(三) 玄関先の母
ドア付近に視線を戻すと、黒いワンピースを着た少女の姿が消えていた。
音もなく忽然と掻き消えたのかと一瞬どきりとしたが、きっと透吾の気がつかないうちに隣の車輌にでも移ったのだろう。母親に体を預けて眠っていた男の子がいつの間にか目を覚ましてぐずりはじめていたので、少女はそれを嫌ったのかもしれなかった。
男の子は眠っているあいだに何か怖い夢でも見たらしい。お父さん、お父さんと繰り返し呼んでは泣いた。しかし父親ではなく母親のほうに縋りついている。母親は必死に男の子を宥め、落ち着いたのか男の子はやがてまた眠ってしまった。男の子の隣に座った父親はただおろおろとしているだけだった。まるで役に立っていない。
あの父親はもしかしたら幽霊なのではないかとふと透吾は考え、すぐにばかばかしくなった。真っ昼間のうららかな陽気のなか、息子の隣でただおろおろとしているだけの父親の幽霊など、滑稽だ。
疲れているのだろう。
それは肉体的にというよりも、精神的にだ。
昨日からの母の言動や、これから逢う姉のことを少し深刻に考えすぎているのかもしれなかった。それでありもしないにおいを嗅いだり、少女が掻き消えたように思ったり、子供の父親を幽霊ではないかと疑ったりするのだろう。
少し眠ろうと思い瞼を閉じた。
姉の住むアパートがある最寄り駅に着くまでには、まだ時間がかかる。乗り換えはなく一本で行けるので、途中駅を気にする心配がないのはありがたい。乗り過ごさないようにすることだけ気にかけていればよかった。
しかし透吾の意識はいつになく冴えていて、いっかな眠ることができなかった。脳は疲労しているのに意識だけがいつまでも浮き上がっているような感覚だ。
なっちゃんが病気なんだって。
姉の容態が思わしくないことを知らされたのは、昨日のことだ。
学校から帰ってきた透吾を玄関先まで出迎えにきて、母はそう言った。透吾は面食らった。それは母の言葉をすぐに理解したからではなく、母が玄関先まで透吾を出迎えにきていることに関してだった。
母が関心があるのも、干渉するのも、姉に対してだけだ。透吾に関連する出来事で必死になっている姿などこれまで見たことがない。透吾の帰りを待ち侘びることなどあり得ない。
母は姉が家を出て一人暮らしをすると言いだしたときにもずいぶんと反対したものだ。もう成人しているのだし、家を出ることに今さら問題があるとは思えなかったが、母は最後までそれを
結局姉は、ほとんど家出同然に一人暮らしをはじめた。母の愛情が自分に向けば向くほど、姉は母を疎んじた。しかし母はそれに気がつかない。
玄関先に出迎えにきた母の言葉を反芻して、やはり姉絡みであったことを理解するとようやく気持ちも落ち着いた。ぶれない態度に安堵すら覚えた。
ただ、早く靴を脱ぎたいと思った。
駅から家までわりに長い時間をかけて歩いてきたせいで足は少しむくんでいて、履いた靴のなかには熱気がこもっていた。その熱がひどく不快だった。靴を脱いで早くその不快感から解放されたかったが、母が玄関を塞ぐように立っているために叶わなかった。強引に押しのけることもできない。男の子は野蛮だ、とも言われかねない。
なっちゃんが、と母は繰り返した。病気なの。重いんだって。どうしよう。
どうやら、姉のなつ紀の体調が悪いらしい。
そのことを聞いた母は居ても立ってもいられなくなり、透吾の帰りを一人じりじりと待ち侘びていたのだろう。母は小さな物事にもひどく取り乱しやすいたちだ。ことにそれがなつ紀に関する事柄であればなおさら敏感になる。
なつ紀が少しでも怪我をしたり病気になろうものなら、半狂乱になって病院へ連れていこうとした。大袈裟すぎると父にどんなに
透吾が風邪を引いたときには何よりもまず売薬を飲ませ、布団で安静にしているようにとだけ言った。男の子なんだからこれくらい平気でしょう、と付け加えもした。今どき時代錯誤な人なのだ。
大事ななつ紀が病に倒れ、しかも一人暮らしをしているとあっては母が取り乱すのも無理はない。もしかするとすでに父にも電話をしているかもしれなかった。
……風邪、じゃないの。
そう言った自分の声はひどく冷たく響き、透吾は自分でも驚いたのだ。
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