(二) 姉の嗜好品

 そういえば姉がいっとう好きだったのは桃でも蜜柑でもなく葡萄だったのだと思いだしたのは、電車に乗りこんでからだ。


 いつも粒の揃った色濃くみずみずしいデラウェアを、実を摘んで潰した指ごとしゃぶるように食べていた。姉はわざとその食べかたを好んだ。けっして上品とは言えない食べかただから、たいてい姉のその指先は葡萄の汁に濡れて光っていた。それをすするようにねぶるように姉はデラウェアを食していく。ときおり唇の隙間から赤い舌がちらちらと覗いた。


 葡萄は宝石みたいだから好きよ、と姉はよく言っていた。あの丸い粒のひとつひとつが輝いていてね。ダイヤの代わりに葡萄を嵌めこんだ指輪があったら欲しいくらい。


 私の指のサイズを教えておいてあげましょうかと言われて透吾がそれを断ると、姉はさも面白そうにけらけらと笑った。そうね。教えるんじゃだめよね。見ただけで指のサイズの見当がつけられるくらいになれれば理想的よね。そうしてまたデラウェアを口に運び、姉の指先は葡萄の汁に濡れるのだった。


 葡萄を食べる姉の姿をそれだけ鮮明に思いだせるというのに洋菓子店でそれにまったく思い至らなかったのはしくじったと思ったが、ゼリーを購入することを思いついただけでもまだましだろう。姉は透吾を批難ひなんするかもしれないが、免罪符があればいくらかは言い逃れることもできる。


 車輌に乗りこみ、空いていたいちばん隅のシートに腰かけると、クッキーとゼリーの包みを膝の上に載せた。嵩張るが、何となく網棚に置くことを嫌った。目の届かない場所にやりたくなかった。常に指先で触れて、そこにあることを確かめた。


 土曜日の午前中だというのに、乗客はまばらだった。

 おかげで姉のアパートまではゆっくりと心を落ち着けて向かえそうだ。透吾には何よりその時間が必要だった。

 数少ない乗客たちはみな携帯電話を弄ったり、本を読んだり、連れと楽しそうにお喋りをしたりしてそれぞれの時間を過ごしている。


 すぐ目の前の座席では、小さな男の子が胸にリュックサックを抱えた状態で母親に体を預けて眠っていた。男の子の反対側に座っている男性が父親だろう。ぐっすりと眠っているその寝顔を愛おしそうな表情で眺めていた。これから家族三人でどこかに遊びにいくのだろうか。それはいかにも穏やかな休日の団欒と思われた。


 ただ、男の子の両親がお互いに少しも会話を交わさないことが気になった。母親は時間つぶしに本を読んでいるものの没頭しているわけではなく、ときおり顔を上げては男の子の様子を気にかけている。しかしその反対側に座る父親には一度も視線を向けることがないのだ。喧嘩でもしているのだろうか。


 車内を見渡した透吾は、次にドア付近に立っている黒いワンピースの少女に目を留めた。黒いストッキングを穿いていて靴の先までもが黒く、頭から爪先までまるで漆黒に染まっているかのような異様さを放つ少女だった。今日のうららかな陽気にはひどく不釣りあいでひときわ目を惹くのに、どうして今までそこにいることに気がつかなかったのだろう。


 座席は空いているのに、少女はシートに座ることもなくぼんやりと窓の外を眺めている。単純に座りたくない気分なのか、それともワンピースに皺が寄ることを嫌ってのことだろうか。

 その横顔が物憂げだったので、透吾は誰か大切な人を亡くしたのではないかと勝手に想像した。親か恋人か、それともきょうだいか。


 もちろん実際には少女の身には悲しい出来事など何ひとつとして起こっていなくて、一人で気儘に電車に乗ってどこかへ行こうとしているのかもしれない。あるいは、友人と遊ぶため待ち合わせ場所に向かっている途中なのかもしれない。

 しかし物憂げに窓の外の景色を眺めている少女が楽しげに笑っている姿は透吾にはまるきり想像がつかなかった。想像したくなかったのかもしれない。きっと、これから病床の姉に逢いにいく自分と、少女の境遇とを重ねたいのだ。


 透吾も窓の外に視線をやった。空は憎らしいほどに澄んでいた。


 ふいに鼻先に腐臭を嗅ぎ、透吾は顔をしかめた。


 どこから漂ってきたものかはわからない。透吾の気のせいだったかもしれない。においはすぐにしなくなった。車内に不審物が置かれている形跡はない。幼いころ、祖父の葬式に出たときに嗅いだにおいと同じだと思った。死人のにおいだ。


 晩年はほぼ寝たきりだったが、九十七歳まで生きたので祖父は天寿を全うしたのだと思う。

 幼い透吾は葬式で最後の挨拶をするよう両親に言われて、棺桶のなかに横たわる祖父の顔をおっかなびっくり覗きこんだ。寝ているように穏やかな顔だったが、そのときこれまで嗅いだことのない奇妙なにおいを感じ取った。それが祖父からにおってくるのだと気がつき、これが死人のにおいなのだと幼いながらに透吾は感じた。


 それから数日のあいだはそのにおいのことが忘れられなかったし、ふとしたとき鼻先に実際ににおいを感じることもあった。もちろん、気のせいではあるのだろう。祖父はもう、荼毘に付されてしまった。


 ただ今でもときおりそういう経験があるので、さっきのこともそういったたぐいのものなのだろうと思った。

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