唯一つのよすが

 素性を隠す為に目立たぬ装いに身を包み、外の人間の訪れに警戒を露わにする人間達の刺さるような眼差しを感じながら、彼は目当ての家を探そうとした。

 しかし、人を捕まえて問おうにも、彼を避けるように人々は立ち去り消えていく。

 どうしたものかと思案していた時、外套の裾を引かれて視線をそちらに向けた。


『おにいさん、どの家に用事?』


 そこには年のころなら八つか九つ頃だろうか。質素な着物を纏ってはいるものの、大層美しい子供が居た。

 少女の顔を見た瞬間、彼女が何者であるのか。そして、かつて何が起きたのかを理解した。

 鷹臣を見上げている少女は、父が『胡蝶』として囲っていた女の面影を宿していた。

 かねてから抱いていた可能性が確信に転じたのは、少女が自らの素性を名乗った時だった。

 少女は、彼が尋ねようとしていた女の子供だと名乗ったのだ。

 自分の家に用と分かった少女は、鷹臣の手を引きながら愛らしい声で歌って歩く。

 顔に浮かんでいるのは、屈託のない笑みである。鷹臣は些か戸惑ったものの拒絶はしなかった。

 明るい笑顔の少女は、聞いていた話であれば忌まれて過ごしている筈だ。

 けれども、それを感じさせぬ無邪気な笑みと稚い歌声は鷹臣の心の消えないか明りとなって灯り続けた。

 彼女は母に慈しまれている事が言葉の端々から知れた。少女の母である女性は、本当に大切に少女を育ててきたのだろう。

 思えば、誰かと手をつなぐなど初めてである気がした。そもそも、人に触れる事自体が随分と久方振りである。

 父はけして彼に触れる事はなく、弟は触れる事を自ら戒めた。

 家人も知己も同輩も彼を恐れ、遠巻きにしていた。幼い頃からそうだった。

 家の名前に付いて回る『曰く』が、彼を人から遠ざけた。

 鷹臣は、一人である事を自らに課した。そして、一人である事に慣れた。

 しかし今、人の手に触れれば温かいのだと言う事を改めて、いや初めて知った気がした。

 一人は寒いのだと言う事を、自分が酷く凍えていたのだと知った気がした。

 少女は鷹臣を恐れなかった。彼を見て温い笑顔を浮かべてすらいる。それは、彼にとっては不思議な感覚を覚えるものだった。

 やがて辿り着いた少女の家、娘を出迎えに出た母親は鷹臣の姿を認めると途端の顔色を失くした。


『紫園のご当主様、お願いでございます』


 名乗りはしたが、母親はその前から彼が何者であるのか気付いていたようだった。

 鷹臣が紫園家の当主である事を察した母親は、娘に用事を言いつけて外に出すと彼の前にひれ伏して願った。


『あの子は、いずれお返ししなければならないと分かっています。でも、せめて、もう少しだけお待ち頂きたいのです』


 姉に頼まれて手元で育てる事になった子供であった。手放す事になった我が子を思わぬ日も無かった。

 しかし、亡き姉に顔向けできるようにと必死に育て続けた日々で、確かにかさねに対する情は育まれていた。

 もう少し、せめてもう少しと涙を流し懇願する母親の言葉を、彼は無碍に出来なかった。

 例え真実ではないとしても母と娘として育ったものを引き離す事が、出来なかった。

 引き離した娘を、自分が楽になる代償として人ならざる者に捧げようとしているのであれば、尚の事。

 しばしの逡巡の後に、気付けば彼は今かさねを育てるに当たって困っている事はないかと問いを口にしていた。

 鷹臣が願いを受け入れてくれた事に気付いた女は感謝に咽び泣きながら、躊躇った後にしてやりたいが出来ずに居る事を告げた。

 学をつけさせてやりたくても、教養を身に付けさせたくても、しがない行商の夫の稼ぎでは難しいのだと。

 あの子は賢いのに、学ぶ事が大好きなのに、自分の元へ連れてきてしまったばっかりに思うようにさせてやれない。

 かさねを姉から引き受けた事に対する唯一の後悔だという。


 ――そして、かれは『よひら様』になった。


 かさねの存在は、彼にとって光だった。

 命を喰らう化物である事に絶望していた自分にさしこんだ、唯一の光であり、世界に生じた温もりだった。

 彼をいずれ解放し得る存在であるだけではない。

 どのような絶望の淵に置かれた時も、あの日幼いかさねが鷹臣に向けた笑顔と、歌と、触れた手のひらの温もりが暗闇を照らす灯火となった。

 彼女からの手紙だけが、彼を正気に留める唯一のよすがだった。

 ある時、かさねが作ったという紫陽花の栞を贈ってくれた。

 どれほど心が揺れていても、その栞を見れば心は平穏を取り戻せた。

 もう終わりにしたいと願っていたというのに、気付けばあと一年、あと一年かさねを見守り続けたいと、迎える日を引き延ばしていた。

 迎え、斎の花嫁としてしまえば、二度と手の届かぬ場所へと行ってしまうからだ。


 引き延ばしたのには、もう一つ理由がある。

 鷹臣は当初、かさねを時期が来たら紫園家の娘として迎える事を考えていた。

 けれども、理由如何によっては嘉臣の出生の秘密も明らかになってしまう。何も知らない、罪もない嘉臣を傷つける事だけは避けたかった。

 面倒なことに先代が妾を一人しか持たなかった事は有名な話だった。

 理由を考えながら、仕方なく迎えた妻に妾を持てと迫られ、渋々探す振りをしていた頃、かさねの養母が亡くなった報せが届いた。

 それと同時に養父がかさねを売ろうとより高値をつける相手を探している事も。

 考えるよりも行動に出ていた。気付いた時には、人を遣って自分がかさねを買うと伝えさせていた。

 高く売れたと身の丈に合わない金を手にして笑う父親の元に置いておきたくなかった。

 売り物とみていたからこそ何もなかったが、良からぬ考えを起こしかねない下衆な男であるらしい。一刻も早く引き離さねばと思ったのだ。

 相応の理由を作れぬまま、結果として真実を伏せたまま。

 正妻の求めに応じて、子を産ませる為の妾として……『胡蝶』として迎える事になってしまった。

 そこでかさねにだけは真実を伝える事も出来たのに、出来なかったのは自分の欲故だったと鷹臣は苦く呟いた。

 かさねを妹として見る事など、接する事など、出来なかった。

 愛しいと思い続けた存在を、求め焦がれる想いを止められなかった。

 いずれ自分が終わるというならば、少しでもかさねの中に自分を刻みつけたい。

 一年の限りある間だけだったとしても、自分のものとして在って欲しいと願ってしまった……。


 何と浅ましく醜いのかと鷹臣は己を嘲笑う。

 かさねの頬が、降りしきる糸雨以外の雫に濡れている。

 母の想い、鷹臣の想い、二つの想いに生かされてきた。

 今、唯一人と思う愛しい人の胸の裡を聞いてしまった。

 彼がどれ程の苦悩の中自分を迎えたのか。何故にあれほど不安を垣間見せ、縋るような様子を見せたのか。

 そして、どれ程自分を想い、求めてくれているのかを知ってしまった。

 苦しいのか、哀しいのか、嬉しいのか。もうそれすら分からない程にかさねの裡は数多の感情が綯交ぜの状態である。

 胸が痛い程に苦しくて、伝えたい言葉があるのにそれすら紡げない。

 涙に濡れたかさねの眼差しを受けながら、鷹臣は嘉臣に……弟として暮らしてきた青年に向き直る。


「紫園家は確かに死神の加護という名の呪いに囚われている。その呪いに苦しむのは私で最後だ。私が全てを引き受けて最後の一人となる」

「そんな……それじゃあ、あまりに兄さんが……」


 嘉臣は躊躇いながらも、鷹臣をやはり『兄さん』と呼ぶ。それ以外に呼び方はある。

 しかし、彼にはそれ以外の呼び方は要らないはずだ。鷹臣はそれを望んでいない。

 鷹臣は、弟を厭わしいから遠ざけていたのではない。

 大切に思うからこそ、紫園家を縛る呪いに関わらせまいとした。

 自分が消えた後にも悲しまずに済むように、愛着持たれぬように敢えて突き放した。鷹臣は、確かに嘉臣を弟として愛していた……。

 何時しか、嘉臣もまた泣いていた。止めようとしても次から次に押さえていた心が溢れ出て止まらない様子である。

 鷹臣はそんな弟を真っ直ぐに見つめながら、深い情の籠った声音で告げた。


「嘉臣、お前は自由に生きろ。お前の望む通りに、幸せに。けしてこの家に……紫園の呪いに煩わされずに……」


 お前は囚われていないのだから、そう鷹臣が口にした瞬間だった。

 その場においては不自然な程に穏やかで、朗らかな男の声が聞こえたのは。


「つくづく不器用な子だね、お前は」

「斎……」


 鷹臣は苦々しい表情を浮かべて、突然現れた蒼銀の死神を見据えた。

 かさねもまた驚愕の眼差しを斎に向ける。

 あの石碑の側から離れなかった斎がどうして此処にという問いをかさねの表情から察したのだろう。

 斎は無邪気なまでに悪意のない笑いを浮かべてのんびりと告げた。


「別に私はあの石碑に縛られているわけではないよ。この屋敷の敷地内で私が行けぬ場所はあの離れだけだから」


 今までは行こうと思わなかっただけだ、と嘯く斎を思わずかさねは睨みつけてしまう。

 斎もまた紫園家の被害者ではあると思っても、鷹臣の心中を思えば以前のように思うところなく対する事も出来ない。

 ふと、嘉臣の方を見れば、彼の視線は確かに斎に向けられている。

 突如現れた、どう見ても人ならざる男に対して警戒の眼差しを向けている。


「せっかくの愁嘆場なのだから、一人だけ蚊帳の外なのは可哀そうだと思ってね」


 つまり、今だけは嘉臣にも斎の姿は見えているらしい。

 今までは出来たのにしなかったし、出来るとも言わなかったのか、と思わず憮然とした面持ちで斎を見るかさね。

 膨れ顔も愛らしい、と愉しそうに言ってのけた死神は、鷹臣へと蒼みを帯びた銀の双眸を向けると微笑った。


「全ては明らかになった。もう待つ必要はないだろう? かさねを貰いにきたよ、鷹臣」


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