(六) 自転車

 携帯電話の地図アプリを立ち上げて、母から聞かされていたなつ紀が住むアパートの住所を打ちこむ。透吾はなつ紀の住むアパートへは一度も行ったことがないため、当然、そこがどのような場所であるのかもまるで予備知識がなかった。住所も耳慣れず、馴染みがない。

 地図は読めるほうだし、駅からの道のりもそこまで複雑ではないという話だったからおそらく迷うようなことはないだろうが、念のためだ。母でさえなつ紀のアパートへは何度も行っている。母はどちらかといえば地図が読めない。


 駅に降りたときから感じていたことだったが、なつ紀の住む町はひどく寂れた印象だった。ともすれば実家のある町よりも物寂しい。いちおう駅の改札を出たところからすぐ古い商店街のようなものが続いているが、お世辞にも活気があるとは思えなかった。シャッターの下りている店が目立つ。それともあれは廃業しているわけではなくて、もう少し遅い時間になれば開くのだろうか。それにしても、もう休日の昼過ぎだ。

 だいたい駅自体も造りが質素で、風が吹き抜けすぎる。少し強い風が吹くだけで建物全体が軋むようだ。


 なぜなつ紀はこんなうら寂しい町に住んでいるのだろう。


 あのなつ紀が、自ら好んでこの町を選んだということが透吾には意外に感じられた。なつ紀のことだからもっと華やかな場所できらびやかに暮らしているものだとばかり思いこんでいた。


 頭のてっぺんから爪先まで毎日しっかりと着飾って仕事へ行き、仕事が終われば好きなものを買いあさって歩き、夜遅くまでつるんで遊びにいくような派手な交友関係をもっている。

 どれも、透吾の勝手なイメージだ。


 昔のなつ紀の奔放さがなおさら透吾にそう思わせるのだろう。透吾の覚えている限り、なつ紀は身につけるものは常に取っかえ引っ替えしていた。男もだ。


 陽が暮れればこのあたりはたいそう不気味な景色になるだろうと想像し、遅ればせながら一人暮らしのなつ紀の身を案じた。遊びにいらっしゃいと何度誘われても断り続けた自分の薄情さを改めて痛感し、急激に後ろめたくなる。


 母がなつ紀の住むアパートや町並みについてよく言っていなかったことは透吾も覚えている。ただ、なつ紀の一人暮らしを最後まで反対していた母のことだからそこには多分に母の偏った主観が含まれているものだと思っていたし、たとえなつ紀がどこに住もうとも、実家以外の場所であれば結局文句をつけるに違いなかった。そのため話半分にしか聞いていなかったのもたしかだ。


 母は、なつ紀が引っ越して一人暮らしをはじめたばかりのころには頻繁になつ紀の住むアパートへ行っていた。それこそ毎週のように通っていたはずだ。片道一時間半の距離も、可愛い娘に逢うためならば母にとっては苦でも何でもなかったのだろう。

 なつ紀はわざと母がやってくる時間に合わせて部屋を不在にしたりもしたが、母はなつ紀に逢うまでは絶対に部屋の前から動かなかった。待つことも、苦ではなかったのだろう。妙な噂が立っても困るから、さすがになつ紀が折れた。


 だから母は、家族の誰よりもなつ紀の住む町やアパートの事情に詳しかった。なつ紀の部屋の隣人がどんな人であるかや、アパートからいちばん近いスーパーの品揃えや、特売が何曜日にあるかなど、そんな細かなところまで熟知していた。もしかすると当のなつ紀よりも詳しかったかもしれない。


 いつからか通う回数も減ったが、それはなつ紀から苦言を呈されたからだ。過干渉の母から逃れるために家を出て一人暮らしをはじめたというのに、その母が頻繁に通ってくるようでは元も子もない。なつ紀がその存在をいっそう煙たく思うのも当然だろう。

 母の行動が度を過ぎているのは家族の誰の目から見てもあきらかだったから、父も透吾もこのときはさすがになつ紀に加勢した。


 なつ紀本人と男二人から揃って意見された母は、不承不承ながらもアパートへの頻繁な来訪はおとなしくやめた。ただ、今度は食糧品や生活必需品を大量に宅急便で送るようになった。


 段ボールにこれでもかというほどぎゅうぎゅうにものを詰めこんで、近くの郵便局までせっせと出しにいく。重たい荷物を持つと肩と腰がしんどいとしょっちゅう口にして、買い出しにいくときは必ず父に車を出してもらうのに、なつ紀へ荷物を送るときは段ボールを自転車の荷台に積んで颯爽と郵便局まで走る。ものをぎゅうぎゅうに詰めた段ボールはそれなりの重さがあるはずだが、ものともしない。


 それは今でも月に二度ほどの割合で続いている。


 なつ紀がそれをどうしているのかはわからない。受け取ってはいるのだろうが、素直に喜んでいるとも思えなかった。ただ、部屋に通ってこられるよりはまだましだと妥協しているのかもしれない。母のほうでは、なつ紀が喜んでいると信じて疑っていないだろう。


 なつ紀に荷物を送るために母が郵便局まで乗っていく自転車は、もともと透吾のものだ。高校の通学に使っている。電車通学だが、家から駅までの道のりを乗っていくのだ。歩くと少々距離があるから、自転車があると助かる。


 ただ、ときどき母はそれを透吾に断りもなく平気で使う。朝玄関を出たときに、自転車の荷台に段ボールが括りつけられているときは母が自転車を使う日だ。荷台に段ボールがあったら、透吾はその日は自転車での通学を諦めておとなしく徒歩で駅まで向かう。文句を言ってヒステリーでも起こされるほうが面倒だ。それならば黙認しておくほうがよほど俐巧りこうだった。


 昨日も母は自転車を使った。だから透吾は行きも帰りも、長い道のりを歩いたのだ。

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