影の栖処
老野 雨
(一) 姉を見舞う
病床の姉を見舞う。
姉が一人暮らしをはじめてからおよそ一年になる。姉の住まうアパートは実家から電車で一時間半ほどの距離にあるが、
昔は
一緒につるみ、しょっちゅう時間を忘れて遊んだものだ。たいてい、姉が透吾を誘うのだった。外で遊ぶよりも室内遊びを好み、子供部屋で、よくトランプに興じた。
神経衰弱が特に姉の気に入りだった。床一面に広げられたトランプで足の踏み場もないくらいだった。透吾は遠くのトランプをめくろうと身を乗りだしたとき知らずに半ズボンから剥きだしの膝で踏みつけてしまい、貼りついたものが剥がれ落ちてよく表になった。それはめくったとカウントされて、結果姉に負けることが多かった。抗議しても、透吾の落ち度でしょうと、にベもない。姉は勝負事に手厳しい。
成長するにしたがって、透吾のほうから徐々に姉と距離を置くようになっていった。異性のきょうだいといつまでも親密にしているものはまわりにほとんどいなかったし、たまにいたとしても、当然のようにからかいの的になっていた。その考えのほうがおかしいのではないかと口にすることは透吾にはできなかった。多数に迎合した。
ただ、姉のほうは変わらない。姉だけがいつまでも弟離れできない。できない、というのは少し語弊がある。たぶん、透吾の心中を承知でわざと執拗にちょっかいをかけてくる。姉には昔からそういうところがある。
こういうの、もうやめにしない。透吾がそう言ったとき、姉はただ
一人暮らしをはじめた姉が遊びにいらっしゃいと声をかけるのは透吾ばかりで、両親に対してはさほどでもない。関心があるのは透吾だけなのだ。母はそれをいたく嘆いている。昔から、二人きりの姉弟のうち姉ばかりを可愛がっていた母だ。それは幼い透吾にすらまざまざとわかるくらい、いっそ清々しいほどに顕著だった。
男の子は理解できない、というのが母の昔から変わらない口癖だ。やっぱり女の子がいいわ。
本当は、子供は女二人の姉妹にしたかったのだろう。ところが二人目は母の意に反して男だった。
かつては透吾も、幼心に母から好かれようとしてあれこれ苦心したのだ。折り紙で複雑に折った虫をプレゼントしたり、少しでも一緒にいるきっかけがほしくて本を読んでくれるようせがんだり。そのどれもが
私は虫が嫌いだし、透吾が選ぶ本の内容はどれも理解ができない。どうしてあの子は私の嫌がることばかりするのかしら。頭が痛いわ。母が父にそう愚痴っているのを聞いてしまった。
透吾はただ難しい工程を経て折った折り紙を褒めてもらいたかっただけだし、主人公が本の世界で冒険する臨場感を母と一緒に味わいたかっただけだ。しかし母には何も響かなかったばかりか、神経を逆撫ですることになった。
それから透吾が何かをするたびに、母の透吾を見る目はだんだんと冷たくなっていった。そのうちに透吾も母からの見返りを諦めた。母はただ透吾を理解できないと嘆くばかりで、けっして歩み寄ろうとはしないのだ。それに気がついてから、しだいに母を苦手に感じるようになっていった。それは今でも変わらないが、高校生になった透吾は、もう母をそういう人なのだと割りきることができる。
それよりも姉だ。
まさか一人暮らしをはじめてから一年足らずでこんなふうに具合を悪くするとは思ってもいなかった。透吾の知っているかつての姉は行動力があり勝ち気で、自己管理もきちんとこなせる人だった。もともとの体も丈夫で病気とは無縁のように思えたし、だから何度誘いを受けてもあえてわざわざ顔を見にいく必要性もないだろうと考えていた。
見舞いの品には何か喉越しのよいものをと思い立ち、電車に乗る前に地元の洋菓子店で果物入りのゼリーを買った。淡く繊細そうな色合いの白桃と、みずみずしい蜜柑。それをふたつずつ購った。姉一人の見舞いにしては
出がけに母から見舞いの品を預かってはいたものの、中身はクッキーだと言っていた。具合が悪いのにクッキーのようにもそもそとしたものは食べにくいだろう。病人に渡す品としておよそ適切とは思えない。母はどこかずれている。
何より、元気なときでさえ姉が好んでクッキーを口にしていた記憶がない。たしか姉は水気の少ないものをあまり好まなかったはずだ。姉のことを大事だというわりに、母は姉の好き
託されたクッキーだけを見舞いの品として持っていってもよかったが、それでは姉が気に入らないだろう。そしてそれは母ではなく、透吾の落ち度になる。姉もまた、そういう人だ。
ふだん自ら嗜好品を買い求める習慣のない透吾はこういうときに使う気の利いた店などいっさい知らなかったから、店構えを見て目についた適当な店に入った。予備知識がなかったにしては洒落て雰囲気のよい洋菓子店で、透吾は安堵した。
店内には落ち着いた音楽が耳障りにならない音量で流れていた。ショーウインドウには見た目も可愛らしい洋菓子がいちばん見映えのする角度で陳列されていた。趣向を凝らした鮮やかなデザインのケーキに目を奪われた。プリンやシュークリームもあった。
目移りしてなかなか品物をこれと決められない透吾に店員の女の子は何を言うでもなく、カウンターの内側で微笑みながらじっと様子を窺っていた。下手に話しかけられてもあせるばかりでよけいに決められなかっただろうから、透吾にとって女の子の振る舞いはありがたかった。彼女の笑顔はとても感じがよかった。
結局白桃と蜜柑のゼリーに決めて女の子にそれを告げると、箱にお入れしますか、と訊ねられた。贈答用の箱がいくつか用意されているのだった。やや考えてから頷いた。クッキーと一緒に渡すにも、箱入りのほうが釣り合いがとれるだろう。
ゼリーはきれいに箱に並べて詰められ、薄い青色の包み紙で包まれた。包装紙の端は小さめの金のシールで留めてある。派手すぎず、そうかといって地味でもない適切さの感じられる包装だった。控えめに店名が印刷された白地の紙袋に入れられたそれをカウンター越しに受け取る。
清潔な土産物のゼリーと、清潔な制服の店員の女の子。香水か体臭なのか女の子からも甘い果実のにおいがして、透吾はそれに少し酔った。ここは彼女にとても似合いの職場だと感じた。
店を出るとき、透吾は店員の女の子が胸元にしていた名札を盗み読んだ。桃園、と書かれていた。その名前も、女の子にとても似合っている。
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