(九) 影
見知らぬ少年は、透吾が襖を開けて入ってきてもほとんど反応を示さなかった。透吾とは一度も視線を合わせず――そもそもこちらを見ようともしない――当然のようになつ紀の横に座り続けている。
まるでこの部屋のなかには最初から今までずっとなつ紀と少年以外には存在しないのだと言わんばかりだ。自分の来訪を煙たがられているようで、透吾はほんの少し心がざわつく。なぜ透吾が邪魔者扱いされなければならないのだろう。もともとなつ紀の見舞いにもあまり乗り気ではなかったのだ。
居心地の悪さを覚えながら、しかし透吾は進むことも退くこともできないでいた。体の横で、紙袋がかさりと乾いた音を立てた。母から預かってきたクッキーと、透吾自身が見立てて買い求めてきたゼリーだ。先ほどまでほとんど気にしていなかったのに、一度意識してしまうとその存在が急に重たく煩わしいものに感じられてくる。
早くこれを、どうにかしたい。
頭がくらくらとして、透吾は自分が今ひどくのぼせたような感覚に陥っていることを自覚した。気を緩めると床に倒れこみそうだった。できるだけ足先に力を込めて踏みとどまる。
なつ紀がたったひと言、なかへ入るように促してくれればそれで済むはずだった。簡単なことだ。そうしたら透吾も、いつまでもこんなところにぼんやりと立ち尽くしたままでいることはない。しかしなつ紀はもう透吾のことなどほったらかしにして、少年の手からヨーグルトを食べることだけに腐心している。
だんだんと、何かの罰のためにここに立たされているような気分になってくる。それは理不尽な理由で、しかし口答えすることは絶対に赦されないたぐいの罰だ。
見舞いの品だけを置いて、いっそこのまま引き返してしまおうか。どこかで適当に時間をつぶしてから帰れば、途中で役目を放りだして逃げたことが母にばれて咎められるようなこともないだろう。帰路の途中に適当な喫茶店くらいはあるはずだ。当然母から浴びせられるに違いないなつ紀に関する質問には、適当に答えておけばよい。
透吾がそんなことをぐるぐると考えているあいだに、なつ紀はヨーグルトをすっかり食べ終えた。赤い舌の先でゆっくりと唇を舐め、それからようやくその存在を思いだしたようなそぶりで透吾に視線を向ける。
「よく部屋のなかに入ってこられたわね」
待たせたことを詫びるでもなく、平然と話しかけてくる。
「……玄関の鍵、開いてたよ」
「そう。気がつかなかった」
「物騒だよ」
「今度から気をつけるわ」
気のない返事だ。あまり重大なことだとは思っていないのだろう。
「それより、さっきから手に持っている紙袋は私へのお見舞い?」
「……うん。そう」
「袋がふたつあるようだけど」
「片方は、母さんから預かってきたクッキーだよ」
透吾はクッキーの包みを持ち上げてなつ紀に示したが、なつ紀はそれを見るとあからさまに不快そうな表情になった。深く皺が寄るほどに眉をひそめる。
「そっちはどうでもいいわ。こんなときにクッキーみたいにもそもそとしたものは食べたくもないし。それじゃあ、もうひとつの包みの中身は何? おおかた、そっちは透吾が用意してくれたんでしょう」
「……ゼリー。桃と、蜜柑」
「葡萄じゃないのね」
「ごめん。失念していたんだ」
「かまいやしないわ。ちょっと言ってみただけなんだから。ゼリーは好きよ。クッキーなんかよりずっと。お持たせになってしまうけれど、あとでみんなで一緒に食べましょう。人数分、あるんでしょう?」
透吾は少し考えてから、小さく顎を引いて頷いた。
なつ紀の言う「みんな」とは、なつ紀と透吾と、それからさっきからなつ紀のすぐ傍に座って控えている得体の知れない少年のことを指しているのだろう。三人分。ゼリーは二種類をふたつずつ購入してきた。数は足りる。しかし、少年がちゃっかり頭数に入っていることに納得がいかない。少年の存在はイレギュラーでしかない。
少年は空になった硝子の器を持ったまま、ぼうっとなつ紀のほうを眺めていた。相変わらず透吾に目を向ける様子はない。何を考えているのかもわからない。ひどく不気味だった。
「それじゃあ、影。あのゼリーを透吾から受け取って、冷蔵庫にしまってきてちょうだい。冷えているほうがずっとおいしいから。ああ、今手に持っているヨーグルトの容器も一緒に片づけてしまってね。洗って拭いて、食器棚に戻すのよ。それから、玄関の戸締まりもしておいて」
なつ紀は傍らの少年に向かって事細かに指示を出す。
どうやら、「影」というのが少年の名前のようだ。
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