それは、とても不思議な

 かさねの身体が目に見えて震え始める。至った考えを否定したくて必死に首を振る。

 目の前にある事実を認めたくない。認めたら、かさねは失ってしまうから。唯一人と思う人を、失ってしまう――。

 可能性を否定して欲しくて悲痛な願いを抱いて斎を見つめるけれど、斎は苦い表情で首を横に振った。

 それが示す事実がかさねを打ちのめす。

 かさねは呆然とした表情のまま、掠れた声でそれでも、と願いを呻くように囁く。


「繋いだなら。もう一度、繋いで」

「無理だ」


 かさねの目が見開かれる。

 嘘だ、と口にしたいのに声が出てこない。それなのに、見張った目からは涙が止まる事なく伝い続けている。

 心がそこにある事実を否定しているのに、何故かかさねは泣いている。

 それでは認めてしまったようではないか、と泣くのを堪えようとして歪な表情になってしまう。


「私が為した繋がりは断ち切られてしまった。……もう、私は繋ぐ事ができない」


 斎は表情を歪めながら、残酷な現実を告げる。

 変えられない現実を無念と思う心が、震える声音に、血が滲む程に握りしめられた手に表れている。

 死神と呼ばれる存在であっても、そう何度も横紙破りめいた真似はできないのだと、かさねは知る。

 糸を結ぶ事ができるのは、力持つ存在であっても一度きり。千切れた糸をもう一度結ぶ事は許されない。

 斎を以てしても、鷹臣がこのまま消えるのを止める事は出来ないという事実がかさねを打ちのめす。

 消えてしまう、居なくなってしまう。かさねの愛しい男性が。現世との繋がりを断ち切られて、常世へ去ってしまう。

 嫌だ、と叫びたいのに呻き声すらもう零す事が出来ない。旦那様、そう呼びたいのに声を失ってしまったように、唇は何も発さない。

 斎は倒れた鷹臣の傍らに膝をつきながら、咎めるように叫ぶ。


「繋がりを断ち切られたら、もう存在していられなくなるといった事を、忘れたのか……⁉」


 言って聞かせていたのを忘れたのか、と責める斎の言葉はあまりに悲痛な響きを帯びていた。

 斎は鷹臣に教えていたのだと言う。紫園家の敷地のどこかに在るであろう、断ち切る刃の存在を。

 そして、言って聞かせていたという。この刃にて傷を受けたならもはやこの世に留まり続けられないという事を。だから、ゆめゆめ気を付けるように、と……。

 嘉臣も、もはや傷を押さえる事すら忘れて、無事な片目から涙しながら兄を呼んでいる。

 かさねは、呆然とした表情のまま、その言葉しか知らないように「だんなさま」と呟き続けている。

 その時、苦痛に耐えながらの掠れた声が、その場にある人間の耳に聞こえた。


「……覚えて、いたさ……」


 かさねは弾かれたようにそちらを見る。嘉臣も、斎も同じように目を見開いてそちらを見る。

 弱弱しい呻き声を発するのみだった鷹臣が、僅かに瞳を開いていた。

 口元に皮肉を浮かべたくても、最早それすら叶わない様子で、少しばかり表情に苦さを滲ませて。緋の筋に彩られた口元にほんの僅かに歪めて、鷹臣は囁くように口にした。


「それでも……気が付いたら……お前を庇っていた、だけだ……」


 ◇◇◇


 ――つくづく、おかしな男だというのが最初の印象だった。


 弟の誕生とほぼ時を同じくして、父である先代当主が亡くなった。

 鷹臣は未だ少年の身にして、紫園家の当主となる事になってしまった。

 無論、後見と呼べる人物はついたものの、彼が当主である事に変わりはなく。鷹臣は少しばかり駆け足で精神的な齢を重ねる事を余儀なくされた。

 当主を引き継いだものは、池の畔にある石碑を訪れる倣いがあるというのでその通りにした。

 訪れてみれば、そこには蒼みを帯びた銀をまとう、人に非ざる美貌を持った男が笑みを浮かべて立っている。

 彼を置いて戻った家令の様子からして、家令には男が見えていなかったのだろう。

 男は、斎と名乗り、自らを紫園家に加護を与えてきた『死神』であると言った。

 何が加護だ、呪いではないかと内心嘯いたものである。

 当主の子を産んだ女が死ぬことから、他者からは恐れられ。子は母を知らぬまま育つ。

 何故か自身は父に命を狙われ続け、諦めて受け入れようとしても、それすら出来ない。

 それも、その『加護』とやらの所為かと思えば敬う気持ちよりも恨めしい気持ちが先立つ。

 少年の内心の懊悩など知ってか知らずか、斎は鷹臣に対して厳かに言ったものだ。

 お前に、重大な命を言い渡す、と。当主となった者が代々努めてきた大切な勤め、と勿体ぶって言うものだから身構えていたら。


 ……命じられたのは、老舗の菓子屋でどら焼きを買って来る事だった。


『お前の先代も、先々代も、私に菓子を与えるのが最初の勤めだったのだよ』


 満面の笑みでどら焼きを頬張りながら、死神はあっけらかんと言った。

 こいつ、いっそ殴ってやりたい。そんな事を思ったが、何とか我慢した。

 菓子屋へのお使いは、それだけでは終わらなかった。

 何故か頭の中に忍び込むように聞こえてくる声は、これが食べたい、あれが食べたいと伝えてくる。

 授業中に聞こえて来た時には思わず怒りに叫んでしまい、級友達は驚愕するし、教師には説教をくらった。

 帰りには欠かさず菓子屋による鷹臣を知った周囲は、彼は余程甘い物好きなのだろうと囁いていたらしい。

 家令が目を細めて、先代の旦那様もお好きでした、と言っていたところを見ると父も同じ思いをしていたようだ。その時、鷹臣は初めて父に同情した。

 無視を決め込んでやろうとしたものの、出来なかった。

 何故なら、死神と名乗る能天気な男は、鷹臣が願いを無視にすると嫌がらせをしてくる。

 それも、水の入ったバケツを扉に仕込んでおく、寝床に大量の蛙を仕込むなど、子供の悪戯かと思うようなものばかり。

 仮にも死神ならもう少し格を弁えた嫌がらせをしてみせろ、と怒りに耐えながら迫っても、帰ってきた答えというのが。


『だって、面白くないじゃないか』


 やっぱりこいつ殴ってやりたい。鷹臣は心の中で呻きながら拳に力が入るのを必死で耐えた。

 少年の身で名家の主となった重荷は、想像以上に彼を苛み続けた。

 薄汚れた思惑で彼に近づいて来るものは多く、実の弟は彼を慕ってくれているらしいが触れる事を自ら戒めていたし、周囲も近づかせようとしない。

 士官学校に進んでからも、彼が斎に甘味を運び続けるのは続いていた。人に任せてしまいたいと思ったが、彼以外に斎を見る事が出来る者が居ない。

 一度、使用人に石碑に供えて来いと命じて見たものの、その夜寝ていた彼の顔目掛けて物凄い速さで菓子の空箱が飛んできた。

 痛みを堪えながら、殴りにいってやろうか、と本気で思った。以後、何をされるか考えれば面倒になるので、人に任せる事は止めた。

 斎はいつも呑気な表情で鷹臣を出迎え、手にした菓子を見て嬉しそうに笑みを浮かべた。

 彼の周りには、そんな風に笑うものは居なかった。彼を見る人々の目は、どこか冷たく、恐れを宿したものばかり。

 一人だけ例外だったのは、女中頭のタキだった。

 老女は使用人達が腫物に触れるように鷹臣を扱う中、時として説教をしたり、心配して涙したり、まるで家族を想うように接してくることがある。その理由を知った時、彼は内心で複雑な想いを抱いたが……。

 ある時、斎とこんな会話をしたものである。


『よくそんなに甘いものばかり食えるな』


 その日も、何時ものようにねだられた菓子を買ってきて、斎に届けた。

 ジャミをたっぷり添えたワッフルの皿を手に踊りださんばかりに喜ぶ斎を見て、げんなりとした顔で鷹臣は呟いた。

 彼はそこまで甘いものを好まない性質だったので、尚更吐き出す溜息は深くなる。


『お前もどうだい? 美味しいよ?』

『要らん!』


 言われてきょとんとした顔をした斎は、食べてみれば良いよという風に突き匙を差し出してくる。

 青筋を立てながら叫ぶ鷹臣を見て、斎はこれみよがしに溜息をつきながら肩を竦めた。


『少しは子供らしく素直になっても良いと思うのだけどね?』

『誰が子供だ、誰が』


 その時、鷹臣は二十歳になろうかという頃だった。当然もう少年とは言えぬ年頃だった。

 立場も相まって既に大人として扱われており、眉間の縦皺が更に増す。


『お前に決まっているだろう』

『……私が何時までも子供だと思うな。もういい年だ』

『私にしてみれば、まだまだ子供だよ』


 何を当たり前の事を聞くのだという様子で言われて、拳を握りしめてしまった事を覚えている。

 やれやれ、と肩を竦める死神は紫園家の祖と契約を交わしたというから、気の遠くなる歳月を生きている筈だ。それから見れば、確かに子供どころか赤子の様なものであろうが。

 ひきつった表情で自分を睨む鷹臣を見て、斎は困ったように笑いながら言った。年の離れた弟を諭すような優しい、けれど何処か寂しげな声音で。


『私の前だけでは、年相応で居なさい』


 斎は手がかかるけれど、何時も変わらぬ存在だった。

 彼を恐れる事もなければ、むしろ子供のように扱ってくる。気兼ねするということがなく、遠慮なく振舞い、何時も無邪気に笑っている。

 殴ってやりたい、と思いながらも、何故か鷹臣はそれを実行した事がない。

 溜息をつきながら、甘味を手に斎の元を訪れ続けた。

 その都度、他愛のない話をして……斎にいいように揶揄われて憤りつつ戻ってくる日々ではあったが。

 けれども、鷹臣は知ってしまう。

 あれは用事があって離れを訪れた時だった。

 美しく整えられているのに、何故か酷く寒気のする場所で見つけてしまった父の日記帳。

 鷹臣は躊躇いながらも、それを見た。父が何故自分の命を狙い続けたのか、その理由を知りたいという思いが恐れに勝ってしまったから。

 理由は、そこに確かに記されていた。

 日記帳を咄嗟に何処かに隠した気がするが、もう覚えていない。脳裏が真っ白なまま、鷹臣は離れから飛び出していた。

 父は……名目上、父であった男は血を吐くような思いを記していた。

 鷹臣が、紫園家の血を引いていない事を。不義を働いた母は、父であった男に殺されたであろう事も。そして、鷹臣が池に沈められた事も……。

 彼はそのまま石碑の元へと走った。そして、彼を出迎えた斎を問いただした。自分は紫園の血を引かないのか、自分はもう死んでいるのか、と。

 斎が知らぬ筈がない、と感情のままに問いをぶつけた鷹臣に目を見張っていた斎は、ひとつ大きく息をついて語り始めた。

 彼の問いを、斎は肯定した。

 鷹臣が自身を化け物と呪う原因である、他者の命を喰らう力。他者を犠牲にして意思に反してでも命を繋ぐ身体。

 それが、斎の意思によるものである事を。鷹臣が既に死者であり、斎によって命を繋いでいる事を。

 彼が何故に鷹臣を生かしたのか、何故紫園の家を憎んだのか。彼と紫園の祖の間に交わされた契約を、その顛末を。

 何故に黙っていたと責めても、斎は何も応えなかった。

 手駒だというならば、もっと早くに……父であった男が生きていた頃でも、幼子の頃からでも都合の良いようにすれば良かったではないか。

 そう叫んだ鷹臣を見て、斎は酷く困った様子だった。自らも裡にあるものに戸惑っているように感じた。

 苦悩に焼かれるようで、眠れぬ夜を送った。

 それなのに、斎を憎み切れなかった。突き離しきれなかった、手を払い切れなかった。

 斎は、鷹臣にとって命を握る支配者であり。

 兄のようであり、何故か弟のようであり、時として父のようでもある、不思議な存在でもあったのだ。

 彼は、数日後にまた菓子を手に斎の元を訪れた。斎は、何事もなかったように笑顔で鷹臣を出迎えた。

 軍人となった彼は、任務にて家を空ける事も増えていく。

 その間は甘味を運ぶのが他の人間でも我慢しろ、というと「お前が帰ってくるまで待つから、さっさと戻っておいで」と不貞腐れる始末。

 死を望み、覚悟して出た戦場。出征し、戻る度、彼への恐怖と嫌悪は増していく。彼自身が『死神』と呼ばれる事が増えていく。

 鷹臣はその都度、自らを呪い、生き伸びた事に苦悩した。

 周囲の人々の出迎えの眼差しが徐々に暗く温度が無くなっていく中、斎は変わらず呑気なままだった。

 おかえり、と迎えながら、甘味をねだって手を差し出してきた。

 斎の心のうちは、見えないままだった。何も言わずに、彼らはあの日まで続いてきた。

 鷹臣が苦悩の果てに、かさねを探し始めた時に斎はとても喜んでいた。

 見つけ出した後、まだ幼いから待てと言われても、嬉しそうに頷いて見せた。

 もしかしたら、苦悩の影にあったもう一つの心……『自由にしてやりたい』という想いに気づかれていたのかもしれない。

 だからこそ、忘れられない。

 かさねを迎える事を告げた後に「一年待って欲しい」と告げた時、斎の顔が喜びから、急激に陰った事を。

 疑問を浮かべ、真実である事知って。鷹臣の心を知って、凍り付いていた斎。

 かつて信じた者に裏切られた斎の心が、あの時だけ聞こえたような気がした。『お前まで、私を裏切るのか』と。

 心がひび割れ、壊れていく音が聞こえた気がしたというのに、鷹臣はかさねを諦めきれなかった。

 待ち続けた斎の思いを知りながら、自分の願いを優先した。身勝手である事を知っていて、それ故の罪悪感に苛まれても。

 だからこそ、斎が一年の後に鷹臣の延命を解くと告げた時、静かにそれを受け入れたのだ。限られた時間が、斎の心に止めの傷を与えてしまった自分には相応しい報いと思ったからだ。


 それから、斎は笑わなくなった。

 微笑んでいても、浮かべる笑みはそれまでのものとは違っていた。

 斎は、あの時から本当に紫園の家を呪う『死神』となってしまったのだ……。

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