(十三) デパート勤務

「私は、今はデパートで働いているの」となつ紀は言った。「この機会に今度はきちんと覚えて帰って」


 なつ紀の勤めるデパートは、アパートの最寄り駅から五駅ほど離れた場所にあるという。

 こんな寂れた場所に住むなつ紀の口から勤め先がデパートであると聞くのはなかなか意外なものがあった。なつ紀もそれを察したのか、数駅先まで行けばそれなりに栄えているのだと説明した。デパート以外にも品揃えの豊富な大きなスーパーや、洒落た喫茶店、家電量販店など必要なものはだいたい揃っている。


 それならばそちらの駅の近くでアパートを探したほうが何かと便利だろうに、なつ紀はそれを好まない。もちろん家賃の相場が上がるせいもあるが、理由はそれだけではない。


「自宅と勤務先があんまり近すぎるのも厭でしょう」


 透吾もその主張には頷ける。


「だから住む場所を探すとき、最初からそれだけは絶対に避けようと思っていたの。だってせっかくの休日にばったり知り合いに出くわしでもしたらその日一日が台無しになってしまうし、何かあったときに家が近いからという理由で押しかけられでもしたら迷惑だし」


「それにしたって、何もこんなに寂れた場所に住む必要はないんじゃないの」

 もう少しましな物件を探せばよかったのにという透吾に、なつ紀は肩をすくめた。


「ずいぶんと失礼ね。ここに住んでいるのは私だけじゃないのに。今、近隣住民全員を敵に回したわよ。そうやって印象だけで判断するのはよくないわ。このへんだって、住んでみれば案外不便ということもないのよ。愛着も湧いてくるしね。住めば都とも言うでしょう。たしかにスーパーは大きくないし品揃えはたかが知れているけれど、必要なら仕事上がりに買って帰れば済む話だもの。デパートなら社員割引も利くし。私はけっこうここを気に入ってるわ」

「……姉さんがいいなら、別にそれでかまわないけどさ」

「やっぱり透吾は母さんとは違うわね。だから好きよ」

 なつ紀はくすくすと笑った。


 なつ紀の住むアパートについて、当時母はさんざん口出しをした。お世辞にもきれいとは言いがたいアパートだ。こんなところに大事な娘を一人住まわせるのは我慢ならなかったのだろう。


 なつ紀のアパートに母がまだ足繁く通っていたころ、頼んでもいないのに新しい物件を探してきてはなつ紀にあれこれ勧めていたのを透吾は知っている。一時期、リビングのテーブルには住宅情報誌が山積みになっていた。母が具体的にどのような物件をなつ紀に勧めていたのかは透吾の知るところではないが、おそらく今よりももっと実家に近い場所だったのだろうことは容易に想像がつく。


 デパートでのなつ紀の担当は、最上階のレディースフォーマル売り場だという。礼服や喪服を扱っている。地下の食糧品売り場に比べれば静かな職場だ。平日など特にひと気は少ない。もともと、毎日大量に売れるような品でもない。


 客がいないあいだは商品に乱れがないかをチェックしたり、出納簿の管理など細々した仕事をしているが、それにしたって何時間もかかる作業ではない。どうしたって手持ち無沙汰な時間が出てくる。


 やることがなくなったら、なつ紀はフロアを行き交う客の様子を売り場からぼんやりと眺めて過ごすのだという。なつ紀は案外、この時間が気に入っているようだ。もちろん、あからさまにサボっていることがばれないように気をつけるし、社員向けのアナウンスや雨が降ってきたことを知らせる音楽は聞き逃さないように注意している。

 ほぼ立ちっぱなしという点を除けば、それほどきつい仕事ではなかった。もともと勤めていた電化製品メーカーの事務職に比べれば何倍も楽しい。あれはひどく退屈だった、となつ紀はぼやいた。


 まわりが就活に苦労しているなか、電化製品メーカーへのなつ紀の就職はすんなり決まった。どうやら面接官に気に入られ、猛烈にプッシュされたようだ。

 そんなわけで短大卒業後は毎朝スーツに身を包んで規則正しく出勤していたのだが、もともとさほどなかった熱意がある日突然ぷつりと失せた。結果、電化製品メーカーはものの数か月で辞めることになった。


 なつ紀は会社に辞表を提出してきたことを、家族みんなで夕食を囲んでいるときに報告した。まるで天気の話でもするみたいに切りだされて、透吾もずいぶんと驚いたのだ。一瞬、なつ紀が何を言っているのか理解できなかった。いくらなつ紀でも、奔放すぎる。なつ紀を気に入って採用した面接官も面食らったことだろう。


「毎日まいにち、掃除機やエアコンのことを考えて過ごすのにうんざりしてしまったのよ」となつ紀は言った。


 なつ紀もふだんから電化製品の恩恵は受けているが、だからといって特別強い思い入れがあるわけでもない。それならば服のほうに興味があった。レディースフォーマルを選んだのは、何となくだ。デパートへの採用は電化製品の事務職を辞める前にすでに決まっていて、そのあたりはさすがに抜かりがなかった。


 デパートへの勤務が決まってからすぐに、なつ紀は一人暮らしも決めた。


 本当は電化製品メーカーへの就職が決まった時点で実家を出たかったのだろうが、やはりここでも母が干渉したのだ。勤めはじめは貯金も乏しいだろうからしばらくは実家から通えばいいと熱心になつ紀を説き伏せた。やかましい母になつ紀も一度は引き下がったが、数か月貯めた給料でもうじゅうぶんと判断したのか、今度は母の反対を押しきって出ていった。


 せっかく得た正社員の事務職を辞めてデパート勤務へ移ることも、母はずいぶんと気に入らなかった様子だ。なつ紀が実家を出ていったあとしばらくは毎日のように愚痴っていた。それを聞かされるのはもちろん透吾と父だ。だんだん母の愚痴の内容も暗記してしまった。

 暦どおりの休日があり、それなりに安定した給与の出る正社員の事務職をわざわざ辞めてまで、今さら休みの不規則な接客業へ移るメリットを感じなかったのだろう。ただしなつ紀のほうでは、メリットしかなかったようだ。


「デパートの仕事は楽しんでるの」

「今のところはね」

 なつ紀は言い、それから透吾に含みのある笑みを向ける。


「透吾も入り用だったらいつでもデパートに来なさいよ。社員割引で少し安くしてあげられるから」

「入り用って、何が」

「喪服に決まってるでしょう」

「……差しあたりは必要ないよ。それに今はまだ制服があるし」

「いつ必要になるかなんてわからないでしょう。今のうちにきちんとしたものを揃えておいて損はないんじゃない。近いうちに母さんがぽっくりいかないとも限らないんだから」


「姉さん、」

 透吾が厳しい声を出すと、なつ紀はおどけたように肩をすくめた。


「冗談よ。笑えなかった?」

「当たり前でしょう。いくら何でも不謹慎すぎるよ」

「つまらない子」

 拗ねたように唇を尖らせる。……そういう問題ではない。たとえ冗談であっても、気安く母親を殺すほうが透吾にはよほど理解がしがたい。

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