彼が吸っていた煙草の話
空峯千代
彼が吸っていた煙草の話
彼が言うには「煙草は天への祈り」であるら彼が吸っていた煙草の話しい。
「煙草に火つけてさ、吸ってると煙が空に上がってくじゃん。そうやって昇ってく煙に祈りを込めると天に届くんだとさ」
じいちゃんの受け売りだけど、と話す彼の顔はどことなく嬉しそうだ。
「じゃあ、神山くんは何を祈ってるの?」
「んー。内緒」
私にいたずらっぽく笑いかけて、指の間に挟んでいた煙草を吸い直す彼の横顔。
その時、暗くなりかけた空と端正な顔立ちが組み合わさって、一枚の絵画みたいだったことを私は覚えている。
神山くんは、俗にいう不良だった。
うちの高校に不良らしい不良は彼一人で、それだけ注目の的になる。
特に、授業に出ても居眠りか途中で退出するかの彼のいい加減さは、進学校として名前の通っているうちの高校では眉をひそめられた。
それでも、彼は周りの視線なんてどこ吹く風。
「なにか問題ありますか」とでも言うような態度で、授業途中に教室から出ていく。
ただでさえ教室にすら長くいない彼と、まさか学校外で会うとは思いもしなかった。
「あれ、飯田じゃん」
さらに意外なことに、彼は私の顔と名前を覚えていた。
学校に来ては寝ているだけの彼に、クラスメイトの名前を呼ぶことがあるだなんて。
「しかも、何してんのそれ」
「えっと、家の手伝い。私の家、肉屋やってるから」
私は、店用のエプロンと頭巾を被った頭を今更に意識した。
可愛らしいとはお世辞にも言えない格好をクラスメイトに見られたこと。
それも、顔立ちの整った神山くんに見られたことで二重のショックを受けてしまう。
「へー、えらいね」
神山くんは、喫煙所で手に持っていたそれを口元に持っていった。
人差し指と中指の間に挟まった一本の煙草。
火がついている細いそれから、苦い香りが煙とともに漏れ出ている。
「ここ、煙草屋だったんだけど昔潰れてさ。喫煙所だけ残ってるからたまに使ってんの」
知ってる、と言いかけてやめる。
彼の言いたいことは、ここになぜ喫煙所があるのかじゃない。
つまりは、「ここで自分を見かけても見逃してくれ」ということ。
「そうなんだね」
私は、「いいよ、黙ってる」と心の中だけで彼の喫煙を肯定した。
神山くんは、相変わらず喫煙所にいた。
彼の吐き出した煙が白いグラデーションになって、揺れ、宙に消えていく。
未成年なのに、なんて言葉が野暮に思えるくらいその景色が綺麗に見えて、気づけば家の手伝い中に眺める楽しみになっていた。
私は、彼を店内のカウンターから眺めている。
彼は、たまに私の顔を見て、二、三言話したら帰っていく。
学校で顔を合わせている同級生の、皆には見せない秘密の一面。
その一面を私が知っていることが、そして皆には見せない姿を神山くんにだけは見せていることが、なんだか誇らしかった。
「飯田さんは吸わないの?」
彼の咥える煙草を見つめていたからか、神山くんは一度だけ煙草をくれようとしたことがある。
「私はいいよ。吸うのちょっと怖いし」
私の返事を聞いて、神山くんは少しそっけなく「そっか」と答えた。
たった一言気のない返事を返されただけで臆病になってしまう私は、彼のリアクションを反芻しながら表情を窺う。
「ごめんね、気分悪くした…?」
煙草を断ったことが気に障ったかも。
そう考えていた拍子に、神山くんが「ふふっ」と笑った。
「そんなことで機嫌悪くならないよ、考えすぎ」
飯田さんはやっぱり真面目だよね、と無邪気な笑顔でこちらを見てくれたことに安堵する。
「できるなら煙草吸わない方がいいと思うし。飯田さんはそれでいいよ」
そう言いつつ、彼は煙草を吸う。
「飯田さんはそれでいい」とは、どういう意味なんだろう。
私は吸わなくて良くて、神山くんだから吸ってもいいわけじゃなくないかな?
言わなくてもいい言葉が頭を過る。
無数の言葉が頭を泳いでいくとき、私は言葉をあえて流したままにする。
そうすれば、思考はそのまま流れていくから、いつの間にか過ぎ去っていく。
「だよね、私はいいや」
喫煙所で彼を見かけるようになってから、私にいくつか変化があった。
ひとつは、夕方にある家の手伝いがそれほど苦じゃなくなったこと。
もうひとつは、学校で過ごす神山くんをつい目で追ってしまうこと。
神山くんは、私には自由に見えた。
授業中に教室を出ることもそうだけど、保健室に行ったり、屋上で寝たり。
知れば知るほど、自由人の問題児に見えて仕方がなかった。
なのに夕方に喫煙所で会う彼は、どこか不自由そうに見える。
それは、煙草を吸うときに彼が言った「天への祈り」に関係があるのかもしれない。
それとも、私が煙草を吸えばわかることなのかも。
頭に浮かんでは消えていくあれこれを、私はまた流した。
「今日も手伝いなんだ。えらいね」
そういう神山くんは今日も吸ってるんだね、煙草。
口には出さずに、彼の吐き出した煙が消えていくところを見ていた。
「……神山くんはさ、なんで煙草吸ってるの?」
これまで、私は彼にたわいのないことしか言ってこなかった。
今日の現国はなんか眠かったね、とか。
たまにはうちのコロッケ食べてみなよ、とか。
わかりやすく彼の内側に踏み込む質問をしてこなかった。
神山くんは意外そうな顔で私をじっと見つめている。
それでも、左手の指の間からは細い煙草が煙を吐き出している。
「なんでだと思う?」
「質問に質問で返すのやめようよ」
私ははぐらかされたことにむきになってしまったかもしれない。
口調にとげとげしいものが混ざった。
「だって、苦しいからさ」
神山くんの口が動く。
「普通に学校行くだけで苦しいから。だから、帰る時に全部煙にして吐き出してんの」
そのついでに祈ってるんだよ、と小さな声が聞こえた。
祈ってるって何を?
そう聞き返していいものか迷って、やめる。
視線の先にある彼の顔があまりにも苦しそうだった。
「まともになれますようにって。じっと椅子に座っててもアガりませんようにって。そう祈りながら煙草吸ってるんだよ」
神山くんの顔が歪んでいく。
彼の目がこちらを射貫くように見つめてきた瞬間、私はまた間違えんだと直感した。
彼は吸いかけの煙草を喫煙所の灰皿に捨てて、去っていった。
水に落ちてじゅうと火の消えた煙草の音を、その日の夜になっても私の耳は覚えていた。
なんでも聞いてはいけないんだと、幼いころの私は知らなくて。
理解できていなかったから人が離れていって。
だんだん、聞いていいことと聞いちゃいけないことの線引きができるようになった。
その間合いがわかって、理解した先に、私を待っていたものは人への無関心。
私は誰かに個人的な話を聞かない代わりに、誰にも興味を抱けなくなってしまった。
普通、あたりまえ、みんな。
よくわからないのに、なんとなく全員の頭にある共通認識が私を支配するようになって。
そこから、私のものさしは私自身じゃなくて、みんなが基準になってしまった。
だから。だから、彼が羨ましく見えた。
みんなと違うことを堂々とできて、それを気にしたふうでもない彼に一種の憧れを抱いていた。
「早紀、もうお店開けてー」
「はーい」
教室に溶け込むように、親が困らないように、和が保たれるように。
自分の輪郭をぐにゃぐにゃにしていた私は、あまり自分の頭で考えてこなかった。
「神山くん」
これは、抵抗。
「煙草、一本、ちょうだい」
自分でしたいことを口に出した。
みんながやろうとしないことに自分から手を出した。
初めて、カウンターを越えて神山くんの隣に立った。
「いいよ」
神山くんは、私の意思を汲み取るかのように視線を投げてくる。
好きなようにしなよ、そんなふうに言っているように見えた。
彼は煙草を紙箱から取り出して、その一本を私に「ん」と手渡した。
口元までおそるおそる持っていくと、神山くんがライターを取り出す。
今にも落としてしまいそうな緊張と、身体に悪いと知っているそれを口に含む背徳感。
指先に纏うそれらを感じながら、私はようやく先端に口をつけた。
「軽く吸ってみ」
「ん」
神山くんの持つライターが、煙草の先端に伸びる。
「いいよ、吸って」
彼の合図で私はほんの少しだけ唇に力を入れて、息を吸うときと同じようにしてみる。
すると、ライターの火が私の呼吸に反応して、剥き出しの茶色が橙に燃えた。
「軽く吸って、最初は吸い込まずに吐き出してみて」
神山くんが隣で吸い方を教えてくれる。
「また間をおいて吸ってみて、今度は口の中に煙を転がして」
言われた通り、口の中で煙を留まらせて、すこしだけ遊んでみてから空中に還した。
「全然咳込まないね。飯田さん、才能あるかも」
「煙草の才能があってもなー」
神山くんの顔を間近で見ると、結構あどけない。
煙草を吸うシチュエーションで大人びて見えただけなのかも。
この時、何度も学校で会っている彼を初めて同い年の男の子だと実感した。
煙草ってどこで買ったの、というか親は知ってる?
父親の部屋からくすねてたらバレてたまにくれるようになってさー…。
放課後に喫煙所で煙草を吸っている高校生なんて、健常ではない。
大人に見られでもしたら許されないようなこの時間を、ゆらゆらと漂う煙が隠してくれないかななんて。初めての一本に私はそんなことを祈った。。
彼が吸っていた煙草の話 空峯千代 @niconico_chiyo1125
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