(七) 古びたアパート

 この自転車を買ってくれたのはなつ紀だった。


 短大に通う傍らアルバイトで貯めたお金で、高校の入学祝いとしてプレゼントしてくれたものだった。三万円程度のシティサイクルだ。ただ、透吾がねだったわけではない。なつ紀の気まぐれだ。

 事前の相談もなく突然買ってきた自転車をプレゼントだと言って渡されたときにはさすがに面食らった。安い買い物ではない。ただありがたかったのは事実だし、断る理由はなかった。すでに購入してしまってもいる。デザインも透吾の好みに合った。こういうなつ紀の気まぐれはときどきあった。


 もしかすると、母にとってはそれも気に入らなかったのかもしれない。なつ紀が母へ贈り物をしているのは一度も見た記憶がない。母は透吾を妬んで、それでわざと勝手に自転車を使うのだろう。


 地図アプリのガイドを頼りに、透吾は迷わず目的のアパートまでたどり着いた。


 一度通りすぎかけたのは、それが目的のアパートだとはどうしても信じられなかったせいだ。それくらいにそのアパートは古めかしく、朽ちた外観が寒々しかった。築年数が気にかかる。数十年はくだらなそうだ。

 母から伝え聞いていたアパートの名前と目の前に掲げられたアパート名を何度も反芻して確認し、ようやくここが目的のアパートで相違ないのだと納得した。同時に、なかで一人臥せっているなつ紀を思い痛ましくなった。

 薄情者、と口のなかで呟く。


 この朽ちたアパートの二階の突き当たり、二〇三号室がなつ紀の部屋だと聞いている。


 透吾は母から預かってきたクッキーと、自ら新しく買い求めたゼリーの入った袋を抱えなおすと、半ば腐食した手摺りを掴んで軋む階段を一歩ずつ上っていった。一歩足を踏みだすたびに、耳障りで頼りない音が響く。外観から予想されたとおりの寂れ具合だった。


 町と同じく、なつ紀がわざわざこんな古いアパートを選んだ理由がわからなかった。駅から特別近いわけでもなく、好き好んでこのアパートを選ぶメリットなどどこにもないように思われた。家賃との兼ね合いがあるのだとしても、ここよりもましな物件は探せばいくらでもありそうなものだ。


 突き当たりの部屋の前に立ち、部屋番号をしっかりと確かめる。表札は出ていない。女の一人暮らしなのだからそのほうがよいだろう。


 ドアの横に誂えられた呼び鈴を鳴らす。しばらく待ってみたがなつ紀の出てくる気配はなかった。何度か試してみたものの、同じだった。呼び鈴も古びていたためもしや壊れているのかと疑ったが、押してから注意深く耳を澄ませてみれば室内にきちんと響いているのが聞こえた。どうやら壁も薄いらしい。


「姉さん、いる?」


 何度呼び鈴を鳴らしても反応がなく埒が明かないので、しだいにじれてくる。やや強めにノックをしながらなかに呼びかけてみたが、それでもやはり応答はなかった。具合が悪いなか、まさか外出しているわけでもないだろう。

 それでは透吾の来訪をわかっていながら出てこられないほどに容態が悪いのかと危ぶみ、ドアノブを回してみると果たしてそれはあっけなく回った。


 一気に血の気が引いた。


 急激な寒気を覚え、それを振りきるように、靴を脱ぎ散らかしたまま慌てて部屋へと上がりこんだ。靴は揃えて脱ぐようにと昔から母に口を酸っぱくして言い含められていたことを唐突に思いだす。しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。見ればなつ紀の靴も玄関のあちこちに散らばっている。もっとも、従順に母の言いつけを守っていた透吾と違って、なつ紀は母に反発して揃えて脱ぐほうがまれだった。一人暮らしをはじめた今となっては当てつける母も傍にいないが、もう癖になってしまっているのだろう。


 室内も予想を裏切らずひどく粗末な造りだった。明かりが足りないのか昼間だというのにひどく薄暗く、空気も澱んでいるように感じられる。壁紙には何か得体の知れない正体不明の染みが無数に点々と浮いていた。なつ紀が住むあいだにつけたものか、あるいはその前からのものなのだろうか。


 玄関を入ってすぐの空間がダイニングキッチンになっているようだ。左手側にキッチンとシンクがあり、玄関を向いた壁に穿うがたれた小さな曇り硝子の窓からぼんやりと日光が射しこんできている。

 玄関を上がったすぐ横に段ボールがいくつか積み上げられていた。いずれも母が送ったもののようだ。いちばん上の段ボールには伝票が貼られたままになっており、開けられた形跡すらない。昨日母が透吾の自転車を使って郵便局まで出しに行き、届いたばかりのものかもしれない。

 キッチンはあまり広さはないが、部屋の中央には小さめのテーブルと椅子が四脚揃えて置かれている。来客を見越して用意しているものだろうか。玄関から見て正面右奥が風呂場とトイレだろう。正面左奥にもうひと間あるようだ。1DKの間取りである。


 なつ紀が臥せっているのは奥の部屋だろう。


 透吾はゆっくりと奥へ進んだ。床が低く軋み、その床も少し油染みていて歩くたびに靴下がべたべたと床に張りつくような不快感があった。

 一歩進むごとに床に引っ張られるように張りつく靴下の感触に不快感を覚えながら、閉めきられた奥の襖の前まで進む。隙間からわずかに明かりが漏れていた。建てつけの問題なのか、ぴったりと閉められているはずなのに縦に細い空間ができている。


「姉さん」


 襖越しにもう一度声をかけてみる。やはり反応はない。透吾の声だけが室内にむなしく響いた。ただ、襖の向こうには人の気配があるように思う。


 ならば、なつ紀はやはりこの奥にいるのだ。

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