泣いたって

増田朋美

泣いたって

その日も寒い日で、なんだかこういうのがこの時期にふさわしいのかもしれないが、風が強く吹いて移動に大変な日であった。それでも、商業施設や医療機関は、いつもと変わらず営業している。雨の日も風の日も暑い日も寒い日も。他のどんな日があっても、そういうところはいつでも客を迎えることができるようになっている。もちろん医療機関と商業施設であれば営業目的はぜんぜん違うけれど、客を迎えるという形態であることに代わりはない。

その日、ジョチさんこと曾我正輝さんは、父親違いの弟であるチャガタイさんこと曾我敬一さんに連れられて、富士市の医療機関の中でも権威のある、富士中央病院へ診察に訪れていた。とりあえず、診察が終わって、廊下へ出てきたジョチさんとチャガタイさんであったが、

「結局、ただの風邪ですか。」

と、ジョチさんは大きなため息を付いた。

「そうだよう。だけど、風邪は万病の元って言うんだし、そういうことなら、ちゃんとしたところで見てもらったほうがいいじゃないか。ましてや兄ちゃんは、元々体力も弱いんだしさ、それならこっちに来たほうがいいだろう。いろんなひとからも頼りにされているんだし、そういう意味でも、大きな病院で見てもらったほうがいいんだよ。」

そういうチャガタイさんに、

「はいはい。でも結局ただの風邪だったんなら、こんな大病院へ来なくても、そこら辺の町医者でも良かったんですけどね。」

と、ジョチさんは言った。

「いやだめだ。兄ちゃんは、みんなから頼りにされている。それだけ人望がある人だ。だから、こういうところで見てもらったほうがいいんだ。」

チャガタイさんは、笑いながらそういうのだった。二人はそう言い合いながら、精神科と書かれている入り口の前を通りかかったところ。

「だから中村先生を出してください!きちんとあの薬であっていたのかどうか、ちゃんと説明してください。そうでないと私、納得できません。このまま帰るわけにも行きません!」

と女性の金切り声が聞こえてきたので、ジョチさんとチャガタイさんは足を止めた。

「中村先生?あの、中村真麻先生ですよね?確か、先日医療雑誌にも掲載されていたはずですね。」

とジョチさんがつぶやくと、

「中村先生を出してください!あたし、納得できません。母がどうして自殺をしなければならなかったか、説明してください。精神疾患の薬は、一部のものは暴力的になると聞いています。あたしは、優しかった母が、どうしてああして廃人みたいにならなければならなかったのか、理由がわかりません。母が、薬を無理やり飲まされて、自殺に追い込まれたとしか思えません!理由を説明してください!」

と先程の金切り声はそう言っているのであった。

「ちょっと待ってください。あなた名前も名乗らないで、いきなりそんな事を言うのは、失礼ではありませんか。母とは一体どういうことなんですか?」

受付係は困った顔で言った。

「決まってるじゃないですか!中村真麻先生の患者の、小村朝代の娘の、小村小夜子です!」

「小村小夜子さん。そのような患者名はなかったと思いますが。」

「とぼけないでください!あたしは、ちゃんと知ってるんですからね。小村朝代は紛れもなく私の母ですし、それに自殺で亡くなっているんです。いいですか、母は自殺する理由なんて無いんです。あたしたちは、一生懸命面倒を見ていましたし、それはちゃんとわかっていたはずですから!それなのに、母は自殺の形で逝ってしまった。だから私は、母が自殺した理由を確かめたいんですよ。それのどこが悪いと言うのですか!」

「あなたもわからない人ですね。これ以上騒ぎを大きくすると、警察を呼びますよ!」

「いいでしょう!呼んだらどっちが困るか楽しみにしてます!」

そう言い合いをしている女性に、ジョチさんとチャガタイさんは放っておけないなと言って、女性のそばに近づいた。

「すみません。ここで言い合いをしても仕方ありませんよ。ちょっと外へ出ましょう。こういうときは、感情で押しかけては行けないんです。」

「そうそう、怒り爆発なのはわかるが、まずは、何ができるか一緒に考えよう。」

二人はそう言い合って、女性を、病院のカフェスペースに連れて行った。とりあえず小村小夜子さんと名乗った女性を、椅子の上に座らせた。

「それで、小村小夜子さんと仰っていましたね。お母様は小村朝代さん。先程、お母様が自殺されたと仰っていましたが、何があったのか、僕たちに説明してくれませんか。決して悪い者ではございません。僕は社会福祉法人をしていますので、ある程度制度のことはわかるつもりです。なので、もしあなたが本当に病院を相手にしたいのであれば、なにか力を貸せるかもしれませんよ。」

ジョチさんがそう言うと、

「ありがとうございます。あの、中村真麻とかいう変わった名前の女性医師にどうしても聞きたいことがありまして、それで押しかけてきたんです。」

と、小村小夜子さんは言った。

「そうなんだね。まず初めに、どういう経緯で、中村真麻先生のところにかかってきたのか、それを話してもらえるかな?」

チャガタイさんは、優しく言った。

「はい。母は、何度も自宅で転倒して、骨折を繰り返して、それでだんだんふさぎ込むようになり、精神科の中村先生にかかりました。それで、先生は、うつ病と診断して、母に薬を処方しました。」

小村小夜子さんは、泣きながら言った。

「その薬がどのようなものか、お薬手帳などを拝見できませんか?」

と、ジョチさんが聞くと、

「ええ。母が全部捨ててしまったので、うちには残っていないのですが、とにかく薬を飲むようになったら、人が変わったのかのように性格が変わってしまったんです。突然暴力的になったり、怒鳴り散らしたり。それを中村先生は、ただうつの症状だからと言って何もしてくれませんでした。そして、昨月、母は自宅で首をつって死にました。あたしたちは、母の事を一生懸命世話しましたし、ずっとそばについているから大丈夫だって何回も言ったのに。それなのに、何で、死ななくちゃならなかったのか。だから私は納得が行かなくて、ここに乗り込んできたんです。」

小村小夜子さんは、そう言って、テーブルの上に突っ伏して泣いた。

「そうですか。お母様がなんの薬を飲んでいたかで、海外であれば、訴訟を起こすこともあるんですけど、日本ではまだそのようなことは無いですからね。まだ医者の権威に弱いですし、行政も医者の味方になりがちですからな。よろしければ、弁護士の先生を紹介してあげましょうか?」

ジョチさんがそう言うが、小夜子さんは泣き続けるのだった。

「そうですね。私、正直に言うとどうしたらいいのかわからないかもしれません。母が死んで、もう一月になるんですが、まだ受け入れられないといいますか、それだけなのかもしれない。本当は何もしていないのかもしれないし、私はどうしたらいいのかわからないだけで、それでここに来ちゃったのかもしれない。」

「そうですか。ではまず初めに、心を落ち着けることから、始めましょうか。そうしなければ、次の行動に移せませんから。まず初めに、ご自身が落ち着くことから始めましょう。」

ジョチさんは、静かに彼女に言った。そういう正反対の事を一人の人間が口走るというのは、きっと彼女も大変な精神状態なのだろう。

「ごめんなさい私、どうしたらいいのか分からなくて。」

小村小夜子さんは涙を拭くのも忘れて言った。

「いいんだよ。人間なんてそんなものさ。いざとなると人間は本当に弱いもので、そうやって何がなんだかわからないというのが本来の人間の姿だと俺達は知っている。だから、悲しいときには遠慮しないで泣いてもいいんだよ。」

チャガタイさんが優しくそういう事を言うと、小村小夜子さんは、わーっと大きな声で泣き出してしまった。それを、他の患者さんたちが見ていたので、

「ここにいてはまずいですね。店に行きましょう。」

ジョチさんは、チャガタイさんに言うと、チャガタイさんも、

「そうだねえ。まず何か食べて落ち着いてもらおう。」

と言ったので、二人は、小村小夜子さんに椅子から立つように促して、病院を出ていった。そして、チャガタイさんの運転する車に乗って、焼肉屋ジンギスカアンと看板がおいてある家に到着した。チャガタイさんは、彼女を座席に座らせて、たっぷり食べてねといい、彼女の目の前に山もりのビビンバを差し出した。小夜子さんは、箸を取ってビビンバを口にして、

「美味しい。」

とだけ言った。

「まあ、君のお母さんの作った料理には敵わないと思うけどさ。それでも、真心を込めて提供するのがうちの料理なのでね。」

チャガタイさんは、小夜子さんが食べ終わるとまた山盛りいっぱい、ビビンバをもった。

「それにしても、中村真麻先生が、本当にあなたのお母さんがしたような事をさせる薬を出したのでしょうか?」

ジョチさんがそう言うと、

「どうしてもそれしか考えられません。暴力的になることはまったくなかった母だったのに、いきなり暴言を吐いたりするようになりましたから。それはきっと、母が飲んだ抗うつ剤の影響だと思うんです。私調べたんですけど、暴力的になった人の話が実際あったそうですね。母もそれとおんなじだと思います。だからそういう事を平気でさせる医者を、私は許せなくて。それに、なくなる数日前、こんなことがありました。母をいつも通り病院に連れて行こうとしたら、母が病院に行きたくないと言って泣き続けたんです。理由はわかりませんが。でも、それもきっと母が医者を怖がっていたのではないかという証拠だと思うんです。」

小村小夜子さんは、なにか確信したように言った。

「わかりました。悲しいことですが、そういうことはたくさんありますよ。精神を病んでしまうというのは、まず初めに予備知識が無いことで、そういうふうにお母さんが暴力的になったように見えてしまうんです。それはあくまでも症状だと割り切れるには、非常に時間がかかるものだと思いますよ。多分それが今回の事の、一因ではないかと思います。」

ジョチさんがそうアドバイスすると、

「そうですよね。私、母のことはそうなんだと思いますが、それでも私が多分それ以外の事を考えられなくなっているというか、私はどうしたらいいのでしょう。」

文字通り、彼女の答えはそれなのだとジョチさんもチャガタイさんも思った。つまり「分からない」なのだ。

「そうなっても仕方ありませんよ。乗り越えろと言ってもどうしたらいいのかわからないのが答えですよね。それなら、まずは遠慮しないで泣いてもいいと思います。それを無理やり消そうとすると、あなたまで病んでしまう。ただ、実社会で、こうなってしまうと、迷惑がられることでもある。だったら、そういうところが許される場所へ行くと良いと思います。どうでしょう、製鉄所という居場所のない人に、部屋を貸し出す施設があるのですが、そこへ通って見ませんか。そこなら、あなたのような人も何人かいますし、同じように悩んでいる人もいらっしゃいます。」

ジョチさんは、メモ用紙を出して、製鉄所の所番地と、電話番号を書いて、彼女に渡した。

「大渕の、富士山エコトピア行のバスに乗って、富士山エコトピアの停留所で降りるとすぐだよ。わかりやすいところだから、すぐいけるよ。」

とチャガタイさんは優しく言った。

「いつでも待ってますから、来てくださいね。」

ジョチさんがそう言うと、チャガタイさんはほらと言って、もう一度ビビンバを差し出した。小村小夜子さんは、ありがとうございますと言って、ビビンバを食べて、水を飲んでくれたお陰で、少し立ち直れたようだ。取り合えず、5時の鐘が鳴ったので、小村小夜子さんは、近くにあったバス停から、自宅近くに行くバスがあるからと言って、それに乗って帰っていった。

その翌日。小村小夜子さんが、製鉄所にやってきた。なんとか富士山エコトピア行のバスを捕まえる事ができて、すぐに乗れたという。ジョチさんは、製鉄所の部屋の案内をして、この施設を使うルールを説明した。利用時間は、10時から17時まで。学校の勉強をする子もいれば、仕事をして過ごす人も居る。その他には、懸賞に応募するための原稿を描いているという人も居る。実際のところ、製鉄所を利用しているのは女性が2人で、製鉄所の間借り人として、磯野水穂さんという男性がいた。彼は一番奥の四畳半の部屋を与えられ、そこで用意したピアノを弾いていた。ショパンのワルツとかなんでも弾くことができる人らしい。ジョチさんに利用の仕方を説明されて、小村小夜子さんは、とりあえず、食堂に行って、本を読むことを始めた。まだ利用したばかりであれば、そのくらいのことでも良かった。とにかく悲しいときには遠慮しないで泣くことが大事だとジョチさんたちは思っていた。大きな事をしなくてもいいから、ここで少し楽になってくれれば、それで良いのだ。何よりも、悲しい気持ちを取り除くことが大事だから。

小夜子さんが、本を読みながら食堂で過ごしていると、製鉄所を利用していた女性が二人、ただいま帰りましたと言って帰ってきた。彼女たちは、中年の女性でありながら、制服を着て、教科書を持って居る。何だか異様な光景であるが、実は彼女たちは学生なのだ。彼女たちは、通信制の高校に通っている。学校に通ったのは、ふたりとも20年以上間が空いてしまったが、それでも勉強することができて嬉しいと言っていた。

利用者二人が、この問題はなにかとか、答えを出すにはどうしたら良いのかとか、そういう事を話し合っていたとき。また食堂の片隅で誰かが泣いている声がした。利用者たちはすぐにそれに気がついて、泣いていた、小村小夜子さんのそばへ駆け寄り、

「どうしたの?またなにか思い出してしまったの?」

と優しく声をかけた。

「あたし、そういう事をしてもらったのに、何もお礼できなかった。お母さんに一緒に宿題やってもらったのに、お礼できなかった。あたし、どうしたら良いのかしら。」

と、小村さんは泣いている。正しく、暑い涙をこぼして声の限りになくというのがふさわしい言葉だった。

「小村さん、そんなに泣いていては、なくなったお母様が可哀想よ。」

「そうよ、それよりも、前向きに一生懸命生きようと思わなくちゃ。」

利用者二人は、よくある一般的な慰めを言った。

「そんな事できないわ!あたしは、どうしても立ち直れない。それでは行けないんだろうけど、それ以外思いつかないし、どうしたら良いのかわからない!」

と泣き続ける小村小夜子さんに、

「大丈夫よ。あなたもそのうち立ち直れるようになるわ。」

「それに、乗り越えられない試練は無いって、そういう格言もあるわよね。」

二人の利用者は、そう言って彼女を励ましたが、

「だからこそ、あたしはできないから、悩んで居るんじゃないの!できなくちゃいけないことは知ってるわよ。でもできない。悲しい気持ちから立ち直れない。それでは、いけないことは知ってるわ。だけど、できない。だからそういう事言われると、あなたはだめだと言われているようで、本当につらいのよ!」

と、小村小夜子さんは言った。

それと同時に、ショパンのワルツ七番が止まった。この音楽も小村さんにとっては、悲しみを助長させてしまうものだったのかもしれない。それと同時に、容態が良くなくてげっそりとやせ細ってしまった水穂さんが現れた。

「水穂さん寝てなくちゃだめじゃないですか。」

「そうですよ、無理はしちゃいけないって。」

二人の利用者たちは彼を四畳半に戻そうとしたが、水穂さんは動かなかった。

「大丈夫ですよ。小村さんのことは私達でなんとかしますから、水穂さんはピアノ弾くなり、何でも好きなことして安静にしてください。」

利用者の一人がそういうのであるが、

「でも、なんとかできないじゃないですか。」

水穂さんはきっぱりと言った。

「そうかも知れないですけど、水穂さんは、横になっててください。昨日だって、聞きましたよ。畳代がたまんないって。それくらい畳を汚すほど、咳き込んで吐いたんでしょ。」

別の利用者が水穂さんにいうが、

「それでも泣いている女性をほうっておくわけには行きません。」

水穂さんは、そういった。

「だけど、水穂さんは、寝てなくちゃダメです。あなたを起こしたら、理事長さんにも叱られちゃいます。水穂さん、部屋に帰ってください。彼女は、あたしたちでなんとかします。」

利用者がそう言うと水穂さんは、

「でも、彼女のことが心配で。それでは、不安で仕方ありません。できるだけ、彼女のことを、否定しないでまず初めに聞いてやってくれますか。それこそ、彼女が本当に欲しいものかもしれません。ほしいのは、アドバイスでもなければ、例え話でも無いですよ。まず初めに、彼女の話を聞いて、味方になってあげることです。それをしてあげてください。」

と、利用者たちに言った。

「わかりました。わかりましたから、あたしたちも怒られちゃいます。水穂さんは、部屋に戻って、安静にしてください!」

利用者がちょっと強く言った。それを見て、小村小夜子さんは水穂さんをずっと見つめた。

「どうしてそんなに私のことを?」

小村小夜子さんがそうきくと、

「だって、その状態じゃないですか。人間ですもの、簡単にこうだと切り替えることができるときばかりでは無いですよ。それは誰でも同じですよ。だから、僕らも彼女の話を聞いてあげなくては行けないんです。」

水穂さんが答えた。

「水穂さんの答えは、間違ってます。水穂さんは、自分が銘仙の着物しか着られないから、そういうふうに言うんですよ。でも事実問題、同和問題が話題になることは、今の世の中めったに無いし、みんな同じなんですよ。だから、水穂さんだけが、聞き役をしなくちゃいけないことは無いんですよ。」

利用者が苛立ってそう言うと、

「そんな事ありません。」

水穂さんは言った。小村さんはそれでなにか気持ちが変わってくれたようで、

「私の事、そう思ってくれた方が居るんだわ。」

と小さく言った。

「そうよ、みんなあなたのことを大事に思って、、、。」

利用者がそういったのであるが、水穂さんがそれを止めてしまったので何も言えなかった。

熱い涙をこぼして声の限りに泣くことは、大事な仏のはからい。狂わずに生きるための。相田みつをさんの書にそんな文句があった。それはこういう事を言うのだろうか。



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泣いたって 増田朋美 @masubuchi4996

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