【BL】カデンツァは響かない

 差し出された茶封筒に幸貴は何事かと友人の顔を見た。

 最初は出版社に勤務する大垣の仕事道具かと思ったが、どうやらこの真新しい封筒は幸貴に宛てられたものらしい。


「開けて」


 促されて茶封筒に手を伸ばす。馴染のある、しかし、久しく触れてない重みと大きさでそれが楽譜だろうということはすぐに見当がついた。


「高槻からだよ」


 大垣が口にした名前に幸貴はハッと顔を上げた。

 動揺を隠すこともできないまま友人を振り返ると、大垣は幸貴を観察するようにじっとこちらを見ていた。

 質が悪い。

 大垣は全部知っているのだ。幸貴は今更ながらに自分が試されていたことを知った。

 いつから? どこまで? そうならそうと気付いた時点で言ってくれれば良かったものを。

 防衛本能そのままに、目の前の友人に批難の言葉を浴びせようとする自分をぐっと抑えて封筒を握り締める。


「渡してくれって頼まれた」


 幸貴は一瞬にして創平の顔を思い出した。控えめな笑顔と、妥協を許さない真っ直ぐな瞳。本人の性格を表したような艶やかなストレートの黒髪が汗に濡れ、指先に絡みつく感触……それから、熱に浮かされたように自分の名前を呼ぶ、遠慮がちな声も。

 もう関わることはないと、決して開くことのない過去という箱の中に封印してしまった大切な存在だった。

 封筒から中身を取り出してみると、そこには自分の名前が書かれた楽譜があった。書き込まれた内容は一言一句忘れたことはない。何よりも真剣に、命を削る思いでピアノに打ち込んだ一年間だった。


 A flat major, op 110


 ベートーヴェンのピアノソナタ31番。

 楽譜は破損どころか日焼けすらしていない、当時の姿のままで幸貴の元に戻ってきた。

 心の深い部分がズグリと悲鳴を上げる。

 ピアノを捨てた自分に傷付く資格などこれっぽっちもないのに、ページの隙間に封印されたあの部屋の残り香がひた隠しにしてきた幸貴の本音を呼び起こさせた。

 酷いことをした。

 ピアノにも創平にも。

 俯いた幸貴の視界が、ジワリと滲んだ。


 あの日、幸貴は持てる力の全てを出し切った。それでもファイナリストに選ばれた出場者には遠く及ばなかった。何が足りなかったのか、どこがいけなかったのか、どんなに考えてもその答えにたどり着くことは出来ず、当然のように『次回』を口にする創平に憤りを覚えた。

 自分がたどり着いたと思っていた終着駅は全くの別物であった。自分の居場所すら分からず、どちらの方向に進めば良いのか、何本にも伸びた線路の先へ一歩足を見踏み出すことが急に怖くなった。

 あんなに苦労してたどり着いた場所なのに、また違っていたら? その先の道が潰えていたら? 或いはもっと複雑に、もっと入り組んだ迷宮のようにその先の道が広がっていたら?

 自分はまたこんな苦しみを味わうのだろうか?

 何もかもが煩わしくなり、実家に帰れと事あるごとに圧力を掛けて来る親の苦言にもほとほと疲れ果て、手放したのだ——楽譜と、彼の手を。

 転科の話を断り、創平と別れ、一足先に父の元で家業を継いだ兄を支えるべく、教員免許の取得に力を入れる生活にシフトした。

 親の言いつけに従って公務員試験を受け、幸貴は地元の小学校に就職した。朝から晩まで尋常ではないタスクをこなしながら、子供たちと共に生活する毎日だ。実家に戻った幸貴を追いかけるように一年後には典子も上京し、学生時代からの付き合いは継続した。

 そして、ここ数年周りの友人たちが結婚し始めたことを切っ掛けに、幸貴もそんな話題を振られるようになり、言外に高まっていく親の期待に応えるように典子との結婚を決意した。ハキハキして要領の良い典子と母親は気が合い、家族も喜んでいる。音大なんかに進学してどうなることかと思ったが、こんな彼女を見つけてこれたのなら僥倖だと父も笑っている。

 大事な物が心の中からごっそりと失われ、抜け出せない虚無感に喘いでいた幸貴も、同年代の人間が歩む人生を送り、ぬるま湯に浸かるような幸せと、謀殺されていく日々の中でいつしか『それでいいのだ』と納得するようになっていた。


 それなのに。


 創平だけはずっと守ってくれたのだ。

 幸貴が捨てたはずの、大切なものを。

 いつか必ず思い出すであろう、幸貴の寂しさと虚しさを理解してくれていたように。

 言いたい事は山ほどあったはずなのに、創平は何一つ文句を言わなかった。

 酷い言葉で罵倒され、裏切り者だと責められていたら幸貴もきっと開き直ることが出来ていただろう。

 そうなることをどこかで望んでいたような気がする。

 そうしなければ……形が失われてしまうほど粉微塵に全てを破壊してしまわなければ、心に残る未練を、ピアノに対する想いを打ち消すことなどできはしなかった。

 しかし、それさえも創平に対する甘えだったと、幸貴は今になってその業を突きつけられたのだ。

 元気だった?

 と、そんな当たり前の言葉すらも口に出すことが憚られた。


「何で招待状なんか送ったの?」


 大垣の言葉には棘がある。


「……仕事が忙しくて……結婚式の準備は典子と母に任せていた」


「なんだよそれ。理由にならないだろ」


「…………」


 友人に叱られて、幸貴は反省の言葉もなかった。

 被害者である創平が文句を言えない今、幸貴を叱る人物は大垣以外にはいない。大垣がいつから気付いていたかなんて、もはや些末な問題でしかない。どこまで知っているのかさえも重要ではない。創平がこの楽譜を大垣に託した。それが全てを物語っているじゃないか。

 幸貴は自己保身に走り全てを創平に押し付けてしまった、自分の器の小ささと惨めさに頭を抱えたくたなった。


 典子が創平に招待状を出したことを知ったのは、出席者が決まり席次表を作成する段になってからだ。式場や引き出物なんかは典子と母に任せきりだったが、出席者と席の確認を怠るわけにはいかなかった。

 典子と共に式場に向かい、担当者が何気なく机に置いた招待状の発送リストの中に『高槻創平』の名を見つけて心臓が止まりそうになった。自分はそんなものを出した覚えはない。帰って典子を問い詰めると、創平に招待状を出したことを白状した。新車を購入するタイミングで車のダッシュボードから、創平の住所が書かれたメモが出て来たのだと。

 確かに創平の住所が書かれたメモは大垣から受け取った。でもその後、そのメモをどうしたかなんて幸貴は覚えていない。ただ、長い道のりだったので、CDを入れて音楽は流していた。


「……え? まさかそれって、あの時の?」


 事の顛末を聞いて唖然とする大垣に幸貴は頷いた。


「うわー……。俺も間接的に共犯ってことか?」


「メモを捨ててなかった俺が悪かったんだけど」 


 典子と激しく喧嘩をして、一時は婚約解消寸前まで行きかけたが、招待客までリストアップされた状態で結婚式をキャンセルなどできるはずがない。幸貴が世間体や親への体裁を気にする人間だと典子はとっくの昔に気付いていて、その時も「親にどうやって説明するの?」と泣きながら責められた。

 典子の言う通りなのだ。婚約破棄の原因が大学時代の元後輩、それも男だなんて、幸貴は口が裂けても言えはしない。泣いて謝る典子に成す術もないまま、気付けばいつもの日々に戻っていた。

 モヤモヤした気持ちを抱えている自分と何も変わらない世界。創平が欠席であったことに胸を撫で下ろし、あいつは今頃どうしているだろうか、などと思いを巡らすことさえ幸貴はタブーにしている。


 典子が最初に付き合おうと言ってきたのは、幸貴が国際コンクールに出場した直後だ。創平と付き合っていたので、幸貴は典子の申し出を断ったが、彼女は決して諦めることはなかった。そして、創平との関係に生じた僅かな心の隙に割入ってくるように典子は幅を利かせるようになった。

 創平と典子の仲の悪さは顕著だった。

 その原因が自分であることも分かっていて、幸貴は有効な対策を取ることができなかった。

 あのサークルで、典子が創平にしたことを幸貴は知っていた。唯一の理解者であり、相談相手であった自分が背を向けてしまったことで創平が感じた絶望がいかほどだったか、推し測っても尚有り余る。

 敵意を剥き出しにする典子と、一方的に攻撃される創平を見ていればどちらを守るべきかなど歴然だったのに、男性である自分が男性である創平を守るという行為がどうしてもできなかったのだ。創平と幸貴が付き合っているという噂が蔓延したサークルの中でそんなことをしたら皆から変な目で見られてしまう。幸貴はそれが怖かった。


「……まぁ、でもあいつは何も変わってないよ。ピアノ、ピアノ、ピアノ、毎日そればっかり」


 大垣はそう言いながらグラスに手を伸ばした。


「創平は……そうだろうね」


 封筒の中には、楽譜と共に煌びやかな水引がかかった祝儀袋が入っていた。懐かしい筆跡で、封筒には『高槻創平』の文字がある。

 創平はどんな気持ちで招待状を受け取りこれを準備したのだろう、と考えると、幸貴はどうしようもない悲しさと苛立ちに襲われて、ここがどこであるかも忘れて叫びたくなる衝動に駆られた。いつまで経っても、どこまで行ってもそこにいるのは、小さな箱に丸まっている情けない自分自身の姿だ。


「今、厄介な顧客抱えて苦労してるみたいだけどな」


「厄介な客? 無理難題吹っ掛けられてるとか?」


「無理難題……んー……まぁ、そうと言えばそうかな……」


 なんつーか……と、らしくなく口籠った大垣は、釈然としない表情をこちらに向けて、


「問題児だよ。いろいろと。でも、周りの人間は絶賛してる。……高槻も」


 僅かに口元を綻ばせてそう言った。

 幸貴の胸にツンと何かが突き刺さった。

 不意に梯子を外されてしまったような、心許ない感覚に襲われた直後には、そこにあった寂しさと得体の知れない何かが姿を現した。


 ——どんな奴なの?——


 ギスギスした感情と共に、そんな質問が頭に浮かぶ。


「……気になる?」


「…………」


 気にならない。と言えば嘘になる。

 意地の悪い訊き方をする大垣を幸貴は恨みがましく思った。しかし、一方で、それを問う権利が自分にはないことも重々承知していた。ピアノのことも創平のこともそうだ。そして、今の仕事に関してもそうだ。幸貴は音楽教師でありながら子供たちに音楽の楽しさを伝えることも出来てはいない。あの日からずっと何もかもが中途半端なままなのだ。

 あの生活に戻りたいか? と問われればYESと即答出来ないくせに、自分が最も輝いていた時期はピアノ漬けだったあの日々以外に思いつかない。

 幸貴の後悔を掘り起こすように鈍ってしまった指が、無意識のうちにテーブルの上でカタと動いた。

 しかし、八十八の鍵盤がないテーブルの上ではあの日のカデンツァはもう響かなかった。


「お前さ、夜道を歩く時に気を付けろよ」


 何の前触れもなく大垣がそう言った。


「何だよ、それ?」


 幸貴は力なく笑ったが、大垣は尚も真面目な顔で幸貴の方を見ている。


「いきなり殴られたりしないように」


「……創平から? ……いいよ。殴られても仕方がないことをした」


 むしろ、いますぐここで殴って欲しい。

 何をやっているんだ!? ピアノはどうしたんだ、と。


「いや、あいつはそんなことしないだろうけど……」


 ボソっと呟かれた言葉は周囲の雑音に紛れ、上手く聞き取れなかった。

 幸貴が視線を向けると、大垣は何でもないと首を振り、


「高槻はきっともう大丈夫だよ」


 どうしようもないダメ人間を見放すでもなくそう言って、大垣は机に置かれた茶封筒を顎で示した。


「それが答えじゃん」


「…………そうだね」


 取り残されたのは自分の方なのだ。

 選択したはずの自分が迷子になっているなんて本末転倒もいいところだが、それが幸貴の真実だった。煌めくような過去の出来事に指針を求めても誰も何も答えてはくれない。何が本当で自分はどこに向かうべきなのか、それが見つからない限りどこへ行ってなにをやっても決して前に進むことは出来ないのだろう。

 誰の所為にすることもなく、自分自身と対峙しなければならない。

 自分が創平に押し付けてしまったものを。

 そして、この楽譜の重みと、あの日々にも。

 強くなりたい。

 幸貴はそう思った。

 大切な日々を捨てて自分が掴んだものを、本当に守ることが出来るように。

 そして、創平とあの日の自分にきちんと謝まれるように。

 

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Cフラットな番外編 畔戸ウサ @usakuroto

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