れて喪服を見にやってきたのだ。
母親が夫の兄の癌について熱心に話しているあいだ、娘は母親の少し後ろに立って売り場に並ぶ喪服をぼんやりと眺めていた。
吊り下げてある喪服を緩慢な動作で引っ張りだしては、少し見てまた戻す。それを繰り返した。普段着の服を選ぶのとはまた違うから、何をどう選べばいいのか戸惑っている様子だった。なつ紀は母親の話を聞く傍ら、娘に喪服について短くアドバイスをした。
結局、娘はテーラードカラーのジャケットとワンピースのアンサンブルを選んだ。会計をしている途中で、館内に雨を知らせる音楽が流れてきた。なつ紀は紙袋に雨用のカバーを被せて娘に渡した。娘は恐る恐るといった様子でそれを受け取る。それからなつ紀に礼を言い、二人並んで帰っていった。
深くお辞儀をしてその後ろ姿を見送る。並んで歩く姿はいかにも仲のよい母親と娘といったふうだった。なつ紀と母とでは、とても考えられない。
その後は客足も途絶え、なつ紀は遅番でやってきた同僚と入れ替わるようにして仕事を上がった。従業員用の更衣室へ行き、制服から私服へ着替える。雨がどの程度降っているのかが気になった。
天気予報では、今日は降るはずではなかった。何も予報を盲信しているわけではないが、まさか降るとは思っていなかったので傘を持ってきていなかった。いつもならばロッカーに折りたたみ傘を置いてあるのだが、あいにくこのあいだ同じように降られたときに使用して、持ってくるのを忘れたままだ。実に間が悪い。
小雨程度ならばそのまま帰ってしまおうかとも思い、とりあえず従業員用の出入り口まで行ってみる。予想外の大雨だった。大粒の雨が勢いよくコンクリートに叩きつけられ、跳ね返ってあたりに飛び散っている。携帯電話で雨雲レーダーを確認したが、厄介な雨雲はまだしばらく上空にとどまっているようだ。
これは無理だよ、となつ紀の様子を見ていた守衛が声をかけてきた。
なつ紀はデパートへ引き返して傘を購入することにした。
売り場にはちょうど顔見知りの従業員がシフトについていた。背が低く少し肉付きがよく、眉毛のあたりで揃えた前髪と顎ラインのボブがやや下膨れの輪郭と
彼女とは何度か一緒に昼食を食べにいったことがある。なつ紀はいつも、デパートの休憩室は利用せず外に出掛けている。ずっと建物のなかで仕事をしているので、昼くらいは気分転換をしたかった。
同じ売り場の従業員はローテーションで休憩をとるため、連れだって休憩に入ることは難しい。その点、売り場が異なれば融通が利く。休憩時間は不規則なので昼の時間を大幅に過ぎていることも多かったが、それでもどこの店もまだ混んでいる。
傘売り場の彼女はなつ紀が外に出掛けていることを知って声をかけてきたのだった。喋るのが好きらしく、それで誰か昼の道連れを探していたのだろう。なつ紀も食事のスタイルに特にこだわりはなかったから、誘いに乗ってしばらくは彼女と一緒に昼を食べにいっていた。
しだいに疎遠になったのは、時間の使いかたが根本的に合わなかったせいだ。
なつ紀は目の前に食事がくれば何よりも食べることを優先するのだが、傘売り場の彼女は喋るばかりでなかなか手が動かない。なつ紀が時間を気にして休憩時間の残りが少ないことを伝えるとようやく食べはじめるものの、それがまた驚くほどに遅い。食べるのが遅いのならば喋っていないで食事に専念すべきだと思うのだが、どうもこのあたりの考えかたが擦りあわない。
なつ紀は、彼女がそうやって食事の時間を犠牲にしてまで話していた内容をほとんど覚えていなかった。実のない話だったのだろう。一気にばからしくなった。
何度か誘いを断るうちに、彼女もだんだんとなつ紀を誘わなくなっていった。
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