(十) クッキー

 なつ紀から用事を言いつけられた影は、布団の傍からにじるようにして一歩下がり、ゆっくりと立ち上がった。空になった硝子の容器を片手に待ったまま透吾のほうへ近づいてくる。足音がほとんど聞こえない。見れば裸足だ。寒くはないのだろうか。


 影は透吾の正面で立ち止まった。初めて視線が合う。先ほどまで透吾のほうを見ようともしなかったというのに、射すくめるように向けられた視線は今度は少しもはずれることがなかった。白い顔はやはり人形のようだ。


 影は透吾の顔をじっと見つめたまま、何も喋らず、それ以上動こうともしない。透吾は面食らった。それから、透吾がゼリーを渡してくれるのをひたすら待っているのだと思い至る。

 恐る恐るゼリーの入った紙袋を差しだしてみると、影はようやく動いた。ゆっくりとした動作で透吾の手から紙袋を受け取る。一瞬だけ触れた影の手は、驚くほどに冷たかった。透吾の横をすり抜けて、そのままダイニングキッチンへと消えていく。襖がカタンと音を立てて閉まった。


 透吾はクッキーの包みも一緒に渡そうとしたのだが、影はそちらには見向きもしなかった。なつ紀からの指示になかったせいだろうか。どうにも影はなつ紀からの言いつけだけを忠実に守っているように思う。先ほど透吾がゼリーの入った紙袋を渡すまでひたすら待ち続けていたのも、をなつ紀からもらっていないせいかもしれない。


 手のなかのクッキーの包みをどうすればいいのかわからず、持て余す。


「ねえ。いつまでもそんなところに突っ立っていないで、こっちへいらっしゃいよ」


 なつ紀は肩から落ちそうになっていたカーディガンを引っ張って位置を直しながら、ようやくそう言って透吾を手招いた。寝間着の袖から覗く手は病的で、筋が目立った。その手が透吾に向かってひらひらと動いている。

 透吾はその手に吸い寄せられるようにして部屋のなかへと進んだ。先ほど影が座っていたのと同じ場所に正座する。今さっき出ていったばかりだというのに、影の温もりはすでにそこにはなかった。


 なぜだか落ち着かずに、透吾は何度も足を崩して体勢を変えた。思えば、何も影にならってこんなふうになつ紀の間近に座る必要もなかったのだ。つい、成り代わるようにして同じ場所へ座ってしまった。

 後悔したが、今さら後ろへ下がって距離をとるのも不自然だ。なつ紀にも見咎められるだろう。なつ紀の機嫌を損ねるのは、面倒だ。しかたなく諦める。


 ここへ来たとき透吾は、なつ紀が思ったよりも元気そうだという印象を受けたのだが、やはり傍で見ると先ほどには気がつかなかったやつれも見えた。臥せって肉が落ちたせいか顔に落ちかかる陰影は妙に濃くはっきりとしていた。よくよく見れば肌も乾いてくたびれているし、唇も荒れて皮がささくれだっている。


 透吾はにわかに動揺した。

 透吾の記憶のなかのなつ紀とあまりにも違いすぎたせいだ。


 その瞬間、また鼻先に腐臭を嗅いだ気がした。ただ、なつ紀が何の反応も示さないところを見ると、やはりそれは透吾一人の気のせいなのかもしれない。


「姉さん……これ、」


 母から預かったクッキーの包みを紙袋から出してなつ紀の前に差しだした。クリーム色を基調とした長方形の化粧箱に、十字に赤いリボンがかけられている。リボンは箱の上のほうで花びらのように結ばれている。洒落た手土産だ。もっともそれは、病人への差し入れとしてでなければの話だ。


 目の前に差しだされた化粧箱が見えていないわけもないだろうに、なつ紀はそれを無視した。何度呼びかけてもかたくなに答えようとしない。


 いつまでも手元に持っているわけにもいかず、透吾はしょうがなくクッキーの入った化粧箱を部屋の片隅に押しやった。常温で保存できるものだっただけ助かった。なつ紀は何も言わなかったが、透吾がクッキーの箱を部屋の隅に押しやるところをずっと目で追っていた。

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