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「大天使聖ミカエル、天軍の栄えある総帥、戦いにおいて我らを守り、……神に擬えてつくられた人々を悪魔の暴虐から救い給え。……古き蛇、この世を徘徊するサタン及びその他の悪魔を投げ落とし、主の御力によりて底なき所に繋ぎ給え。……めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエスも祝せられ給う。天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。……」

 使い込まれた革表紙の祈禱書を手にしたクリスの、ラテン語の詠唱が低く響く。

太初はじめことばあり、言は神とともにあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、よろずの物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき。光は暗黒くらきに照る、しかして暗黒は之を悟らざりき。……主よ、汝の名によりて悪鬼すら我らに服す。イエス彼らに言い給う、われ天より閃く電光いなづまのごとくサタンの落ちしを見たり。よ、われ汝らに蛇・蠍を踏み、仇のすべての力を抑うる権威を授けたれば、汝らをそこなうもの断えてなからん。……」

 マイケルは苦悶の表情を浮かべ、体を震わせている。クリスが「アーメン」と唱え、十字を切るたびにその震えは大きくなり、必死で顔を背けようとした。

「……愚かなるものは心のうちに神なしといえり。かれらは腐りたり、かれらは憎むべき不義をおこなえり、善をおこなうものなし。神は天より人の子をのぞみて悟るものと神をたづぬる者とありやなしやを見たまいしに……ねがわくは神われらをあわれみ、われらを幸いてその聖顔みかおをわれらのうえに照したまわんことを。此は汝のみちのあまねく地にしられ、汝のすくいのもろもろの國に知られんがためなり。……」

 ケイが最初に悪魔祓いに立ち会ったとき、今のクリスの位置に立っていたのは老いたラピス神父だった。司祭になったばかりのクリスは助手として隣に控えていた。

「……汝のしもべを救い給え。主よ、全知全能の父、永遠の神にしてキリストの父、強固な塔たるお方……」

 あのとき、椅子に座らされていたのはケイの双子の姉、ナオミだった。儀式が始まってまもなく、ナオミはこの世のものとは思えない形相で歯を剥きだし、獣の咆哮のような声をあげた。華奢ではにかみがちな姉が、四肢をばたつかせて冒瀆的な台詞を喚き散らすのに、ケイは呆然としたのだった。

 今、目の前にいる少年はひどく苦しげではあったが、激しく暴れだすような兆しは見えない。いやいやをするように首を振るだけだ。

「汝をい落とさん……汚れたる霊、凡ての悪の力、地獄の凡ての悪霊たちよ、イエス・キリストの御名において、去れ。神の創りし者から立ち去るがよい。……侮るなかれ、これは罪人たる私の命ではない、神御自ら、父なる神、子なる神、聖霊なる神が汝に命ずる、十字の印、十二使徒と凡ての聖人、殉教者の血が汝に命ずる……主は汝を駆逐おいやり、汝と汝の天使のために永遠の業火を創りたもうた。その口からはするどき刃が出で、主は炎によりて生者と死者と世を裁き給う。……アーメン。」

 ふわり、とクリスが頸垂帯を外し、マイケルの額にあてた。少年の背が跳ねた。クリスが親指で布の上から十字の印を描くと、マイケルは細い悲鳴をあげた。焼印を捺されたような反応だった。身をもがき、とうとう泣きだしたマイケルを、母親のメアリーは自らも泣きそうになりながら見守っている。

「汚れたる霊、この神の子を苛む悪魔たちよ……名を明かし、直ちに去るがよい。……汝にもはや時は残されていない……」

 クリスは眉一つ動かさず、淡々と問いかけた。

「主イエス・キリストの御名において命ずる、汝の名を明かせ」

 マイケルはすすり泣くばかりで答えない。

「我は神に仕える者……父と聖霊とともに君臨したまう主、裁きをおこなう神の名において命ずる。汝の名を明かせ」

 クリスはラテン語で何度か「名を明かせ」と繰り返したが、マイケルの反応は変わらず、いっこうに埒があかない。ふいに、クリスは英語に切り替えた。

「マイケル。きみはマイケル・エヴァンズですか?」

 それまでの、穏やかながら威圧感のある厳しい調子とはうってかわって、神父が普段信徒に接するときの、うちとけた口調だった。

「……そうだよ」

 しゃくりあげながらも、少年はか細い声で答えた。彼は怯えきっていた。

「いまきみはひとりですか?」

「ううん、ひとりじゃない」

「では、誰かがきみの中にいるの?」

「ぼくの中……? ぼくはぼくだよ。でも、ひとりじゃないよ。ルークがいるもの」

「ルーク?」

 名前に心あたりは? とクリスが目でメアリーに問うた。メアリーは自信なさげに眉根を寄せ、かぶりを振る。彼女は息子のマイケルの遊び友達のことなどほとんど把握していなかった。

「ルークとは誰ですか?」

「友だちだよ。新しくできたんだ。……今日も、きっとぼくを迎えに来るよ」

「いつ、知り合ったんですか。詳しく聞かせてください」

「ううん……最近だけど、よく思い出せないよ……。頭がぼうっとして重いんだ……それにこの部屋、息が詰まりそうだ……」

 クリスは十字を切り、「主よ、憐れみ給え」と唱えた。途端にマイケルは癇癪を起こしたように叫び、耳を塞いだ。

「それ、やめてよ! 気分が悪くなる」

「きみは毎週教会に来ていたでしょう、ミッキー。何を怖がることがあるんです」

「わかんないけど、とにかくやめてったら! 頭が割れそうだよ」

「リビングに鳥籠がありましたね。あのオウムはきみの友だちだったんでしょう? でも、先刻見たら空でした。どこへ行ってしまったんでしょうね」

「…………」

「マイケル?」

「食べちゃった」

 ひゅっと息をのむ音がして、メアリーが口を手で覆った。

「……だって、あれはぼくの鳥だから。それに……すごく喉が渇いて、おなかがすいていて……我慢できなかったんだ。……あんなちっぽけな小鳥じゃ、ぜんぜん足りないよ」

 マイケルは顔をあげ、クリス、ケイ、そしてメアリーと順々に顔を見回した。少年のグリーンの瞳が、光の加減なのか赤みがかった不吉な色を宿していた。

「マイケル、きみはどこへ行っていたんですか。ルークとは何者ですか。……正直に答えなさい」

 十字架をかざし、有無を言わせぬ調子でクリスが迫ると、マイケルはしどろもどろに語りはじめた。

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