さんぽみち。

珠邑ミト

第1話




「美和ちゃん。美和ちゃんだろ? よかった助かった。とりあえずこの鎖、はずしてくれねぇかな?」


 わたしを見上げながらそう言ったのは間違いなく金太郎きんたろうで、だけどその声は梅村うめむらさんのものだった。だから、わたしはぽかんと口をあけたきり、言葉を失った。多分仰天していたのだと思うけれど、なんだかのどかに驚いてしまって、悲鳴をあげそびれた。


 あげなくてよかったとは思う。なにせそれは夜の8時半のことだったから。


 金太郎は梅村さんが飼っていた柴の雑種で、オスで、16歳だ。日本犬独特の、密集した毛の生え方をしている。もう大分ご老体なので、毛色はずいぶん白っぽくなった。だけど、金太郎は犬だから人の言葉は話せないはずだ。これまでも人間の言葉を話しているところなんぞ聞いたことがない。だけど、今わたしの目の前で、金太郎は人間の言葉を話していた。しかも、梅村さんの声で。


 仰天しながらも、わたしは金太郎が(梅村さんが?)つながれている鎖をはずし、ついつい自分の部屋に彼を引き入れ、こんな暮れも差し迫った12月の夜じゃあ、いかに金太郎の体でも寒かろうと、熱い玄米茶まで淹れて出してしまった。ばかだったかも知れない。でもそれだけ驚いていた。


 ちゃぶ台を間にはさみ、わたしたちはわたしの部屋で向き合い、しばらく沈黙した。


 金太郎な梅村さんは、ちょこんと、座布団の上に大人しく座っていた。


「あの、梅村さんですよね?」


 おずおずと質問すると、金太郎な梅村さんはこっくりとうなずいた。


「梅村です。ここの一階に住んでいました、梅村うめむられん次郎じろうです」

「でも」

「いや、美和ちゃんの気持ちはよくわかる。俺も仰天してるんだ。なんせ、気がついたら金太郎になってんだもんなぁ。ほんとにびっくりしたよ」

「じゃあ、あの、梅村さんは……」

「ん? なんだい?」

「あの、ご存知なんでしょうか? その、梅村さんが」

「俺が死んでるってことかい?」


 今度はわたしが、こっくりとうなずく番だった。


「脳卒中だってなぁ。いやぁ、呆気ねぇもんだな、人生が終わるってのは」


 金太郎な梅村さんは、感慨深そうな顔で、ふっと鼻息をもらした。


 梅村さんとわたしは、駅前の商店街筋の、さらに奥まったところに建っている、ここ「さくら荘」の住民である。住宅街の中に建っているので静かなのと、あと旨い肴がある一杯飲み屋が多いことが利点だ。難点は、なにせ古い木造アパートのことなので、若干かび臭い。あとは晴れた日でもなんだか洗濯物が乾きにくい気がする。この辺りはもともと湿地を埋め立ててできているのと、地下水が豊富なので、水気が多いのだ。梅村さんは一階に、わたしは二階に部屋を借りており、他にも3人住人がいる。


 梅村さんが亡くなったのは、一週間前のこと。古い木造アパートなので、彼が夜中に倒れたバターンという物凄い音は、住民全員をたたき起こすのに十分なボリュームだった。


 慌てて飛び起きた大家の佐倉さくらツネコさんが鍵を開けると、案の定梅村さんが中で倒れていた。引っくり返った時に食卓の角で額を打ったらしく、血を流していた。すぐに救急車がきたが、搬送途中で脈が止まり、そのまま息を引き取った。



 独身で家族もなかった梅村さんは、荘のみんなと仕事仲間に見送られて荼毘だびに付された。享年58歳。早すぎる死だった。彼のお骨が納められた骨壷は、今大家さんの部屋に置かれている。


 一階に住んでいた梅村さんの部屋には縁側がついていて、小さな庭に面しており、金太郎はその庭で飼われていた。梅村さん手作りの小屋に住み、無駄吠えもせず、近所の人たちみんなに可愛がられている犬だ。


 さくら荘の前に捨てられていたダンボール箱の中に、生後間もない金太郎はいた。引き取り手は見つからず、そのまま金太郎は、さくら荘の一住民になった。だから本当は梅村さんの、というより荘の犬なのだが、朝晩の散歩もエサやりも、ほとんど全て梅村さんがやっていた。だから誰しも金太郎は梅村さんの犬だと思っていた。


 どうやら今、その金太郎の中に、死んだ梅村さんがいるらしい。


「ええと。なんだか状況は受け入れにくいんですが、金太郎の中に梅村さんがいるんですね?」

「そういうことらしいなぁ」

「あの、わたし、さっきは金太郎がおなか空かせてるんじゃないかと思って、様子見に行ったんですけど、梅村さん、おなか空いてないですか?」

「ああ、こいつも年だからかなぁ。腹は減ってねぇんだ。とりあえず、今日はここで休ませてもらっちゃだめかい? 若い女性の部屋に上がりこむってのは、さすがにまずいもんかなぁ」

「いえ、構いませんが。だって梅村さんですけど、金太郎ですから」


 金太郎な梅村さんは、ちょっと変わった感じの表情をうかべて「すまんな」と頭を下げた。


 本当は、ちょっと緊張していた。


 部屋の明かりを消して、金太郎な梅村さんに毛布をかけて、わたしは自分も布団に入った。金太郎な梅村さんはあっという間に眠りに落ちて、部屋の中には久しぶりに自分以外の人(犬か?)の寝息が響いていた。金太郎な梅村さんは、時々「ふごっ」といびきをかいた。


 しんと冷え込んだ空気が室内に満ちている。わたしは必死で布団を体に巻きつけた。


 さっき梅村さんに言ったとおり、わたしは金太郎の様子を見に庭に降りたのだった。お葬式が終わってから、さくら荘はしんと静かになってしまっていた。飼い主に先立たれた16歳の老犬のことを思って、というだけではなかった。


 わたしは、20も年上の、この梅村さんが好きだった。寡黙で、でくわすと丁寧に頭をさげるばかりで、でもちょっと恥ずかしそうに笑う、この父親ほども年上の男の人が、ほんとうに好きだった。亡くなってすぐはあんまりにもショックが大きすぎて、何も感じられないようになっていて、今夜、夜の冷たさと静かさに心がしんとしてしまって、はじめて「ああ、本当に梅村さんは亡くなってしまったんだ」と理解したのだ。だから、そこではじめて金太郎のことを思い出して、同じく梅村さんを失ったもの同士、一緒にめそめそしようとして、庭に出たのである。


 そうしたら、金太郎が梅村さんだった。


 一体、何がどうしてこうなったのかはわからないけれども、今、わたしは梅村さんと同じ部屋で横になっている。うれしいのやら、なんなのやら、なんとも表現しがたい心地なのだけれど、梅村さんと向き合ってお茶を飲んでお話をするなんて、彼の生前には一度たりとてなかったことだ。


 世の中にはふしぎなこともあるものだよなぁ。


 普通はないよ、フツウは、という心の底からの声は無視して、眠りにつくことにした。


 考えても答えの出ないことは、考えても仕方がない。



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