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 ケイ・アッシュはNYUニューヨーク大学で英文学の講義を受け持っている。三十代前半の若さだが、マニアックな怪奇小説やホラー映画などについてのサブカルチャー的な本を何冊か書いて一部で注目をあつめていた。無造作に伸ばした黒髪に浅黒い肌、精悍な雰囲気のせいでネイティヴ・アメリカンの血を引いているとよく勘違いされるが、実際には日本人の母を持つ東洋系だ。

「最近、近所でペットの失踪事件が続いてるんですよ」

 論文指導の休憩時間に雑談をしていて、教え子の女子学生がふとそうもらしたのが、後から思えば最初の予兆だった。

「ペット?」

「ええ、犬とか猫とか。戸締りをきちんとしていてもやられるんです。それもお金や何かを盗られたあとはなくて、ペットだけが消えるの」

 彼女はアッパー・イーストサイドに住む、裕福な家庭のお嬢様だった。いつも天真爛漫な彼女がこのところ気分が晴れない様子で、ケイも少し気にかけていた。

「それは……心配だろうな。君のところも犬がいるんだっけ」

「ええ、ゴールデン・レトリーバーです。抱えて逃げるには大きすぎると思うんだけど、でも、やっぱり不安で……」

 そのやりとりとほぼ時を同じくして、やはりアッパー・イーストサイドで少年が失踪した。

 いなくなったのは、エレメンタリー・スクールに通う十一歳のマイケル・エヴァンズだ。もっとも、一週間ほどでマイケルはふらりと帰ってきたのだが、母のメアリーが安堵したのも束の間、帰宅したマイケルは彼女の知る息子ではなかった。

 日中はベッドにもぐりこんだきり、どんなに揺り起こしても出て来ず、食事もとらずに昏々と眠っている。夜更け、仕事を終えたメアリーが帰ってきて、シャワーを浴びて床に就くころになると起きだして、動き回っている気配がする。無二の親友のように可愛がっていたオウムが、子ども部屋の床に冷たくなって転がっていた、と家政婦が不気味そうに報告してきた。そんなことが何日か続いたある晩、メアリーはキッチンの隅に蹲っているマイケルを見つけた。ぐったりと動かない仔猫を抱えて、口のまわりを血で汚した少年は、物欲しげに光る眼で母親を見た。

「私はミズ・エヴァンズに、マイケルに憑いた悪魔を祓ってほしいと依頼されました」

 事前に何の連絡も寄越さずケイの研究室を訪れたクリストファー・オキーフ神父は、挨拶もそこそこに持ち込まれた相談について語り終えると、静かに息をひとつ吐いてインスタント・コーヒーを飲んだ。

「それは……悪魔、なのか……?」

「わかりません」

 クリスはケイより五つか六つ歳上のはずだったが、ケイと同い年ぐらいに見えた。二十代で司祭叙階を受けたとき、彼は既に悪魔祓いの経験を積んでいた。かの有名な聖なる階段スカラ・サンタにいたこともあり、最強の悪魔祓い師エクソシストと囁かれていたラピス神父に師事して、神学生の頃から彼の補佐を勤めていたのだ。クリスの叙階からほどなくして亡くなったラピス神父の後継として、彼は公式エクソシストに正式に任命されている。

 悪魔祓いエクソシズム。そんなものは物語の出来事だと、自らその現場を見るまではケイも思っていた。「エクソシスト」と言われて思い浮かぶのは、あの有名なホラー映画の、首が三百六十度回転する少女の怖ろしい顔だった。しかしエクソシズムは現代でもヴァチカンのお墨付きで行われている。教皇庁立レジーナ・アポストロールム大学ではエクソシズムの講座さえ開かれているという。

「あなたも知っている通り、悪魔憑きは精神障害やその他の病とは厳重に見分ける必要があります。私の師をはじめ、昔気質の力あるエクソシストたちは祈禱が人体に害を与えるはずがない、として、悪魔憑きが本物かどうかの判断に医学的見地を持ち込むことには消極的だったけれど、私は必ずしもそうは思わない。医者に治せる症状なら病院に行ってもらいたい。そのほうが私が疲れなくて済みますから」

 堅固な信仰だけでなく、冷静で合理的な近代科学への信頼をもクリスは持ち合わせていた。ケイが面白がってオカルトめいた話題を持ちかけても、馬鹿馬鹿しい、と一蹴されるのが常だった。そうした事々と悪魔祓いを同じようなものに見做されることは耐え難い、ともクリスはよく言っていた。

「悪魔憑きの証拠として有力なものに、知らない外国語――本人が習得しているはずのないラテン語や、古い言語を話すというものがあります。マイケルにはそういう様子は見られない。声も本人の声のままでした。子どもとは思えない力をふるって暴れるということもないようです。通常の食事を摂らず、鳥や小動物を生で食べるなどの奇行はありますが、まず許可はおりないでしょう」

 悪魔祓いは司教の許可なしにはできない。教会が「本物の悪魔憑き」と認めたケースにのみ、儀式の許可がおりる。

「じゃあ、今回は精神科医を紹介するのか?」

「……ミズ・エヴァンズは敬虔な方で、マイケルを連れて毎週日曜日のミサにおいでになります。マイケルは幼児洗礼も受けていて、幼い頃から教会に親しんでいる。……何か問題があって、それを話す相手が見つからないときは、学校の帰りに教会に寄って私に打ち明けることもあったのです。……そのマイケルが昨夜、彼を訪れた私を見てひどく怯えました。祝福を拒み、十字架から後退って逃げた」

「聖なるものに対しての嫌悪感か……」

「そうです。聖性の拒否は最も明確な悪魔の徴候です」

 クリスの灰色がかった青グレイッシュ・ブルーの瞳はいつも透き徹っている。その色が揺れているのをケイは見たことがない。

「それに信心深いとはいえ、ミズ・エヴァンズはオフィスではチームを率いる立場にある、有能なビジネスパーソンです。非常に現実的だ。そんな彼女が、なぜ、少しも医学を頼ろうとせずに真っ先に私のところへ来たか……君、わかりますか」

「わからないよ。勿体ぶらずに先を教えてくれ」

 ケイは軽く両手を上げて降参の意を示した。

「マイケルには脈がなかった。意識があり、動き、母親や私の言葉にも応えますが、おそらく心臓は動いていない。体温も異常に低い」

「……それは……」

「死んでいる状態で活動しているということです」

「そんな、馬鹿な!」

 冗談だろ、と言いかけてケイは言葉を飲み込んだ。クリスはこんなくだらないジョークは言わない。

「マイケルが何であるにせよ、主の御心に背く状態におちいっていることは確かです。そしてこれは直感ですが、彼を救えるのは医者ではなく主のご慈悲です。……私には、マイケルを放っておくことはできない」

「つまり、悪魔祓いは行うのか……非公式に」

 クリスは頷いた。

「ただし、マイケルを蝕んでいるものは私たちエクソシストが何度も対峙し、よく知っているような〈悪魔〉ではないかも知れない。……ケイ、あなたは私の話を聞いていて、ご自分の専門を思い出しませんでしたか?」

「それは……連想していたが、いや、冗談だろう?!」

 一度は飲み込んだ台詞を結局ケイは吐き出してしまった。ケイの脳裡を過ぎったのはあまりにも荒唐無稽な可能性だったのだ。それこそ、クリスには一笑に付されてしまうような。

「私たちは悪魔の存在を確信しています。あなたも見たはずですよ」

 クリスは微笑み、ケイの褐色の瞳をまっすぐに見つめた。

「今回は、あなたの力が必要です。手伝って欲しいんですよ、ケイ」

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