(四) 母の執着

 重いといっても命に関わるほどではないんでしょう。たまたま頑固な風邪を引いているって、それだけの話なんじゃないの。母さんはいつも物事を大事に考えすぎるんだ。


 だって、電話をしてきたのよ。電話で、もしかしたら私死ぬかもしれないって、そう言うんだもの。


 ……電話、姉さんからだったんだね。


 それはそうよ。だってあの子一人暮らしじゃない。ほかに誰が電話をしてくるって言うの。あの子が、私死ぬかもしれないってそう言うのよ。ああ。だから一人暮らしなんてさせるべきじゃなかったんだわ。


 だからさ、姉さんが自分で電話をしてきたわけでしょう。それなら少なくとも電話をかけるだけの気力はあるっていうことだ。そう簡単に死んだりするもんか。


 死んだり、と口にしたとき母の口元の筋肉がわずかにぴくりと引き攣ったが、透吾は気にしなかった。母にどう思われようと、今ではもうかまわない。ただ、これほどまでに薄情ともとれる言葉を口にしている自分に少し驚きもした。


 とにかく少し落ち着くようにと透吾は根気よく母を宥め、三十分くらいかけてようやく母は落ち着きを取り戻した。聞けば電話口のなつ紀の喋りもしっかりしていたというのだから、二、三日じゅうにどうにかなるほど悪いというわけでもなさそうだ。


 母が透吾の帰りを待たずに家を飛び出していかなかったことは幸いだった。錯乱状態の母が一人で遠出していたら、きっともっと厄介な事態になっていただろう。


 それから父が帰ってくるまでのあいだ、透吾は母に付き添っていた。

 本当は自室で休みたかったが、同じ家のなかとはいえ母を一人きりにしておくのは不安だった。今はどうにか落ち着けることができたが、一人になったとたんまた錯乱しないとも限らない。

 口には出さなかったが、母にしてみても今ばかりは透吾に傍にいてほしい様子だった。こんなときにしか頼られない。


 母と同じ部屋にただ二人きりでいるというのはひどく気詰まりだった。何かくだけた話をすることもできず、ひたすら押し黙ってぼんやりとソファに座っていた。共通の話題などひとつもありはしないのだ。

 沈黙を避けるためにつけたテレビの音が騒々しかった。


 ときどき譫言うわごとのようになつ紀の心配を口にする母を、透吾はそのたび懸命に宥めた。大丈夫、大丈夫だよ。しだいに言葉の意味が崩壊して感じられ、自分が口にしている大丈夫という言葉がどこか知らない異国の言語のように思えてきた。


 夕方になると母はのろのろとソファから立ち上がって台所に立ち、夕食の準備をはじめた。母が包丁を握るたびに何かよからぬことをしでかすのではないかと背筋に緊張が走った。そうかといって、一緒に台所に立とうとしても嫌がられる。


 やがて父が帰宅し、透吾は心底解放された気分になった。


 母はやはり父に電話を入れていたが、父の対処は冷静だった。会社を早退はやびけしてほしいと懇願する電話口の母を説き伏せ、通常どおりに仕事を終えてから帰宅した。それでもふだんよりはいくぶん早い帰宅だった。


 父の姿を見た母はまた少し気持ちが昂ぶってきたのか何か支離滅裂なことを話しはじめたが、父はそれも根気よく宥めた。なつ紀の症状や病院に行ったのかどうかを訊ね、わからないと狼狽える母に、電話をしてくるよりも先にそれを確かめるべきだと指摘した。母は終始うなだれていた。


 父も透吾と同じように、なつ紀は少し厄介な風邪でも引いたのだろうという見解だった。

 珍しく母に電話をしてきたのだって一人きりで急に不安になったからで、そのせいでつい死ぬかもしれないなどとよからぬ考えが浮かんで口走ってしまったのだろうと言う。


 物事をすぐ大事に考えたがる母の悪い癖は、父も承知していた。おそらく昔から、父は母のそういったところを何度も見てきたのだろう。扱い慣れている。


 透吾や父の振る舞いは、母にはひどく薄情なものに映ったらしい。二人の男に露骨に批難めいた視線を寄越したが、二人ともそれを受け流した。


 これでまた、母のなつ紀への執着が強まりそうだ。

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