放たれて

 彼女は、ふと顔を上げた。


 身じろぎする事すらままならなかったのに、何故か酷く身体が軽い気すらする。

 何かが耳に届いた。

 最初は気のせいかとも思った。けれど、確かに聞こえる。誰かが呼んでいる。

 音もなく寝台からおりて立ち上がる。そして、衣擦れの音すらさせずに、彼女は歩き出した。

 歩き出してから、遠くに誰かの悲鳴が聞こえたけれど、それはどうでもいい。

 『奥様が居ない』と騒いでいる人達がいるけれど、もう彼女には……燁子には関係ない。


 裸足のまま歩いて、歩いて。

 ただひたすらに足を動かして辿り着いた先、気が付けば燁子は離れに居た。

 離れは施錠されていたが、燁子が触れれば錠前は乾いた音を立てて地に落ちる。

 見知らぬ場所、立ち入った事もない場所を、燁子は澱みのない足取りで進む。


 燁子を呼ぶものは、奥にある。


 茫洋とした面持ちのまま、燁子は静かに歩を進めてそこへ足を踏み入れる。

 そこは、奥座敷だった。

 掛け軸の裏にある木戸が開かれていて、そこには何やら面妖な光を帯びた刀が見える。

 これは何だろうか、と不思議に思う燁子へと、誰かが語り掛ける。

 待っていた、と何かが言う。それはお前がとるべきものだ、と何かが笑う。

 燁子は何を言われているのか理解できないと言った風に、ぼんやりとした眼差しを刀に向ける。


 自分は何故こんな場所に居るのだろう。

 何故このようなところに刀があるのだろう。


 わからない、と呟こうとしたけれどそれは声として結ばれない。

 その時、あの男が憎いか、と何かが問いかける。

 目を僅かに瞬いた燁子は、そうだと応える。


 憎いと思った。

 自分を金で買って貶めておきながら、燁子の愛しいものまで我が物とする夫が。

 自分が唯一大事な存在の心を奪い、辱める男が。


 何かは頷いて、ならばそれを取ればよいという。それとは、刀の事なのが分かる。

 それを手にして、夫も死神も殺してしまうといい、と何かが言う。

 囁く何かは、夫の影には死神というものがおり、それもまた燁子から愛しいものを奪うのだという。


 許せない、憎い、殺してやりたい。


 燁子は、刀を手にすると立ち上がる。

 刀が置かれていた場所から消えると、玻璃が砕けるような甲高い音がした気がした。


 その瞬間、複数の人影が湧き上がり、狂気の笑みを浮かべながら驚喜に湧いた。

 これで出られると燁子の周囲を踊るように宙を駆け巡っている。

 それらが現の身体をもたない事も、どう見てもこの世ならざる存在であることも、燁子にはどうでも良かった。

 夫であった男も、得体のしれない死神とやらも。自分と愛しいあの娘の間を裂く障害でしかない。

 それならば、取り除けばいい。その為の力が今、燁子の手の内にある。


 燁子は静かに歩き出す。手に不可思議の光を放つ蝶の刀を手にしながら。

 肉の器を持たぬ女達が、歪んだ喜びに踊りながらそれに続く。

 さながら百鬼夜行を引き連れながら、燁子はかさねを求めて歩き出す――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る