(八) 電話
襖に手をかけてからしばらく逡巡し、それから勢いに任せて開け放った。部屋の中央に布団が敷かれているのが目に入った。布団にはなつ紀がいた。
傍に駆け寄ろうとして、しかしすぐに動きが止まる。結局そのまま一歩も踏みだすことなく入り口で立ち尽くすことになったのは、なつ紀のすぐ横に見知らぬ少年がぴったりと寄り添っていたせいだ。
ダイニングキッチンから続く奥の部屋は畳敷きの和室だった。右側に押し入れがある。部屋の左側にはおもちゃのような折りたたみ式の丸いテーブルと、小さなテレビが畳の上にじかに置かれていた。丸テーブルは本来の用途としてよりも、小物を置くのに使っているようだ。化粧品や筆記用具、雑誌や携帯電話などがごちゃごちゃと雑多に散らばっていた。
その部屋の中央に敷かれた布団で、なつ紀は寝間着の肩にカーディガンを軽くかけて上半身を起き上がらせていた。その隣に行儀よく座った見知らぬ少年は、硝子の器によそわれたヨーグルトをスプーンで少量ずつすくい、なつ紀の口元へ運んでいるのだった。
透吾は最初、なつ紀が自分の布団の隣に何か等身大の人形のようなものでも置いているのかと勘違いした。一人暮らしの物寂しさをまぎらわせるのに人形やぬいぐるみなどはうってつけだろう。人形と見まごうほどに少年の容姿が整っていたせいもある。白い肌に、筆で払ったようなかたちのよい眉と、くっきりと際だつ目鼻、それから赤い唇があった。
なつ紀は少年に差しだされたヨーグルトを
「来てくれたのね。今日来るって連絡はもらっていたから、さっき呼び鈴が鳴ったときにきっとそうだろうとは思ったんだけれど。今、ちょうどヨーグルトを食べていたところだったから。食べ終わるまで少し待っていてもらおうと思って」
「……誰?」
なつ紀の傍らに座る少年について訊ねたつもりだった。母からも、当然なつ紀本人からも、こんな少年についての話はいっさい聞いていない。なつ紀が家事代行サービスでも使って身のまわりの世話を頼んだのだろうか。それにしたって、こんな年端もいかない少年を寄越すはずがない。ならばなつ紀の知り合いなのだろうが、いったいどのような経緯で知り合ってここにいるのか。
しかしなつ紀は少し微笑んだだけで透吾の質問には答えず、少年が口元に寄せてくれたスプーンの上のヨーグルトをまた啄むように口に含んだ。ヨーグルトを飲みこんで
ただ、予想していたよりは元気そうだ。顔色はやや青白いし目の縁も青ずんでいたが、目に見えて具合が悪いというほどには思われない。少なくとも、私死ぬかもしれないと母に電話をかけてきたことが嘘のように感じられた。そんなふうに切羽詰まった様子は見られない。
……そうなのだ。
切羽詰まったのでなければ、なつ紀が母に電話をしてくる道理はない。昨日からのなつ紀の言動は何となく不自然だ。
あるいは昨日の電話は母をからかうなつ紀の遊び心だろうか。そう考えて、透吾はすぐにそれを打ち消した。冗談にしてはさすがにたちが悪すぎるし、何よりなつ紀が率先してあの母に関わろうとするわけがない。母を疎ましく感じているというのに、わざわざ好んで嘘の電話をかけてくるとは思えなかった。
そもそも、母が受けたという電話は本当になつ紀からのものだったのだろうか。母は携帯電話を持っていないから、なつ紀からの電話は自宅の固定電話で受けたはずだ。母はその電話口でなつ紀が名乗るところをきちんと聞いていたのだろうか。
あの母のことだ。
縁もゆかりもない赤の他人からの間違い電話を、なつ紀からの電話だと勘違いしているのではないと、どうして言いきれるだろう。もしもなつ紀ではないまったく別な誰かからの電話だったのだとしたら、その見も知らぬ誰かは受話器を片手に今も助けを待ち侘びているか、あるいはもうすでに事切れているかもしれないではないか。誰にも発見されないまま。その光景を想像して、透吾はぶるりと一度身震いをした。
かぶりを振る。
すべて、ばかげた妄想だ。
現になつ紀は透吾の目の前で、体調を悪くして床に臥せっている。電話は間違いなく、なつ紀からのものだったのだ。透吾は無理遣り自分を納得させて、思考を打ち切った。
それよりもなつ紀の横に座って甲斐甲斐しく世話を焼いている見知らぬ少年のことが気にかかる。てっきりなつ紀は一人で病床に臥しているのだとばかり思っていたし、だからこそ透吾は今日ここへ来るまでのあいだに薄情な自分をたびたび責めもした。
なつ紀と少年との関係はまだわからない。ただ、世話をしてくれる相手がいるのならば、なつ紀が母に電話をする必要性はどこにもないように思われた。……結局、電話のところに思考が戻ってきてしまう。
悶々としているくらいなら直接なつ紀に電話のことを訊ねてみればいいのかもしれないが、先ほどのようにただ微笑して受け流されるだろうことは目に見えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。