断ち切る刃
その場の人間の、驚愕や恐怖に染まった眼差しを一身に受けながら燁子はわらっていた。
顔の半分を覆う仮面もつけておらず、火傷の痕をそのまま晒しながら。それでも尚、凄絶な美を纏いながら燁子はかさねに言う。
「その男も、死神も、今消してしまうから」
顔色を失くすかさねに愛しげに眼差し向けながら、謳うような声音で燁子は続ける。
「お前は、わたくしと一緒にいきましょう? わたくしの、かさね」
「奥様……」
かさねを道連れに逝こうとして、失敗して。そして今、憎悪に蠢くかつての『胡蝶』達に心に入り込まれて。
慈しむように微笑ってくれていた燁子が、壊れ、欠片となって堕ちていく音がする……。
燁子に言いたい言葉は山程あるのに、以降の言葉が続かない。
壊れ、壊れて、それでもかさねを求めて手を伸ばしてくれる人に、言葉ひとつかける事ができない。
そんなかさねの横で、斎が苦々しさを滲ませた声音で呻く。
「……現世の存在を……現身を持つ者を操って、あれを持ち出したのか……」
かさねが斎を見ると、斎は顔を歪めて燁子の持つ刀を見据えていた。
蝶の意匠に飾られた、不可思議の光に輝く刀。
それに視線を向けたまま、斎は一度大きく嘆息した後、口元に歪んだ笑みを浮かべて口を開いた。
「あれは、私が紫園家の祖に契約の証として預けた刀だ」
かさねは思わず目を瞬いた。
確かに蝶にて魂を導く死神に、蝶の刀は相応しい。あれは、斎の刀であると言われれば頷いてしまう。
けれども、それが何故あの離れに隠されていて、今燁子が手にしているのか。
不思議に思っていると、斎が苦い声音で続けた。
「私を、唯一害せる手段だから。……信頼の証として預けたんだ」
何も疑わず約束が守られると信じていた死神は、自らの唯一の弱点を紫園の祖に預けた。
裏切られた信頼は今、彼に対する凶器として向けられている。
恐らく、離れが彼から隔絶された場所であったのはあの刀故だろう。
紫園の祖は、離れにて起きる惨劇を死神から隠し続ける為、証を取り返されぬ為、あの場所に預けられた信頼を封じた。
栄える欲に目が眩み、神と呼ばれる存在を利用する事に畏れを抱く事もなく、子々孫々に裏切りを引継ぎ続けた。
その集大成とも言える血を継ぐかさねは、知らぬ内に唇を血が滲む程に噛みしめている。
何処から、何時から、間違っていたのかと今問うても詮無き事と分かっていても、どうしてと裡に呟いてしまう。
斎はただ信じていたのに。信じただけだったのに。裏切りに裏切りを重ねた果てが、目の前に展開されている光景だ。
刀が外に持ち出された事であの場所から離れる事が出来た『胡蝶』たちは怨霊となり、怨嗟をまき散らしている。
怨霊たちは燁子を媒介にしているようだ。蝕まれながら刀を持ち上げる燁子を見て、鷹臣が呻くように呟く。
「燁子……お前は……」
「貴方に名前を呼ばれたくなどないわ!」
切り裂くかと思う程に鋭い応えに、鷹臣が顔を歪める。
燁子を見る鷹臣の眼差しに、何時も浮かべていたような冷ややかな光や嫌悪は欠片も無かった。
あるのは唯、悔いる悲痛のみ。
その瞬間、かさねは気付いた。鷹臣は燁子を心から疎んじていたのではない、と。
鷹臣は、燁子の事も紫園家の呪いから遠ざけようとしていたのだ。
紫園家の因縁に関わらずとも良いように。不運にも紫園家に嫁がざるを得なくなってしまった女性が、呪いに触れる事のないように。
憎まれているのを知っていて、甘んじてそれを受け続けた。憎悪とて生きる力となるのなら、それでいいと自らも偽りの憎しみを背負って見せて……。
「わたくしは、やっと見つけたの。大事な、大事なもの」
怨霊の叫びの中に、燁子の心の叫びが入り交じる。
不本意に嫁がされた。
求めるものは与えられたけれど、自分がもはや『無価値』である事、それ故に物のように売られたのだという思いは消えなかった。
少しでも心を開けたならば違ったのかもしれない、けれど、抱いた鬱屈は消え失せず。
愛する事も出来ず、愛される事もなかった。抱けたのは憎悪故に忌避するこころだけ。
美しいものをどれだけ集めても、彼女の日々は満たされる事はなく。
満たしてくれたのは、本来であれば疎ましい筈の妾だった。
唯一心から欲しいと求める事ができたのは、かさねだけだった。
「あなたも、あなたも、あなたも! 邪魔なの! わたくしの邪魔をしないで……!」
血を吐くような叫びと共に、燁子の視線は鷹臣へ、斎へ、そしてその場にある未だ紫園の名を持つ嘉臣へと向けられる。
鷹臣が何かを言いかけた瞬間、何かが膨れ上がるのをかさねは感じた。
燁子の背後にて蠢いていた女達が、一斉にその人間へと襲い掛かる。
「うわあっ……!」
「嘉臣……!」
女達の一人が嘉臣へと襲い掛かり、それを皮切りに幾人もが倒れた嘉臣に群がる。
鷹臣は焦りも露わに女達の群れを振り払い、嘉臣を助け起こす。
何とか群がる女達を鷹臣が振り払うと、嘉臣は何とか身体を起こした。
顔に流血があり、あちこちに傷は見られるものの嘉臣はまだ呻くだけの力が残っている。
しかし、助け起こした鷹臣も無事では済んでいない。
女達の怨念は物理的な傷さえ生じさせている。嘉臣だけではなく、鷹臣もまたあちらこちらに傷を負っている。
今は左程深手ではないようだが、これ以上傷が深くなれば恐らく傍に居る嘉臣を喰らう事となってしまう。
それ故に離れたいけれど、次から次へと、半ば怨霊と化した女達は襲い来る。
鷹臣の表情に明確な焦りと苛立ちが浮かぶのを見たかさねは、駆け寄りかけたのを斎に制止された。
腕を引かれたたらを踏んだ鼻先を掠めるように、旋風が通り過ぎた。かすめられた髪の幾本かが、鮮やかに断ち切られはらりと舞う。
「あなたも無事とは言えないのだ! 今は私の側を離れないでおくれ……!」
斎の表情には欠片の余裕もない。
あの離れにいた女達だけではない。
何時の間にか、その場に集う影には男もいる、赤子もいる。老人も、子供も。
恐らく、紫園家が続いてきた影で犠牲になってきた、去る事も出来ずにこの場に……四葩の結界の中に在り続けた者達だ。
怨嗟の叫びは風を呼び、うねり、降り注ぐ雨を巻き込みその場の人間を消し去ろうとする嵐となる。
斎はかさねを庇うようにしながら、襲い来る怨霊たちを相手取る。
お前が花嫁を求めなければ。お前が紫園に加護を与えなければ。お前が、いなければ。
怨霊たちは斎への憎悪を叫びながら、蹴散らしても、蹴散らしても、尚も襲い掛かり続けている。
けして逃してやらぬというように、恐ろしい執念を以て紫園に縛られた者達は斎を狙う。
向けられる怨嗟は黒雲のような形を為し、もはや目に見える程。
何故、とかさねは思う。
斎は唯信じていただけ、待っていただけ。約束が果たされる日を。
彼女らが恨むべきは、彼に偽りを誓った紫園の祖だ。
そして祖の血を引く者はかさねだ。
彼女らが憎むべきは、女児でありながら生き延びた、最後の紫園の娘であるかさねだ。
かさねは彼女らに叫ぶために一歩進み出ようとした。しかし、それも又斎に止められる。
「駄目だ。あなたは、大事な花嫁なのだから……」
「でも、あの人たちが本当に恨むべきは、貴方じゃない……!」
斎は思わぬ力強さでかさねを留め、そして庇って立つ。
止める斎にかさねは悲痛な叫びをあげるけれど、斎は静かに首を左右に振るばかり。
「あなたは私の……あの子の……大切な…‥」
その声音には、何処か不思議な情が籠っているように感じる。
血族を思うような……まるで弟や、或いは子を思うような温かな情を感じた気がする。
先程とは違う、何故、という言葉が脳裏を過る。
問いを抱いたかさねが思わず動きを止めて目を見開いた瞬間、それは起きてしまった。
斎もかさねも、怨霊たちに気を取られていて、反応が遅れた。
彼らに敵意を抱いてその場にあるのは、怨霊だけでは無いと言う事を一瞬失念しかけたのが仇となった。
怨霊たちを振り払って、振り払って。その向こうには刀を構えた燁子が、斎へと迫っていたのだ。
攻撃の後の無防備な隙を狙って、怨霊をまとった燁子が斎へと刃を振りかざし、振り下ろした。
血飛沫が舞う。悲鳴が響き渡る。
かさねの脳裏は真っ白になってしまった。
振り下ろされた刃は、確かに肉を切り裂き、敵と見なされた者を捉えていた。
誰もが呆然として、見つめている。
流血している顔を押さえた嘉臣も、白い顔を強ばらせたかさねも。そして、愕然としたまま目を見開いた斎も。
斎と燁子の間に割って入るように現れた鷹臣が深い傷を受け、赫を流しているのを、言葉を失って見つめていた。
何が起きたのかをすぐに理解する事は難しかった。鷹臣が斎を庇ったのだと気付いたのは、一呼吸遅れての事だった。
「……すまなかった……燁子」
事の成り行きに茫然としていたのは、刃を握っていた燁子も同じ事だった。
鷹臣は、詫びると共に燁子の手から刀を叩き落す。小さな悲鳴をあげながら、燁子は一歩、二歩、後ろ退る。
怨霊たちが何かを必死に叫んでいるようだが、燁子はただ立ち尽くすのみだった。
燁子が目を見開いて動きを止めると、亡霊達の動きが止まり、不思議な静寂が訪れる。
必死で叫び、呻き、再び動けと命じていても燁子は動かない。
もはやその身体の大半を怨霊たちの黒い念に蝕まれながら、唇をわななかせて自分を見る妻へ、鷹臣は口の端から血を流し言う。
嫁いでさえ来なければこのようにならずに済んだ妻を前に、鷹臣は詫びていた。
お互いに不本意であったし、鷹臣は終わりを引き受ける覚悟故に遠ざけていた。
だが、と鷹臣は何かを呟きかけたけれど、それ以上は何も言わなかった。
何を悔いても、もう遅いと思ったからかもしれない。或いは、他に思う事があったのかもしれない。
疑問を抱くかさねの前で、鷹臣は言葉なく崩れ落ちた。
「旦那様……!」
かさねが鷹臣に駆け寄り、膝をつく。
肩から脇腹へと袈裟がけに斬られた傷からは、あまりに鮮やかな紅色が次から次へと滲み、溢れ出ている。
一瞬遅れて我に返った嘉臣も兄の名を呼び兄のもとへと駆け寄った。
必死に二人は鷹臣を呼ぶけれど、鷹臣の口から零れるのは呻き声だけ。
あまりに受けた傷が深いようで顔を顰めていたかさねは、ふと或る違和感を覚えた。
「旦那様……?」
「兄さん!」
鷹臣は人の命を自分の命を変える力がある筈だ。
それなのに……どれだけ私の命を喰ってくれと願っても、かさねにも嘉臣にも何の異変も生じない。
鷹臣の傷が癒える事はなく、癒えるどころかおびただしい血が今も流れ続けている。呻き声も唯ひたすらに弱弱しい。
おかしい、とかさねは思った。
血と共に、大切なものも流れていっている気がする。徐々に、鷹臣という存在が希薄になりつつある……。
「鷹臣……お前、なんて馬鹿な真似を……!」
違和感に顔を強ばらせていたかさねの耳に、斎の呆然とした叫びが聞こえる。
そちらを見遣れば、蒼褪め震える斎が鷹臣を見ている。
全く余裕など感じられない。震えながら怯えながら、愕然とした様子で歩み寄ると、責めるように鷹臣へと叫ぶ。
「お前がこの刃を受けたら……お前は……!」
手には燁子が取り落とした刃があった。
本来の持ち主の手に戻った刀は、鷹臣の血に濡れている。
斎は唇を噛みしめながら自分ものである刃を見る。その目は戻って来た刀を歓迎してはいない。むしろ忌々しいとすら思っているようである。
「その刀に、斬られたら……?」
震える声でかさねが呟く。答えを聞く事が怖いけれど、今鷹臣に生じている異変はそれ故だと思い、意を決して問いかけた。
瞳には恐れと宿しながらも、途切れてしまいそうになる声を必死に叱咤して。
鼓動は未だ繋がっていてもあまりに冷たい鷹臣の身体に縋りながら問うかさねを痛ましげに見て、斎は僅かに躊躇った。
けれど逡巡は少しの間、やがて観念したように斎は静かに語り始める。
「これは、現世と常世の繋がりを断ち切る刃。そして、鷹臣は本来既に常世の者であるのを私が留めていた」
死神である彼は、この刀にて魂を現世から断ち切り、具現化した己の力である蝶に導かせて常世に送って来た。
怨霊たちがこの刃に触れる事が叶わなかったのは、彼女達が現世に器をもたない、本来既に常世の存在であったからだ。
彼女達は、この刃に触れればその瞬間に現世との繋がりを失い消えてしまう。だからこそ現世の身体を持つ燁子を操った。
そして、既に現世の存在でないというのは鷹臣も同じだ。
生まれ落ちてすぐ池に沈められた鷹臣は、死して間もないところを斎に見いだされ、命を与えられた。死神の眷属として常世の存在でありながら、現世に仮初の命を繋がれた。
そんな鷹臣が死神の刃にて斬られたとしたら、どうなる?
現世との繋がりを断ち切られたならば、本来あるべき形へ――死者に戻るだけだ。
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