【BL】sweet & bitter
ふわりと立ち上った湯気は甘くまろやかな形をしていた。
マグカップを覗くと淡いこげ茶色の液体に、白いミルクの線が渦をえがくように幾重にも重なっている。トロリとした質感と、部屋に充満する甘ったるい香りに刺激され、創平は思わず胸を摩った。
二月十四日。バレンタイン。
一世一代の決意を心にこの日を迎えた女性は多いかもしれないが、そんなイベントと無縁の創平は仕事帰りに食材を買って、その足で野宮邸へとやってきた。
今日のメニーは胡麻豆乳鍋。創平は二人分プラスアルファの食材を準備したつもりだったが、鍋を食べても陽夏の食欲は満たされず、最後はチーズと卵とパスタを入れた特製カルボナーラで締めることになった。
うまいうまいと言って食べる陽夏につられたせいで、創平も腹八分目はとっくに超えている。それでなくても、二人で食事をする時は食べ過ぎてしまう傾向があるため注意していたはずなのに、カルボナーラの後、まさかの伏兵が現れたのだ。
まさか陽夏がチョコを準備していたとは……。
「心配しなくても、ちゃんとレシピ通り作ったから、大丈夫だよ」
思わず凝視してしまった創平に、陽夏は何を勘違いしたのか、そんな言葉をかけてきた。
トーストを焼いてバターを塗っただけで料理をしたと豪語するほど家事音痴な陽夏が、説明書を読み分量をはかってわざわざ創平のためにと作ってくれたホットチョコレートだ。作る前にこちらの意向の確認をしろだとか、もうこれ以上入らねーよとか、満腹感を切々と訴える胃の中身とは裏腹に、創平は喉元まで出てきた言葉を飲み込んだ。
「これ、今から飲むのか?」
「食後のデザートだよ。俺のはマシュマロ入り。創平ゴテゴテしたの嫌いでしょ?」
ホットチョコレートという時点で既にゴテゴテしているという認識は、残念ながら陽夏の中にはないようだ。
「俺はコーヒーでも十分だけど……」
「じゃ、これ飲み終わったらコーヒー淹れようか?」
違う! そうではない! そういう事が言いたいわけではないのだ!
創平よりも量を食べたはずの陽夏は、それでも美味しそうにマシュマロ入りのチョコレートを飲み始めた。
「うまーいっ!」
あれだけ食べてもまだこの甘々な一杯を美味いと思えるのか……。
創平は底なしの高校生の食欲に感嘆のため息を漏らした。
もともと陽夏は同年代の子供に比べて手足が大きく、成長につながる兆候は持っていたのだ。むしろ、高校生になるこの時期まで身長が伸びなかったことの方が問題で、創平が野宮家に関わるようになってから停滞していた陽夏の成長スピードは一気に加速した。
成長期真っただ中の男は、何を食べさせても……何ならちょっと失敗したかもと思う料理でも嬉々として完食してしまう。創平も仕事があるため、毎回手作りというわけにはいかず、今日のようにスーパーで買ってきた鍋のスープに切った食材を放り込むだけなんて日もざらなのだが、それでも陽夏は文句も言わず、それどころか弁当屋の弁当であろうと、スーパーのお惣菜であろうと創平が持参する食事をいつも心待ちにしてくれている。
これだけ身長が伸びているのだから腹が空くのも当然だよなぁ、と創平は改めて、基礎代謝も新陳代謝も自分のそれとはまったく違う男子高校生の身体を思いやった。
二年前の春に出会った時より陽夏は格段に成長した。
それも、創平が想像するより随分早いスピードで。
つい先日のこと。創平は陽夏の肩のラインと視線が自分のそれより高くなっていることに気付いた。
あ、と思ったが、それ以上口にすると陽夏が調子に乗りそうだったので、敢えてその話題には触れなかった。
今現在も止まることのない思春期男子の成長ぶりには目を瞠るものがある。陽夏はきっとこのまま一八〇センチを超える立派な体格の青年へと成長するだろう。
年上の矜持でなんとか立場の優位を保っている創平だが、フィジカル的に負けてしまったという事実は思いの外衝撃が大きかった。
陽夏に対して抱いた、羨望と、驚きと、感動……そして僅かな寂寥感。
さっさと大人になれと期待する一方で、陽夏が巣立って、どこかに行ってしまう事に一抹の寂しさが胸を過った。
「創平も早く飲みなよ。マシュマロ一個食べてみる?」
「いや。遠慮しとく」
そう言って微笑みかけてくる輪郭に、ほんの僅か薄紙のような幼さが残っていることに、創平は少しだけ安心する。
そして、バレンタインだからチョコレートと安直な考え方をする、能天気な子供のままでいてほしいと無意識のうちに考えていたことに、罪悪感を覚えた。
調律師とピアニスト。
本来あるべき関係にリセットする時、その苦さを引き受けるのは自分の方だろう。
創平は陽夏の身長が伸びた分だけ、来るべき日のために別の覚悟を積み重ねる。
いつまでも心に刺さったまま、自分では取り去ることの出来なかった棘を抜いてくれたのは陽夏と、陽夏が奏でるピアノの音だった。
それだけでも十分に感謝している。
「お前、学校ではチョコ貰わなかったの?」
「え?」
陽夏が弾かれたように顔を上げた。
創平をマジマジと見るその頬が、ほんのり赤くなっていた。
こんな時にポーカーフェイスで対応できないところが、陽夏のおバカで可愛いところでもある。
貰ったんだな。
創平は確信する。
「可愛い子いた?」
「創平はくれないの?」
創平の質問には答えず、陽夏はムッとした顔で切り返してきた。
甘ったるい空気に少し亀裂が入る。そうと分かっていて、創平は敢えてその質問をした。確信犯だ。意地が悪いと創平自身も分かってはいる。
ただ、自分に構うことで陽夏の選択肢が失われてしまうことを危惧してしまう。
親心というより、大人として。
「何個貰っても変わんないからね。俺が欲しいチョコは一個だけだよ」
そう言って、ぶすくれて陽夏はずずっとホットチョコレートを啜った。
「……あのさ」
「何?」
「………………西村さんにはチョコあげたの?」
そして、長い沈黙の後、超特大の爆弾を投下してきた。
今度は創平が赤面する番だった。
「………………」
「えぇーっっっ‼ あげたの!? ずるいずるい!」
「あげてない! 男同士でバレンタインとか……ってゆーか、お前もいい加減、先輩に突っかかるのやめろ。終わったことにギャーギャー言っても何も変わらないからな」
もうあれから五年経つ。西村は創平の学生時代の先輩で、音楽大学のピアノ科に籍を置いていた。創平にとって西村は初恋の相手で、唯一男性として恋人の肩書を共有した人物でもあった。不本意な事情で一年足らずでその関係は終わり、ズルズルと未練を引き摺っていた創平にも非があったが、それを今更蒸し返して、居もしない人間に敵対心をむき出しにする陽夏はもっと大問題だ。
「でも何かしたんでしょ? バレンタインの日、二人で」
デリカシーのない質問に創平は心底呆れた。メラメラと燃え上がった怒りも、一周りしてあっという間に鎮火するほどくだらない質問だった。
背がどれだけ伸びようと、やっぱり陽夏は陽夏だ。
「覚えてない」
「嘘だ! 絶対覚えてる。さっき、チョコあげてないって言ったじゃん!」
そして、妙なところだけ勘がいい。
本当に困ったものだ。
創平は頬杖をついて、その日のことを思い出した。
チョコはあげなかった。それは確かだ。買うかどうかすごく迷った記憶がある。結果、チョコではなくプレセントを渡した。
そして…………
「鍋食べた」
「へ?」
「先輩と、鍋食べた。……こんな感じで」
創平はホットチョコレートをグルグルかき回していたスプーンで空になった鍋を指し示す。
まさか創平が答えてくれると思ってなかったのだろう。一瞬びっくりしたように顎を引いた陽夏は「お、おお……」と納得したのかしていないのかよく分からない反応をして、うろうろと視線を彷徨わせた。
「食後はコーヒーだったけど」
ポツポツと頭に浮かんだ記憶をそのまま口にすると、陽夏の顔色がさっと変わった。
萎れた花のようにシュンと肩を落とす姿を見て、創平は自分が失言してしまったことに気付いた。
「……コーヒーの方が良かった?」
恐る恐る顔を上げて、しかし陽夏は真剣な表情で創平の心の奥深くまで探るようにまっすぐな視線を向けてくる。つい今しがた、ホットチョコレートにキラキラした笑顔で食らいついていた無邪気さはそこにはない。
そんな顔をさせてしまったことに、創平の心がズキンと疼いた。
「そっか……。創平、いつもブラックだもんね。……それ、飲めなかったら無理しなくていいよ」
カップに手を伸ばしてきた陽夏から、守るように創平は自分のマグカップを両手で包み込む。
「ばぁーか。飲むよ」
そのまま捨て置いて、陽夏を失望させればよいのに最後の最後でとどめを刺すことができない。陽夏の表情に浮かぶ憐憫故か、自分の罪悪感に耐えられないだけなのか。いずれにしても卑怯な行為だと自覚しながら、創平は自分の心も行動もどうしたら良いのか掴み切れないままでいた。
「でも、コーヒーの方がいいんでしょ?」
「どれだけ食ったと思ってんだよ。高校生と二十六歳の食欲を同列にするな。カルボナーラの後にチョコレートとか、オッサンには重すぎなんだよ」
「だからー……」
再び、カップへと手を伸ばした陽夏から遠ざけるよう、創平は自分の方へカップを引き寄せる。
「いいんだよ、これは。お前、わざわざこれ買ってきたんだろ?」
「うん」
「で、説明書読んで作ったんだろ?」
「うん」
「だったら飲むよ」
創平は、カップを持ち上げて香ばしくて甘い液体を口に含んだ。
想像通り甘い。胸やけしそうなぐらいに甘いが、味は確かなものだった。鍋がなければ創平も陽夏と同じように、美味い! と即答できただろう。
「…………本当はコーヒーの方が良かったんでしょ?」
「うん」
……でも、と創平は一息ついて陽夏を見た。
「俺も昔は甘いのばっか飲んでたよ。それこそ、スタバのキャラメルなんちゃらとか、カフェオレにも砂糖入れてたし、今のお前と全く同じ」
「そうなの?」
陽夏がきょとんとした顔で目を瞬いている。
それを見て、創平は再びホットチョコレートを一口飲んだ。
「うん」
ブラックコーヒーを飲めるようになったのはいつの日か。
あの苦さをうまいと思い、好むようになったのはいつだったか。
もう思い出せないけど……
鍋の後にカフェオレを飲む創平を見て、西村は「よくそんな甘いの飲めるね」と笑っていた。
ザラリとした過去の思い出を溶かすように、創平はカップの中をスプーンでかき混ぜる。白いミルクの線はチョコレートと溶け合って、今は淡い焦茶色の液体があるだけだ。
「……ああ、そうだ」
創平は椅子に掛けていたスーツのポケットのから愛らしい包みを一つ取り出した。
「ほら。これ」
ピンク地に茶色の英語が描かれた銀紙に包まれた小さな塊は、創平の手のひらに収まるほどの大きさで、ぎゅっと束ねられた真ん中部分に金色のモールが巻かれている。小さなてるてる坊主を逆さにしたような形のそれは、会社で配られたチョコだった。
「お前にあげる」
「……いいの?」
おずおずと差し出された大きくて綺麗な手の上に創平はその包みをコロンと落とした。陽夏の顔がみるみる明るくなり、再びきらっきらの光を放ち始める。
やっぱり野宮陽夏はこうでなくちゃ、と創平は思う。付き合うとか付き合わないとか、そんなことを抜きにして、陽夏は陽夏のままがいい。
無理して
自分が誰のものになるのかならないのか、陽夏との関係も発展するのか切り離すのか、未来のことなど創平には一つも分からなかったが、自分と陽夏がどんな関係であろうと陽夏には笑顔でいてほしいという想いはこれからもずっと、どこへ行っても変わることはない。
「会社で貰ったチョコだぞ?」
「いいよ!」
「義理だぞ」
「分かってるよ。でも創平がくれたチョコだもん! 西村さんにもチョコあげなかったんでしょ? 俺、もしかして初めて西村さんに勝った?」
「だからもう、それやめろって。
それに、ピアノの腕というのであれば陽夏はとっくに西村を抜いている。
創平は苦笑しながらホットチョコレートを飲み干した。
「ほら、メシ終わったら勉強するぞ」
空になった食器を集めながら陽夏を急かす。
「もうすぐ期末テストだろ? 赤点取ったらマジで許さないからな」
「うえー……やなこと思い出させないでよ」
手のひらのチョコを大切に握りしめながら、この世のものとは思えない変顔で机に突っ伏した陽夏を見て、創平は笑いながら席を立った。
(完)
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