自らの意思で口付けを
現れた死神を前に、三者はそれぞれに表情を歪め、身を強ばらせていた。
沈黙が満ちかけたが、それを破ったのはかさねだった。
「まだ一年経っていないのでしょう……⁉」
「本来待つ義理などないところを、情けを与えていたのだし。もうここまで明らかになってしまったなら待つのも無意味だよ」
顔を強ばらせて叫んだかさねに、肩をすくめて斎は答える。
かさねがこの屋敷にきて大分経ちはした。けれども、斎が鷹臣に与えたという一年――『胡蝶』が子を身籠る前に与えられる猶予の一年はまだ終わっていない。
どうせあと数か月の事とつまらなそうに嘯く斎が、酷く憎らしく思える。
人ならざる命を持つものにとっては「たかが」であっても、かさねにとって、そして鷹臣にとっては一日とて愛しい大切な時間だ。
非難をこめて厳しい眼差しを向けるかさねを見て、斎は一つ大仰に溜息をつく。
「そもそも、私の花嫁にする為に探し出した筈なのに。いざ見つかったら、いきなり『待ってくれ』と言い出したんだ」
その時の事を思い出したのだろう。声音に苛立ちが滲み、斎の表情は目に見えて不愉快そうに歪む。
斎は顔を顰めたまま、当時を振り返るように一度目を閉じて、再び開いたかと思えば続きを口にする。
「まだ幼かったから、とね。それなら仕方ないと待ったよ。でも、実際に迎えるとなったら。……当主の元に迎え入れられた『胡蝶』に与えられた一年の間。その一年だけでもかさねを自分のものとして傍に置きたい、と言い出した」
鷹臣が微かに身じろぎしたのを感じる。
視線をそちらにむければ、表情を強ばらせたまま斎を見つめる鷹臣が居る。
鷹臣が自分を傍に置きたいと願ってくれた事、それだけを思うなら素直に嬉しいと思う。
けれどそれは命綱を握る相手に逆らうと言う事だ。相手が長年の期待をし続けてようやく叶いかけたものに待ったをかける事。
どれ程の代償と引き換えになるのか、と裡にて冷たい汗が伝う心地がする。
その恐れを肯定するように、斎は朗らかなまでの笑みを浮かべて見せながら続けた。
「随分勝手だなと思ったものだよ。期待していたからそりゃあ腹がたったけれども、私も鬼ではないからね」
かさねの中に自分を刻みつけたかったと鷹臣は語った。それが一年という限りある時間であったとしても、と。
一年という言葉が、嫌に冷たい感触をかさねの裡に残す。ずっと、それは『胡蝶』に与えられた猶予だと思っていた。
だが今、死神を前にして、その意味ありげに紡いだ言葉を耳にして思い返せば。
思いついた考えに蒼褪めたかさねを見て楽しげに笑いながら、まるで答え合わせでもするかのような声音で斎は続きを口にした。
「仕方ないから、一年の猶予を与えたのだよ……命を終える前の最後のご褒美としてね」
やはり、とかさねは思わず息を飲んだ。
命を握る相手に逆らった代償の大きさに、かさねは思わず震える眼差しで鷹臣を見る。
斎は『胡蝶』に対して与えられた一年の猶予を、鷹臣に対する猶予として与えた。
恐らく斎の力を以てすれば、延命を解かずともかさねを連れていく事は可能だろう。
終わりを告げたのは、きっと鬱屈を抱えた腹いせ。
待ち続けた、待ちわびた存在をお預けされた事で怒りを抱くのは自然かもしれない。けれどあまりにも。
一年の後に延命を解くという逃れようのない死の宣告を、鷹臣はただ受け入れたという。かさねとの日々と引き換える為に……。
「良かったね、鷹臣。……お前は、終わりたかったのだろう? その為にかさねを探し出したのだから」
明るい声音にむしろ腹立たしさを増すばかり。
斎は知っている。鷹臣が意思に反して他者の命を喰らってしまうのに苦悩していた事、それ故に終わりを望んでいた事も。
その上で、良かったねと笑っている。何故か、何処か不思議な棘が感じられる朗らかさで。
「それとも、かさねと過ごして変わった? 人の命を喰らいながらでも、かさねとずっと生きていきたいと?」
言葉だけを受け取れば、それは悪意のある皮肉である。けれど、おっとりとした平素と変わらない口調からは、それが皮肉なのか、それとも本心であるのかは伺えない。
伺えないからこそ、尚更背筋が冷える。これが、人と人ならざる者の違いであるのかと思ってしまう。
人と同じような姿形をして、人と同じ言葉を話していても、明らかに人とは違う存在なのだと思い知る。
「約束を違える心算はない」
「それはいい事だ。安心したよ」
静かな鷹臣の声が、かさねを現に引き戻す。
鷹臣は一年の区切りを守るつもりなのだ。それ以上を望む気はないと、確かな声音で告げる。
かさねも、漸く事態に理解が追いついてきたらしい嘉臣も、その言葉を聞いて悲痛な眼差しを鷹臣に向ける。
「……本来なら、とうの昔に終わっていた命だ。……今更何を惜しいと思う」
「何で……。兄さんは、兄さんはかさねと生きたいんだろ……? 何でそんな……」
「嘉臣」
我慢しきれずに叫んだ嘉臣を、首を緩く左右に振って制する。
鷹臣は微笑っていた。今まで纏っていた怜悧で感情を伺わせない空気はその刹那に消え、どこか消え入りそうな儚い笑み。
充分生きた、と笑いながら彼はいう。
かさねの頬に、一度は止まりかけた涙が再び一筋、二筋と伝う。
あまりにその笑みが悲しくて、切なくて。
そして気付いてしまったのだ、僅かに滲む悔いとも思える苦い心に。先を望む心に……。
かさねの脳裏に、かつての鷹臣の言葉が過る。
『お前を死なせたくない……。お前を、失うなど……』
かさねを抱き締めながら鷹臣が紡いだ、悲痛な願いの言の葉。
あの言葉は、かさねに紫園家の呪いに立ち向かおうとする勇気をくれた。
見えている終わりを受け入れかけていたかさねに、抗う意思を与えてくれた。
鷹臣への想いを此処に至り改めて自覚する。
自分が鷹臣を愛しいと思って居る事、鷹臣に抱く想いこそが愛という想いである事を。
かさねが思う唯一人の人。大切だと思う男性。鷹臣を失いたくない、生きていて欲しいと願ってしまう。
――それが例え、この先触れ合う事叶わなくなったとしても。
「斎……」
「何だい? かさね」
暫しの沈黙の後、かさねは斎を見据えて閉ざしていた口を開いた。
逡巡は一瞬。躊躇いを断ち切るように、かさねはその言葉を口にする。
「……あなたの花嫁になります」
斎は目を見開きかさねを凝視し、鷹臣が息を飲んだ気配を感じる。
気を抜いたならば、そん事は嫌だと泣き叫びそうになる。
鷹臣以外は嫌だと叫びそうになる。この人が私の生涯唯一人の人なのだと泣いて訴えそうになる。
それを押し殺して、かさねは真っ直ぐに斎を見据えて続ける。
「紫園家の最後の一人として、私が呪いを引き受けて、あなたを解放する。だから、旦那様を殺さないで」
「かさね!」
咎めるような焦りも露わな叫びに、肩が跳ねる。
ここで鷹臣の胸に飛び込めたなら、どれ程幸せだろう。離れたくないと訴える事ができたら、どれだけ。
その想いを断ち切るように首を振ると、かさねは更に斎へと言い募る。
「花嫁を迎えるのだから、あなたは紫園家から解放されるのでしょう? ……どうか旦那様に人としての穏やかな日々を」
愛しい人と共に在れぬというのなら、せめて安らかな日々をと願う。
今まで苦悩に焼かれながら生きて来たあの人が、せめて残りの時間を穏やかに生きられるように。
それだけが、かさねが最後に抱ける唯一つの希望であり、願いだった。
かさねが言わんとする事を察して、斎は顔を顰めて見せた。
もう、鷹臣に干渉するなと言われている事を察したようだ。
この先、紫園家に意趣返しをしてくれるなと言わんとするかさねを見て、斎は相当に渋い顔をしている。
流石にそれは大盤振る舞いに過ぎるのでは、とぼやいてはいるけれど、すぐさま拒絶する様子はない。
斎は暫く考えていたものの、やがてそれまでと変わらぬ温和そうな笑みを浮かべ直して呟いた。
「結納代わりと思えばいいか。仕方ない」
受諾の言葉を耳にして、かさねの顔に喜びが滲みかける。
しかし、それは続いた斎の言葉にすぐに怪訝そうなものに変わる。
「それなら、証が欲しいな」
証と言われても、何を差し出せばよいか分からない。
かさねの顔に浮かんだ疑問を見て斎は、それはそれは美しい笑みを浮かべて願いを口にする。ゆるやかな、心から愉しそうな声音で。
「あなたから口付けをおくれ。今、この場でね?」
かさねの表情が凍り付く。斎の言葉を理解したなら、咄嗟に拒絶が口から零れかける。
この場で――鷹臣の前で。自ら斎のものになる証としてかさねから口付けろと。
唯一人と想う人の前で、他の男のものになるという意思を見せろと死神は言うのだ。
残酷な言葉を、死神は無邪気とすら言える笑みを浮かべながら告げると、かさねの応えを待っている。
――かさねの応えは、一つしか存在しない。
さあ、と促すように斎は長身をかがめる。斎の顔に、かさねが届くようになる。
唇を噛みしめたまま、かさねは一歩踏み出そうとした。
けれど。
「やめろ、かさね! お前が……お前が居ないなら、穏やかな日々など……そんなもの……!」
斎へと踏み出しかけた歩みが、止められる。
弾かれたようにかさねの腕を掴んだ鷹臣が、追い詰められたような悲痛な声音で訴える。
腕の力強さに、温かさに、揺らぎかけた心を留めるように唇を噛みしめる。
かさねの内から現れた蝶が鷹臣の視界を遮るように乱れ舞う。
咄嗟に緩んだ手を振り払い、鷹臣が蝶に留められている間にかさねは斎へと歩み寄る。
かさね、と掠れた呻き声をあげながら鷹臣は藻掻き、嘉臣は見ていられないというように顔を背ける。
自らの前に立ったかさねに、斎は蕩けるような笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
「鷹臣に何かと『悪さ』されていたようだけど、大丈夫。私はさほど気にしていないよ」
今なら大目に見られると笑う死神を見るかさねの表情は硬い。
白く長い指先が、かさねの頬を伝うようになぞる。
触れる感触にも身じろぎする事はなく、かさねは瞳の裡に悲痛な決意を秘めたまま斎を見据えている。
「愛して、愛し抜いて。……すぐに私で上書きするのだからね」
絶対にそんな日は来ない、とかさねは心に呟く。
斎はわらう。それは、蠱惑的で人の心を蕩かすような、色気孕んだ笑みだった。
けれども、かさねの心は少しも動かない。凍り付いてしまって、何も感じない。
心にあるものを敢えていうとするならば、哀しみだった。
斎は恐らく、かさねをとても愛してくれるだろう。待ち続けた日々を取り戻すように、愛し慈しみ過ごすのだろう。
でも、例えどれほど愛されようと、この心は唯一人のもの。上書きされる事はない、そんな日はけして来ない。
それを思えば、斎の在り方もまた哀しい。
待ち続けて、待ち続けて、壊れかけてしまった。いや、既に壊れてしまっているかもしれない死神が、ただ哀しい。
誰もが求めても本当に欲しいものを手に入れられないで生きる、これからの日々がただただ哀しい……。
かさねがまた一歩、斎へと踏み出しかけたその時だった。
背筋に強烈な寒気が走り、身体が強張った。
何事かと思い目を見張った先、斎もまた先程までとはうってかわった厳しい表情を浮かべている。
嘉臣の悲鳴があがる。鷹臣が呆然としたまま、ある名前を口にする。
険しい表情の斎の蒼銀が向いた先、少し離れた場所に何かの気配が生じた気がしてそちらに視線を向けたなら。
「……奥様……?」
裸足で濡れた地面を踏みしめて、焦点の定まらぬ瞳を前に向けて。
雨に濡れながら不確かな足取りでこちらに歩み来るのは、間違いなく燁子だった。
気高く隙のない貴婦人は何処にもいない。まるで迷子になった幼子のように危うい。
そもそも、外界から心を閉ざして床についていたはずなのに。
まるで繰られた人形のような様子で、手に不可思議の光を放つ刀を手にした燁子が、一歩、また一歩と彼らの居る場所へと歩みを進めている。
しかし、かさねが顔色失くしたのは燁子に対してではない。
燁子の後ろに、まるで彼女を旗頭とした行進でもしているような、彼女の後に続く数多の青白い女達。
離れにて目にしたかつての『胡蝶』達が蠢きながら、叫びや呻き声を上げていた。
怨霊たちの声が飛び交う中、燁子の眼差しがかさねに据えられる。
探していた何かを漸く見つけたといった風に、かさねを目にした燁子は華の咲くような笑みを浮かべながら、呟いた。
「みつけたわ、かさね」
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