第2話
†
翌日、「おはよう
一瞬夢の続きかと思ったが、3秒後に昨夜のことを思い出してため息が出た。夢じゃない。これは金太郎な梅村さんだ。
「美和ちゃん、散歩だ、散歩。散歩行こう」
「……梅村さん。寒いです。しかもまだ6時です」
「俺は金太郎をいつもこの時間に散歩に連れてってたんだよ。金太郎の体がそうなってんだ」
ううとか、ああとか、みっともないのは承知の上で、それでももそもそとうごめきながら、仕方なく布団からはいでた。土曜日に、平日よりも早い時間に起こされるなんて、昨日の帰宅時には想像もつかなかった。
「梅村さん。着がえるんであっち向いててください」
「おっと、失敬」
コートを着込んでマフラーをまいて、毛糸の帽子をかぶったところで、フン取り用のふくろやスコップなんて都合のいいものを今の自分は持っていないことに気づく。
「梅村さん、お散歩セットはどこですか?」
「金太郎の小屋の裏にまとめておいてあるよ。リードもだ」
言われた場所からお散歩セットを手に入れて、さくら荘を出発した。
表に出たとたん、冬の朝の寒さが肌を刺した。がくがく震えながらするあくびは、肩の凝りを余計に悪化させてくれる。
「美和ちゃん美和ちゃん」
はぁはぁと白い息を吐きながら、リードに繋がれた金太郎な梅村さんがふりかえる。
「金太郎な、もう心臓にもガタがきてるし、肺にも水がたまってんだ。そんなに長い散歩はいらねぇから、10分程度で戻ろうぜ」
「はい」
どっちが主人なんだかわからない会話をしながら、わたしたちは歩いた。まだまだ空は暗い。星も月も出ている。空き地の草は霜で凍りつき、吐く息は白いし、喉は痛いし、鼻までマフラーで巻きつけた。
「梅村さん、足とか痛くないですか? 肉球むき出しなのに」
「ああ、まあちょっとはな、痛いかな。でもそれより、犬の視界がこんなに悪いもんとは思わなかったよ」
「犬って、色盲だっていいますからねぇ」
「まぁそれもあるけど、年のせいだな。金太郎、白内障でさ。ほんとに見えてないんだ」
「そんなに?」
「ほとんど臭いだけが頼りだな」
「じゃあさっきも、梅村さんの前で私着替えても見えてなかったんじゃ」
「そこはさすがに俺も配慮する」
区画を一周歩いた程度で、わたしたちはさくら荘に戻った。ふんの始末をして部屋に戻る。部屋にあげる前に、金太郎な梅村さんの足をタオルでぬぐった。その時にかいだ臭いは、まちがいなく金太郎の臭いだった。それで、すこしだけまた淋しくなった。
これまで数えるほどだけれど、梅村さんとすれ違った時にかいだ匂いがある。白檀の香りだ。それは、少し、はにかんだように笑う梅村さんの横顔と、常に共にある香りで、なんどもなんども、たまらないくらいに胸をかきむしられたものだ。記憶の中の香りが思い出されて、一瞬鼻の奥が熱くなった。
足をふくと、金太郎な梅村さんは、当たり前のように昨日と同じ座布団にお座りした。
「美和ちゃん、出汁巻き卵が食いたいよ」
「梅村さん、金太郎にそんなもの食べさせていいんですか?」
「俺にドッグフードなんか食わせないでくれよ。金太郎は俺の晩酌にだって付き合えた酒豪だぜ、肴だってマグロの赤身だ」
「わかりました」
なんだか気分がのってきたので、わたし自身も本格的にしっかりした朝御飯を食べたくなった。
「シャケのハラミはお好きですか?」
「あるのかい? 実は好物なんだよ」
「お味噌汁はどうします? うち、祖母の手製の味噌なんで、お口に合うかわかりませんけど」
「お、うれしいねぇ。実は麩と若布がいいな」
「お漬物、はりはり漬けだけなんですけど」
「上出来上出来。美和ちゃん、朝は和食かい? パン食だとばかり思ってたよ」
「休日だけですけどね。平日はどうしても朝忙しくて」
味噌汁用の湯を沸かして、実を切ってとしているうちに、窓の外はもう明るくなってきている。
「あ、梅村さん」
「ん?」
振り返ると、金太郎な梅村さんは畳の上に新聞を広げて一面を読みふけっていた。その姿に噴出しそうになったが、寸前のところでこらえた。
「ハラミが好物なのは金太郎? それとも梅村さん?」
金太郎な梅村さんは、一瞬黙って、「俺です」と生真面目な声で答えた。
梅村さんの好みを、一つ知った朝になった。それが妙にうれしかった。うれしくて、苦しかった。
出来上がったおかずをちゃぶ台にならべて、あたたかな炊き立ての白米をお茶碗に盛り付けて、お味噌汁を椀によそって、わたしは手をあわせて、梅村さんは律儀に頭を下げて、「いただきます」を言った。
どうみても当たり前じゃないけれど、それは間違いなく幸せな朝の食卓で、ちょっとばかり変則的なのだけれど、わたしははじめて好きな人と朝を向かえ、散歩をして、そして朝食をとっているのだ。
梅村さんはなんといっても金太郎なので、食べやすいように、かつ梅村さんが恥ずかしくなく食べられるように、盛り付け方や器なんかも、ちょっと工夫して選んでみた。
食べている間中、金太郎な梅村さんはずっと無言で、ちょっとびっくりするくらいにキレイに食事をしてくれたのだけれど、最後の一口を食べ終わり、少し冷ました暖かいお茶を飲みきったあと、「ぜいたくな
それは、本当に、とてもうれしいことだった。
だからこそ、ちょっとだけ目頭が熱くなった。
わたしは、何とかそのことに気づかれないように、笑ってうつむくばかりだった。
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