(十一) 翻弄

 視界からクッキーの箱が消えると、なつ紀はあからさまに態度を変えた。さっきまであれだけ透吾が話しかけてもわざと無視して答えなかったというのに、急にうきうきとした口調で、なつ紀のほうから透吾に話しかけてくる。


「久しぶりに透吾に逢えて嬉しいわ」となつ紀ははずんだ声で言った。

「……そう、」

 短くそれだけ答える。あえて同意はしなかった。なつ紀に逢ったのが久しぶりなのはもちろん透吾も同じだが、それを嬉しいと感じているのかどうかはわからなかった。なつ紀も透吾の心中を察しているのだろう。透吾はどうなのかと訊ね返してくることはしない。

 そのまま話題を変えた。


「学校はどう?」

「別に。どうということもないよ」

「どうということもないってことはないでしょう。それじゃ何もわからないわ。久しぶりに逢ったっていうのに。もう少し会話を続ける努力をしてよ。それとも私とは話したくないっていう意思表示?」

「……平穏にやってる。だから、取りたてて報告するようなことはないよ。クラスでもそれなりにやってるし」

「部活は?」

「入ってないよ」

「相変わらず陰気なのね」

「……ほっといてよ。それに、部活に入ってないくらいで陰気ってことはないでしょう」

 せめて内向的だとか、保守的だとか言ってほしい。

 なつ紀はくつくつとわらった。透吾をからかうのが楽しいのだ。


「そうだ。自転車は使ってる?」

「うん。助かってるよ」

 母がときどき無断で使うのだということは伏せておいた。なつ紀が知ったら、怒り狂いそうだ。


「恋人はできた?」

「……どういう話題の振りかた? さすがにそんなことを姉さんに報告する義務はないでしょう」

「ふうん。透吾は案外秘密主義なのね。……私は全部、逐一透吾に報告していたのに」

 眉をひそめる透吾を面白そうに眺めながらなつ紀が言う。


 たしかになつ紀は、これまで付き合った男のことをすべて透吾に報告してきていた。どこへデートに行ったのかや、どうやって別れたのかまで、実に事細かく説明する。なつ紀は奔放だったから、透吾はそんな話を何度も聞かされた。身内のそんな話は聞きたくもなかったが、なつ紀はおかまいなしに一方的に喋るのだった。


「でも、恋人がいたっておかしくないわね」

 なつ紀は目を細めて透吾を見た。

「見ないあいだに、また背が伸びたんじゃない。線の細い感じが、私の好み」

「……姉さんは変わらないね」

「嘘ばっかり。病気をしてやつれたわ」

 また肩から落ちかけていたカーディガンを引っ張った。

「会社もしばらく休んでいるし。ひどい顔をしていると思っているでしょう。何せ化粧もできないんだから」

「別にそんなことは思わないよ。……それは少し、痩せたようには思うけど」


 なつ紀は乾いた唇をゆがめて嗤った。


「透吾は相変わらず優しいのね。昔からちっとも変わらない。本当に、ちっとも。ひどく窶れたわ、私。死ぬかもしれないと思うもの。食べ物がね、うまく喉を通らないのよ。食欲がないわけじゃなくて、食べたい気持ちはあるんだけれど。厄介よね。そのぶん、よけいにもどかしい。体がだるくて動くのもおっくうだから、それで影にいろいろと身のまわりのことを手伝ってもらっているのよ」


 その「影」とは何なのだと問いただしたいのに、透吾にはそれができない。言葉は途中で喉に絡まったように止まってしまう。なつ紀に対する遠慮がそうさせるのだろうか。それとも、何が飛びだしてくるかわからない恐怖だろうか。


「影は看病がとてもうまいのよ。スプーンの使いかたひとつとってみてもそう。繊細なの。さっきのを透吾も見ていたでしょう。食べ物が何の抵抗もなく喉を通る角度と深さでスプーンを使ってくれるから、私も変にえづくことなく食事をとることができるのよ。あの子は、意識せずとも自然とそれができるの。人に尽くす天性の素質があるんだわ。それにあの見た目でしょう。看病のされがいがあるっていうものだわ。ねえ、どう? あの子。ちょっとしたものでしょう」


 その言いかたはまるでペットの品評会のようで、ひどく下衆げすだ。


「……姉さんは、彼をいったいどうしたいの」

「別にどうにも。ただ私に懐いて、ずっとここにいてくれればそれでいいわ」

「それだけ?」

「それだけ」

「……そう」

「不満?」

 なつ紀は探るような目つきで透吾の顔を覗きこんでくる。透吾は思わず視線を逸らした。


「……別に、」


 それからなつ紀の言葉を否定したが、態度が不自然になったことは自分でも自覚していた。何だかこれではまるで、透吾のほうにやましいところがあるみたいだ。

 なつ紀はさも愉快そうに笑った。

「何かもっといかがわしいことでも想像していたんでしょう」


 透吾は適当なおりをみてアパートを辞去すべきだと感じた。


 なつ紀の様子を確認することはできたのだから、とりあえずの役目は終えたはずだ。軽口も叩けるのだから心配したほどには具合も悪くなさそうだ。何よりあの影という少年に身のまわりの世話をしてもらっているようだから、透吾がいつまでもここにいる理由はない。あとのことは影に任せてしまえばいい。なつ紀も、あの少年のことをずいぶん気に入っている様子だ。二人の関係は気になるものの、これ以上穿鑿せんさくするのも野暮だろう。

 あと透吾のすることといえば、帰宅後の母の相手くらいだ。なつ紀のことを根掘り葉掘り訊いてくるに違いない母の相手をするのは今から考えても憂鬱な作業だが、いつまでもここにいるのも気詰まりだった。

 母に影のことを説明すべきかどうかだけ悩む。


 なつ紀に暇を告げようと透吾は口を開きかけたが、その前にダイニングキッチンから影が戻ってきた。

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