5
部屋の中に、黒い霧とも靄ともつかないものが漂っていた。幻覚だろうか。要領を得ないマイケルの身の上語りを聞きながら、ケイの現実感は急速に遠のいていた。マイケルの口許にのぞくかわいらしい犬歯が妙に尖って見えるのも、大きな瞳が赤く禍々しい光を帯びているのも、すべて気のせいだと思いたかった。
「……それで、今、ルークは何処にいるんです」
「ここにいるよ。ルークはパパやママと違ってぼくをひとりにしないもの。いつも一緒だ。ねえ、ルーク? ルーク!」
黒い霧が天井のあたりで一塊になり、部屋の一角に影のように凝り固まったかと思うと、そこに少年の姿が現れた。メアリーが小さく叫び声をあげる。ケイも思わず「神よ」と呟いた。ミケランジェロの天使画から抜けだしてきたような少年は、マイケルに歩み寄ると溜め息を吐いた。
「僕のことは大人たちには秘密だよってあれほど言ったじゃないか、ミッキー」
「だって……我慢できなかったんだ。怖くて」
「何が? 怖いことなんかない、ただの十字架じゃないか。……確かに、そこにいる神父は一筋縄ではいかなそうだけど」
ルークは血の色の唇を吊り上げた。メアリーが声もなく崩れ落ちそうになり、ケイはあわてて手を伸ばして体を支えた。クリスは顔色ひとつ変えない。
「はじめまして。クリストファー・オキーフ神父」
「D
「先ほど彼が申しましたよ。わたくしの名はルークだと」
ラテン語で訊ねたクリスに、ルークはふっと笑って英国風の美しい英語で答え、挑戦的に十字架を見た。
「
「ルーク、お前は何者ですか。主イエス・キリストの御名において真実を答えなさい」
「僕は悪魔じゃない。……まあ、神のしもべでもないけれど。わかってるんじゃないの? そうじゃなきゃ、その人を連れて来ないでしょう」
ルークが不意にケイを指さした。
「こんばんは、ケイ・アッシュ教授」
「……どうして、俺の名前を」
「吸血鬼にちょっと興味があれば、誰でも知っているよ。ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』をはじめ吸血鬼を扱った文学がご専門、映画や伝承に至るまで吸血鬼研究の第一人者だ。お会いできて光栄ですよ」
変声期も迎えていないボーイ・ソプラノで、ルークは大人と同じ口をきいた。
「あなたは仲間うちでもちょっとしたアイドルだよ。目のつけどころが鋭いのと、ほとんど吸血鬼の実在を疑っていないようなファナティックな論文を書いているっていうんでね。実際、仲間の誰かと知り合いなんじゃないかという噂もたっていたけれど、……その様子だと本当にいるとは思っていなかったみたいですね? ふふふ、僕らも自衛のために、人間たちにどう見られているかはまめにチェックしているんですよ」
やはり吸血鬼だった。この期に及んで、ケイは衝撃を受けた。ここに至るまでケイは半信半疑だったが、この可能性を予期してケイを同行させたクリスは、完全に正しかったのだ。
「いずれにせよ、お前が神を冒瀆する存在であることは私にはわかっている」
「残念ながら、僕は信仰心が薄くてね。十字架に対する恐怖も薄いんだ。大蒜のほうが怖いくらいだ」
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、昔いまし、今いまし、のち来たりたまう主たる全能の神」
三度、十字を切るとクリスは素早く小壜の蓋をとり、聖水を振りかけた。ルークは身をかわし、飛沫を浴びたマイケルが呻き声をあげた。
「……口ほどにもないですね」
クリスが薄く笑った。最強とうたわれたラピス神父の右手となって彼を助け、自身もヴァチカンに学んで幾度となく悪魔に立ち向かってきたとはいえ、完全に次元の違う相手である吸血鬼とこうも冷静に渡りあえるものだろうか。昼夜彼らのことばかり考えつづけ、会えるものなら会ってみたいとさえ思っていたケイは、いざ本物を目の前にしてこんなにも狼狽えているというのに。
ラピス神父がクリスを絶賛し、自分の後継者として可愛がった理由が少しわかった。
「万が一ってこともある。僕は慎重なんだ、余計な怪我はしたくない」
「ルーク、助けて! あいつを追い払ってよ。気分が悪くてたまらない」
「落ち着きなよ、ミッキー」
ルークは縋りつくマイケルの髪をやわらかく撫でてやり、なだめるように言い聞かせた。
「あんなのは気の持ちようだよ。何とも思わなきゃいい」
「でも、僕……」
クリスはさらに聖水の小壜を持ったまま十字を切った。
「……恨むる者の手よりかれらをすくい、仇の手よりかれらを贖いたまえり。水その敵をおおいたれば、その一人だにのこりし者なかりき。……」
「ああ……やめさせて!」
「……即ち我が名によりて悪鬼を
詠唱の切れ目に、クリスはケイを呼び寄せて「あなたは当然、吸血鬼の弱点には通じていますね?」と耳打ちした。
「だけど……所詮、物語や伝承の話だぜ」
「ドラキュラ伯爵を倒したヘルシング教授が聖書や聖餅を用いていたように、現に今、彼らは主と十字架の御力を怖れています。あなたも主の祈りぐらいは覚えているでしょう。唱えてください。……ミズ・エヴァンズもです、マイケルのために祈ってください」
メアリーはすぐさま両手を組み合わせて祈りはじめた。聖書の内容もろくに覚えていないケイも、彼女に続いて唱和した。
「なるほど、こんなところにこれだけの力のある神父がいたとはね。……さすがにうるさいな」
マイケルのように怯む様子は全く見せないルークも、神経には障るようだった。
「それだけ強い信仰を持てるということは、それだけ神に縋っているということだ。よほど地上に、ほかに縋るものがなかったのか」
クリスは無視して十字を切った。
「聖別なんて美しい言葉でごまかしているけれど、要するに人間に馴染めない、人間をやめるということだろう? 僕はそんな奴を何人も見てきたからわかる。妻も娶らず、子どもも育てず、人を愛さずに生きているものが人間だなんて言えるか?」
悪魔の言葉に誑かされてはならない、それは偽りだから耳を傾けてはならないのだと、儀式に臨む前にケイはクリスに聞かされた。クリスは忠実にその教えを守ってよどみなく祈りつづけていたが、ほんの一瞬舌がもつれた。
「なあ、ミッキーは寂しさをやり過ごしたいとき、教会にも足を運んでいたそうじゃないか。神と神の代理人であるあんたでミッキーの孤独を癒してやれなかったのは何故だ? 神がいつもそばにいて見守っているなら、どうしてミッキーは僕のところへ来た?」
ルークはわざと乱暴な言い方で挑発をつづける。
「諦めなよ。ミッキーはもう僕のものだ。何ならあんたも面倒見てやろうか? どうせ人間を辞めるんなら、僕と来たほうが楽しいぜ。人生をエンジョイしなよ、神父様」
――あんたには人間の心がないのか。
ケイはクリスを詰ったことがあった。双子の姉のナオミが悪魔祓いを受けていた頃だ。ナオミは原因不明の頭痛と動けないほどの倦怠感を訴え、やがて精神に変調をきたし、藁にもすがる思いで教会を訪れた。ラピス神父が儀式を取り仕切り、叙階されたばかりのクリスが助手をつとめた。
なるべく家族も立ち会うようにと言われたが、獣のような声で神を罵り、壁に頭を打ちつけんばかりに激しく暴れる姉を正視できず、ケイは一度しか同席しなかった。定期的に悪魔祓いを受けるようになってもナオミはなかなか回復せず、食が細くなってみるみる痩せていった。
見かねたケイは悪魔祓いを止めようとしないクリスに詰め寄ったのだった。
――こんな状態になっても続けるなんて正気か。人間の心を持っていたら、とても出来ないはずだ。
クリスは何も言わなかった。ケイは一旦儀式に通うのを中断させて精神科医に姉を診せてまわったが、どれほど検査をしても異常は発見できなかった。そうしてナオミ本人が、悪魔祓いの再開を強く望んだ。
やがてナオミは解放され、ほどなく事故で亡くなった。高齢で持病の悪化に悩まされていたラピス神父も病没した。
あのときクリスに放った一言を、ケイはずっと悔やんでいた。
「……どれだけ祈ったところで無駄だ。僕はミッキーに憑依しているわけじゃないし、ミッキーももう体が変質してしまっている。手遅れなんだよ。あんたにミッキーは救えない。さあ、どうする?」
ルークがそう言ったとき、繰り返されていたエクソシズムの三度の祈りがちょうど終わった。祈りを絶やさないように、ほとんど間をおかず次々に幾つもの祈禱文を読みあげていたクリスだったが、次に何を唱えるか迷ったものか、この夜初めてその声が途切れた。揺らぐことのない眼差しが、ほんの僅かに翳った。
おそろしい沈黙があたりを支配しかけた。
「……天にましますわれらの父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が天に行われるとおり地にも行われますように。……わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。……」
間隙を埋めるように主の祈りを諳んじた別の声に、ルークが顔を向ける。ケイが構えているリボルバーを見ると、ルークは露骨に嘲笑った。
「悪いけど、僕たちそういうのじゃ死なないよ」
「俺が誰だか知ってるんだろう? 鉛の弾をこめてくるほど間抜けだと思うか」
「ハッタリだ。銀の弾丸なんて、簡単に手に入るとは思えない」
「蛇の道は蛇だ」
ケイは撃鉄を起こした。ルークはマイケルを盾にするように抱きすくめた。
「……ルーク……?」
「撃てるものなら撃ってみろよ」
射撃は学生時代からの趣味でそれなりに自信があるとはいえ、競技場の外で発砲したことはない。慎重にルークの足下に狙いをさだめる。
「……されど我もし神の指によりて悪鬼を逐ひ出さば、神の國は既に汝らに到れるなり。……」
ふたたび、あたりを満たしはじめたクリスの声に励まされ、ケイは引き金を引いた。銃声と同時に悲鳴が上がり、泣き声がそれにつづいた。
「……驚いたな……本当に、銀だ……」
ケイが用意してきた銀製の銃弾は、事前にクリスが浄め、祝福を施していた。ルークは顔を歪め、右足を庇って蹲った。ケイはすかさず、銃口を向け直した。
「正直、甘く見すぎてたよ。……あーあ、僕としたことが、すっかり油断してたな。まあ、こんなヘマはもうこれっきりだ」
ルークの姿が物陰の薄闇と同化して見えなくなった。
「……ルーク? ルーク?」
「最後に言っておくけれど、その子が手遅れなのは嘘じゃないよ。いくら祈ったところでもう、人間には戻れない。その銀の弾丸で心臓をぶち抜いてやるといいよ」
黒い霧が漂い、すぐに散り散りになり、消えた。耳を塞いで泣きじゃくっていたマイケルが、おそるおそる呼びかける。
「ルーク、行っちゃったの……? 嫌だ、おいていっちゃ嫌だよ……」
返事はなく、もはや姿も気配もない相手の名前をマイケルは呼びつづけた。
「おいていかないで……ぼくを連れていってくれるって言ったじゃないか! ルークもひとりだから、ひとりはつらいからって……ねえ、ぼくをひとりにしないでよ! ルーク、ルーク!」
部屋を覆う闇が薄らいだように思えて、ケイは腕時計を確認した。夜明けの時刻が近づいていた。
「……それで……この子も、撃つのですか」
憔悴しきったメアリーが、ケイの手の中のリボルバーを見つめて言った。
「いや、……ええと」
ケイは口籠った。何もないところから出現し、明らかに人間離れしていたルークに対しては躊躇いながらも発砲できたが、マイケルはまだ人の子だという認識のほうが強い。ルークが言うように完全に吸血鬼と化しているのかどうか、ケイは判断できなかったし、確かめる術もなかった。
メアリーはしゃくりあげている息子の傍らに腰掛けて、そっとその冷たい体を抱いた。
「ミッキー……」
「ママ、ぼく、寂しいよ……ずっとずっと、寂しくてたまらなかったんだよ」
「ごめんなさい、ミッキー、気づいてあげられなくて。……でも、もう大丈夫。あなたはどこかへ行く必要なんてないのよ。あなたにはママがいるわ」
「本当に? ママ、ぼくのそばにいてくれる?」
「ええ、あなたのそばにいるわ。こうして」
マイケルは母親にしがみつき、肩口に顔を埋めた。メアリーもマイケルを抱きしめて、優しくその背中を撫でる。
「……あのね、そしたらね、ママ……ぼく、すっごくおなかがすいたよ……」
メアリーの首筋に顔を擦りつけたマイケルの、あどけなく開いた口に、発達した牙のような犬歯が見えた。
「父なる神と子なる神よ、穢れなき
咄嗟にクリスが十字架を掲げ、聖水を浴びせた。
「痛い!」
マイケルはベッドに倒れ伏した。メアリーは守るようにその背に覆いかぶさり、クリスを睨んだ。
「ミズ・エヴァンズ、離れてください。さもないとあなたが危ない」
「いいえ、離れません。もともと、私がミッキーから目を離したからこんなことになって……。もう離さないわ。この子を撃つなら私ごと撃てばいい」
メアリーは疲弊しきっていた。目の下に濃い隈をつくり、窶れて頬もこけている。あらためて彼女の顔をまじまじと見て、ケイははっとした。人の顔が判別しやすくなっている。それはつまり、室内が明るくなってきたということだ。
神様、と柄にもなく祈りながらケイは窓に走りよって、ブラインドの紐を引いて巻き上げた。
夜は明けていた。曙光が差し込み、クリスが手にした十字架をきらめかせ、ベッドの上で抱きあう母子を照らした。
「ああ、あ……!!」
マイケルが絶叫した。陽光を浴びたその体はメアリーの腕の中で硬直し、音もなく崩れ――一掴みの灰が残った。
「……されど神は
慟哭するメアリーの頭にそっと手をふれ、クリスが静かに解放の祈りを唱えた。朝日によって一切の闇が薙ぎ払われた明るい部屋は、ありふれた子ども部屋でしかなかった。
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