第3話




          †


 朝食をとり終えると、次に何をどうしたらよいのか判らなくなった。


 なんといっても、相手は金太郎な梅村さんだ。人語をしゃべる犬を連れておおっぴらに表を歩くなんてできないし、誰かに見つかってセンセーショナルなことにでもなったりしたら、へたすると金太郎がイタコ犬にされてしまう。


 かといって、2人(2人?)で部屋にいても、すぐに何かすることなんて見つからない。さて本気でどうしようかと思っていると、梅村さんが「ところで美和ちゃん」と、声をかけてきた。


「はい?」

「美和ちゃん、なんか予定とかなかったのかい?」

「といいますと」

「今日は土曜で、明日は日曜だ。なんか約束とか買い物とか、あったんじゃないのかい? もしなんだったら、俺のことは気にしなくていいから、出かけてくれよ」

「はあ、まあ食料品の買出しなんかは行こうと思いますが、他には特に何も」

「そうかい? ならいいんだが……」


 どうやら、わたしは梅村さんに、わたしが気を使ってここにいるのだと思われ、気遣わなくていいと気遣われたらしい。


 いいのに。金太郎な梅村さんと向き合っても、正直何をしていいのかわからないし、会話の糸口もまだ上手に見つけられないけれど、十分しあわせなのに。


 わたしは、今が十分に嬉しいのに。


 実は、会社は辞めることが決まっていた。

 長年勤めた金属製造の会社で、仕事は生産管理。といっても、実質は雑務から何からこなさなければならない繁忙部署で、しかも小さな会社の常で人手は足りなくて給金もはずまないのに、ひたすら忙しかった。それでも続けてこられたのは、ひとえに社長の人柄のおかげだ。従業員以上に身を粉にして働く彼のことを尊敬していた。


 田舎で自営業をしていた、父の背中と重なった。


 その父は早くに亡くなり、わたしは祖父母に育てられた。祖父母は未だに健在で、元気で田んぼに出たり、ぶどうを育ててワインを醸造したり、おまけになんだか若い女性企業家と結託して甘味の強いぶどうを使った、女性向けエステセラピーまでやっているらしい。二人とも、生命力に満ち溢れている。


 母は、わたしを産んで間もなく亡くなった。実は、わたしを妊娠中にある病気が発生していて、そちらの治療を優先させることを医師からは勧められていた。しかし、そうするにはわたしを中絶せざるを得なくなる。母は治療を拒否し、むりをしてわたしを産んで、そして亡くなった。


 わたしは、母の病気の大本を感染する恐れがあったので、生後間もなくから定期的にワクチンを投与されつづけたが、うまく受け付けず、母と同じ病の種を懐に忍ばせて生きることになった。


 いわゆる、感染状態だけが続いていて、病気の発症はしていない。


 母から受け継いだものなので、この病をもっていること自体は嫌っていない。恨んでもいない。ただ、おかげで人と深く踏み込んだ付き合いを持つことは避けて生きてきた。


 積極的に知られたくないことも事実だが、話していいと思えるほどのつきあいになる人間ができなかったことも事実だ。


 だから、というわけではないのだが、わたしの生き方というか、人生感というものは、なんとなく人様のそれよりも地に足が着いていない性質のように思える。


 なまけているわけではないが、今一つ必死ではない。


 人生に対して無頓着なわけではないが、老後までを現実的に想像することができない。つまり、いわゆる世間の主流に乗らなければと言う切実さがないのだ。最初からあきらめている、と言いかえてもいいかも知れない。


 そう、例えるならば、わたしの人生は、生ぬるい湯船にたゆたっている、プラスチック製のアヒルに似ている。それはつまり、わたしという人間のさががそうだということだ。


 いつかは死ぬ。


 それは全ての生命に与えられた唯一平等な権利であるけれど、わたしにとってそれは、すこしばかり人様のそれよりも肌に寄り添っている現実なのだ。まるでなついた猫のように、するりと尾を巻きつけてくるような。


 だけれど。


 尊敬の対象だった社長に結婚を前提とした交際を申し込まれてしまい、わたしは途方に暮れたのだ。


 うまくかわせなくて、こちらの考えを素直に伝えたら、「そんな後ろ向きな考えはまちがっている」と説得がはじまった。


 周囲を巻き込んで、押し寄せる鉛がずしりと重たくなって――わたしは、逃げることしかできなくなってしまった。




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