えにし、結びて

 駆け巡った追憶に鷹臣が目を細めている間にも、鷹臣という存在は希薄になり続けていた。

 どうする事も出来ないのか、と唇を噛みしめながら、かさねは必死に鷹臣に縋る。

 全身を以て鷹臣が去ってしまうのを留めようというように、只管に呼びながら、縋る。

 そんなかさねの耳に、深い決意を秘めた静かな言葉が聞こえた。


「……一つだけ方法がある」


 斎だった。

 かさねは、一瞬何を言われたのかが分からなかった。

 脳裏は真っ白になり、思考は停止する。しかし、理解した瞬間弾かれたように斎を見ていた。

 かさねの問う眼差しの先で、斎は何かに思い巡らせるように目を伏せていた。

 そして、開いた瞳には強い覚悟の光がある。

 真っ直ぐに向けられる視線を受け止めて、斎は静かにその言葉を口にした。


「かさね。……あなたが私を……死神を継ぐんだ」


 思わず目を瞬くかさね。一度、二度、目を瞬きながら斎を見つめ続ける。

 死神を継ぐとは、どういう事なのだろうか。

 疑問が裡を駆け巡るかさねに向けて、斎は更なる言の葉を重ねる。


「あなたが新しい死神となり、鷹臣の命を結ぶなら。……鷹臣は助かるだろう」


 死神とは引き継げるものなのかという問いも、最後の言葉に全て吹き飛ぶ。

 引き継いだらかさねはどうなるのかという恐れも、惑いも。

 鷹臣が助かるという言葉だけが、かさねの中に絶対の意味を以て響いている。

 惑いの中に微かな希望の光を抱きながら、かさねは斎を見る。

 斎は、少しだけ何かを堪えるような様子を見せながら、微かに笑みを見せた。


「契約の最後の血筋の娘、私の力の一部から為る最後の血筋であるあなたなら、可能だ」


 紫園の祖の妻は、斎の力により人となった人形だった。

 つまり、斎の力の一部は紫園に受け継がれ続けてきた。故に、紫園の血を引きものは斎の後継となる事が可能だという事だろう。

 けれど、それは取りも直さず紫園の終わりをも意味することにかさねは気付いていた。

 最後の娘が、人ならざる者に転じる。紫園の血は、それを以て完全に途絶える事になる。

 だが、それが何だというのだ。鷹臣が生きていてくれる事、それに比べられるものなど、かさねの中には存在しないのだから。


「駄目だ、かさね……。お前は、人として、幸せに……」


 かさねの耳に、掠れた鷹臣の声が触れる。

 見れば、苦痛に堪えながら鷹臣がかさねに手を伸ばしている。

 頬に触れる薄れゆく手を感じながら、かさねは鷹臣の情を感じてその手に自身の手を添える。

 巡る追憶の中、初めて『主と妾』として出会ったあの日が蘇る。

 戸惑いの中、頬に触れた熱いと感じた手は、今温もりを失いつつある。

 愛しい、という思いがかさねの裡を満たしている。

 あの時よりも随分と経った気もするし、一瞬であった気もする。

 けれども、今確かにかさねの裡にあるのは、この男性を愛しいと感じるこころ。そして、それ故に失いたくないという想い。

 かさねは、鷹臣に微笑む。向ける眼差しは、愛を識って強くなった女の眼差しだった。


「以前、咎は私が引き受けると、旦那様は仰いました」


 思い出すのは、忍の奸計にはまりかけた処を助けられて帰宅した夜。

 自分以外へ苛烈なまでの態度を見せた鷹臣が、自分を腕に抱いて言った言葉。


『咎は私が全て引き受ける。だからお前は』


 あの時、鷹臣はそう言った。

 かさねが背負うはずの罪も、負うべき責めも、全て引き受けるから……引き受けて、逝くから。だから、お前は幸せに生きろと。

 鷹臣はいずれ自分がどうなるか知っていたのだろう。

 だからこそ、自分が消えた後にかさねが幸せに生を続けていけるようにと。

 でも。


「けれど、それでは私は旦那様と同じ場所に在る事ができません」


 その日々には鷹臣がいない。

 埋もれるほどの恵みに満ちていようと、何の憂いもない日々であろうと。

 それは、かさねにとって幸せどころか、生きる事を強いられる地獄のようなもの。


「私の幸せも喜びも、全て貴方と共に。私は、あなたと共に生きていきたいのです」


 罪を、憂いを哀しみを。科されたとしても、かさねは鷹臣と同じ場所に在りたい。

 例え裁きの焔に身を焼かれたとしても、吹きすさぶ寒風に肌を刺され続けたとしても、痛みすら甘んじて受け入れて隣に在りたい。

 鷹臣と違う場所に生きる日々に、かさねの幸せはないのだ。


「私は、あなたの『胡蝶』で在り続けたいのです」


 戸惑いと幾らかの諦めと共に受け入れた呼び方だった。

 しかし、今はその呼び方が嬉しい。『蝶憑き』と忌まれた身が、鷹臣に慈しまれた証とも言える呼び名と想うから。

 確かに、自分がこの男性のものだと思える名前だから。

 かさねは心から思う、鷹臣の『胡蝶』で在り続けたいと。


 鷹臣が何かに耐えるように、けれど何処か優しい苦笑いを浮かべようとしたのが分かる。

 かさねは、強い意思を宿した瞳で斎を真っ直ぐに見つめた。

 それが、かさねの答えだった。迷いも戸惑いもない、唯一つのかさねの願いだった。

 斎は頷くと、自らの内から何かを形と為した。

 それは、一際美しく、強い光を放つ蝶。他の蝶とは違う、紅色を帯びた金色にも見える妙なる色彩を放っている一匹の蝶だった。

 斎の手から飛んだ蝶は、ひらひらと優美な軌跡を描いたかと思えば、真っ直ぐにかさねの胸へと飛び込んでくる。そして溶けるようにして、かさねの内に消えた。


 それは、呆気ない程の……あまりに静かで穏やかな、一つの終わりと始まり。


 本当にこれで死神を継げたのかと訝しんだ瞬間、かさねに明確な変化が生じる。

 身体が瞬時に違うものに作り変えられていくのが分かる。

 不可思議の力が駆け巡り、かさねをそれまでとは違う存在に変えていく。

 人ならざる者に変わっていく中で、かさねには見えた。

 内なる心象に、現ならざる『糸』が。途切れてしまった、斎と鷹臣を繋いでいたもの、そして未だ結ばれていないかさねとの糸。

 どうすればいいのかは、言われずとも分かった。

 かさねは、他には見えない糸を静かに手に取り、結ぶ。けして解けぬようにと願いながら、強く固く。

 実際の手を動かしたわけではない。全ての動きはかさねの脳裏にて行われた事だろう。

 本当にこれで大丈夫なのかと何時の間にか瞑ってしまっていた瞳を恐る恐る開いた瞬間、目の前の光景に変化が生じた。

 倒れていた鷹臣の傷が見る見る内に癒えていく。希薄になりつつあった存在が、時が巻き戻るように元に。

 失せていた顔色も、元の通りに。消えかけていた鷹臣が、かさねが愛したいつもの鷹臣に戻っていく……。

 やがて、鷹臣が傷ついていた名残は軍服に残る血の跡だけとなった。


「旦那様……」

「まったく、無茶をする……」


 目にした事がどこか夢のようで現実と思えなくて、目を瞬きながら呆然と呟いた声に返る優しい苦笑いを含んだ言葉。

 咎めているようではあるけれど、喜びを滲ませてもいる、低く落ち着いたかさねの好きな声。

 嘉臣の手を借りて倒れた身を起こしながら、鷹臣はかさねを見つめている。浮かべた苦笑には、かさねが人ならざる命を選んだ事に対する哀しみも見える。

 鷹臣は今こうして再び現世に命を繋いだ。

 これはかさねの我儘だったのかもしれない。かさねにとって世界にも等しい人の命に反する行いだったのかもしれない。

 それでも、鷹臣がこうして自分を見つめていてくれること、現の声で自分を呼んでくれること。それだけがかさねにとって全てであり、幸せだった。

 伸びた手がかさねを抱き締める。

 その腕が変わらずに力強く温かである事に安堵を覚えれば、一度は途切れた筈の涙が再び溢れてくる。此度は哀しみではなく、喜びに。

 慣れた温もりに身をゆだねかけていたその時、かさねを抱いていた腕が強張った。

 何かと思って顔をあげると、鷹臣の表情が凍り付いている。驚愕の眼差しの先に何があるのかとそちらを見てみたならば。


「斎……?」


 眼差しの先には、斎が居た。けれど、先程までとは明らかに様子が違う。

 斎の輪郭がぼやけている気がするのだ。

 まさかと思い鷹臣の腕から抜け出し、斎へ手を伸ばして触れようとしても、触れる事が出来ない。

 斎の身体に触れる筈の指先には、虚しく空を切る感触がある。

 何度かそうして、漸く気づく。斎の身体は、もはや現の感触を持っていないのだと。

 どういう事、と問おうにも出来ない。もう何処かで分かってしまっているからだ、何が斎に起きているのか。

 斎は少しだけ困ったように笑いながら、言った。


「これでお別れだよ……かさね、鷹臣」

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