(十二) 犬と猫と影
先ほどと同じくほとんど足音をさせないまま部屋のなかを進み、透吾のすぐ左横で立ち止まる。そのまま何を言うでもなくじっとしている。
体の左側にちりちりと視線が刺さるのを感じ、透吾は居心地の悪さを覚えながら位置をずれて場所を譲った。透吾が動くと、影は当然のようにその場所へ腰を下ろす。なつ紀のすぐ傍だ。場所を譲ってくれたことに対して、透吾に礼を言うことはない。最初にそこに座っていたのは影だから、そこはもともと自分の席だということだろうか。
透吾のほうでもだんだんとその振る舞いに慣れてきて、怒りも湧かない。やはりこの少年はなつ紀以外のものにいっさい関心がないのだろう。それに、なつ紀のすぐ傍から離れられたことはある意味ありがたかった。
透吾はそっと影の横顔を盗み見た。間近で見るとその整った顔立ちが際立つ。なつ紀が自慢げに「いい」と口にしていたとおり、濃く長い睫毛や抜けるように白い肌が目を惹いた。首は軽々と絞めあげられそうなほどに細かった。少年らしく、まだ喉仏は目立っていない。全体的に中性的な雰囲気はなるほどなつ紀の気に入りそうだ。なつ紀は昔から線の細い男を好む傾向があった。
ふいに、透吾を小馬鹿にしたような目で見ていた唇の薄い男のことを思いだす。あの男はなつ紀の何番目の男だったろう。一見柔和そうな顔立ちをしていたが、目の奥はひどく冷えていた。
「影。あんた、どうして手ぶらで戻ってきたの」
なつ紀は眉をひそめて、傍らに腰を下ろした影をそうなじった。透吾が座っていた場所を奪いとったことには触れない。
影は言われていることの意味がわからないのか、表情を変えずにただぼんやりとなつ紀の顔を眺めている。
「私はゼリーを冷蔵庫にしまってくるように言ったけれど、そのついでに飲み物を持ってくるくらいしたらどう。いったい何のためにキッチンに行ったの? 透吾は駅からここまで歩いてきたばかりなのよ。喉が渇いているかもしれないことは容易に想像がつくでしょう。まったくあんたは私以外のことになるとまるで気が利かないんだから。言われたことしかできないのよね」
「いいよ、姉さん」
なつ紀の口調がだんだんと苛烈さを増してきて、透吾は慌てて制止した。自分が叱られているわけでもないのに背中に冷や汗が伝う。
叱責されている当の影本人は、相変わらずぼんやりとなつ紀の顔を眺めているだけだ。なつ紀の口調が荒くなっても慌てるようなこともなく、言われたことを正しく理解しているのかどうかさえ怪しい。
「気を遣ってもらわなくても大丈夫だよ」
「ちっともよくないわ。躾はちゃんとしなくっちゃ」
「……躾、」
なつ紀は影に向き直ると、その顔をじっと見つめてゆっくりと言い含めるように話しはじめた。
「いい? 影。キッチンに戻って、透吾のために飲み物を入れてきなさい。ジュースは冷蔵庫に入っているもののなかから自分で考えて選びなさい。それくらいできるでしょう。私のぶんはいらないわ」
なつ紀から指示された影は、素直に立ち上がるとゆっくりとした動作で再びダイニングキッチンへと戻っていった。今しがた座ったばかりだったというのに、口答えもしない。なつ紀のきつい物言いに機嫌を損ねた様子もなかった。
「……少し態度が冷たすぎやしない、」
婉曲になつ紀を批難したつもりだったが、そんなことでなつ紀が反省するわけもない。けろりとした顔で、「従順でしょう」と言って得意げに笑った。透吾はぞっとした。なつ紀はあの少年を、まるで自分のおもちゃのように扱っている。
……
影のほうも甘んじてその扱いを受け入れているばかりか、むしろなつ紀から指示を出されるのを待っているようにさえ見える。ゆがんだ主従関係のようだ。
「拾ったのよ、あの子」
唐突に、なつ紀が言った。
「え?」
あまりに何でもないことのように口にするので、透吾は一瞬それが何の話題であるのか理解できなかった。なつ紀の口調は犬猫の話をしているのとまるで変わらない。
「……拾った?」
「あの子のことが知りたかったんでしょう。そんな顔をしてる。まあ、部屋のなかにいきなり見ず知らずの男がいたんじゃあ、無理もないわよね。ここに来てからずっと、それで落ち着かなかったんでしょう。そのくせ、私がちょっとはぐらかしたくらいですぐに事情を探るのを諦めてしまうのよね。透吾って昔からそんなふうだったわよね。面倒事を嫌うのよ」
「……おれのことは今はいいよ。それより、拾ったってどういうこと」
犬猫の話をしているのではない。相手は人間である。
「どうもこうもありゃしないわ。何のひねりもなく、そのままの意味よ。拾ったの。会社の帰りに」
「そういえば姉さんは、今はどこに勤めてるんだっけ」
「あきれた。そこから話さないといけないの」
「ごめん」
なつ紀は短大を卒業したあと中堅企業の電化製品メーカーに事務員として就職したのだが、ものの数か月と経たずに辞めていた。それから次の勤め先が今の職場のはずだが、透吾はそれが何だったのか思いだせない。
「透吾は優しい子だけど、私に興味がないわよね。これまでだって何度も遊びにいらっしゃいって誘っていたのに、なかなか来てくれないんだもの。結局、私がこんなふうになるまで来なかった」
「……ごめん」
「そんなに私に逢いたくなかった?」
「……姉さんのことが嫌いなわけじゃないよ」
「それも知ってる。だから本当は私に興味がないんじゃなくて、興味がないふりをしているだけなのよね」
透吾はそれには答えなかった。なつ紀は透吾をからかって遊ぶのが楽しいのだ。下手に反応すれば、なつ紀を増長させることになる。挑発に乗らないよう、無関心をよそおう。
「まあいいわ。どうせ寝ているだけで暇なんだから、ちょっと話をしましょうか」
肩にかけたカーディガンを羽織りなおして、なつ紀は言った。早いところ暇を告げようと思っていたのに、それはなかなかできそうにもなかった。
影はまだ戻らない。
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