繋がれし者の苦しみ

 ぽつり、と雨の雫が頬に触れたかと思えば、瞬く間に糸雨となる。

 見る見るうちにそれは篠つく雨となり、かさねを、嘉臣を、そして鷹臣を濡らしていく。

 肌から熱を奪う冷たい雨に打たれながら、かさねは呆然と立ち尽くしていた。

 鷹臣の言葉を受け止め切れていなかったからだ。

 何か言いたいけれども、口の中が渇いて痛い程。

 一つとして言葉が形として紡がれないでいるうちに、驚愕に震える声で嘉臣が叫ぶのが聞こえた。


「死んでいる……って……。それじゃあ、今ここに居る兄さんは何だよ! 幽霊だとでもいいたいのか⁉」

「似たようなものだな……」


 嘉臣は笑い飛ばそうとでもしたのだろうか。

 けれど、失敗してしまっている。酷く歪な、泣き笑いのような表情になってしまっている。

 鷹臣は嘉臣を沈痛な面持ちで見つめると、重ねて事実を紡いでいく。


「私は池に沈められた時に一度死んだ。それを紫園の呪いの源である死神が気まぐれに引き上げ、命を繋いだ」 


 かさねの脳裏に蒼銀の面影が過る。良い手駒を得たと笑いながら言っていた死神の姿が。

 抱いた疑念が正しかった事を知り、かさねは更に顔色を失くしていく。


「死神なんてそんな……この時代に、そんな迷信を……」


 嘉臣が紡ぐ否定の声はか細い。

 確かに国が開かれ新しき時代を迎えて、人ならざる不思議など迷信と笑われるようになった。

 けれども、かさねは知っている。この紫園の家に縛られた、そして紫園の家を縛る死神が確かに存在する事を。

 嘉臣もまた、迷信と笑っていても表情には無意識であろうが恐れが滲んでいる。

 この家の当主の血筋に纏わる過去を、彼もまた知っているから。

 『胡蝶』の名を持つ女達が命と引き換えて繋いできた歴史は偽りではないと、嘉臣とて分かっているからだ。

 しかし、そこに人ならざる存在が真実絡んでいる事を認めたくない様子である。

 鷹臣は静かに弟を見つめていたが、やがて懐から取り出した短刀を抜き放つ。そして、袖を上げて剥き出しにした自分の腕に当てる。


「兄さん、何を……!」

「近づくな。その距離から見ていろ」


 鷹臣が制止したのと、彼の手にした短刀が腕を切り裂いたのは同時だった。

 かさねと嘉臣が同時に悲鳴をあげる。

 傷は浅いようだけれど、次々に紅が滲んではしたたり落ちていく。

 かさね達が咄嗟に駆け寄りかけたのを、鷹臣は鋭い眼差しで制した。

 たたらを踏んだ二人が息を飲んで向ける眼差しの先で、有り得ざる事象が起きる。

 時が巻き戻るように、傷が見る見る内に癒えていく。

 地に零れた血を雨が洗い流してしまえば、今起きた出来事を示すものは消えてしまった。

 鷹臣の秘める力については知っていたし、実際にもっと深い傷が癒える様も目にした。人間が『喰われて』消える様も。

 それでも改めて目の当たりにしたならば、やはり言葉を失ってしまう。

 知っていたかさねでもそうなのだ。嘉臣に至っては顔色が紙のように白く、目を見開いて凍り付いてしまっている。


「この程度の傷であれば大丈夫だが、ある程度以上の傷を負えば私は傍にいる他者の命を喰らう。……例えどれだけ望まずとも」


 静謐なまでの声音で紡がれる言葉の底に、あまりに深い苦悩と絶望がある。

 鷹臣は語り続けた。

 かつて父である筈の人に命を狙われ続け、その都度命令を受け向かってきた者達が消えて言った事を。

 諦めた彼が死を受け入れ抵抗を止めたとしても、傷を負えば自分の意思とは関係なく相手の命を喰ってしまう。

 自ら命を絶つ事を試みたけれど、それも出来なかった。意識を取り戻せば、決まって死神が無駄な事をと笑っていた。


 長じて、死地を求めて軍人を志した。

 けれども、そこでも死神に与えられた命は彼の願いを叶えてはくれない。

 どれほど危険な戦場に志願したとしても、そこでどれほど追い詰められ死を免れない程の傷を負ったとしても。

 生き延びて欲しいと願っていた者達の、帰りを待つ家族の元に戻してやりたいと願っていた者達の命を喰らって、彼は生き延びた。

 尊敬していた上官を、肩を並べた朋輩を、従ってくれていた部下を犠牲にして、彼は命を繋いできた。

 絶望的な戦況からでも生還する彼は、皮肉な事にそれによって戦功を認められ昇進していく。

 生き延びる度に『死神』という謗りと恐れの眼差しを受けながら。彼は死ぬことを許されず、生き続けた。


「限界だった。もう終わりにしたいと願った。だから死神と紫園の契約を終わらせるために花嫁となり得る者を探した」


 死神は彼に言った。花嫁を得られぬからこそ自身が紫園に捕らわれているのだと。

 彼がある故に呪いは続いているし、手駒を必要としているのだと。

 だから、死神が花嫁となり得る娘を迎えたならば、自分は用済みとして終わる事が出来るのではないかと鷹臣は思った。

 けれども、彼は紫園家の血を引かない。彼の子では条件を満たす事が出来ない。

 それならば嘉臣の子でなければならない。

 弟を巻き込まなければならないのか、と苦悩していた彼に斎は言った『あれは紫園の血を引いていない』と。

 まさか、と愕然とした鷹臣はかつて目にしたある光景を思い出した。

 それはかつて、先代当主が危篤となり、離れでは『胡蝶』が出産の時を迎えた時のこと。

 上を下にと慌ただしい母屋から逃れるように、離れ近くまで歩いてきた少年は見てしまった。離れの方角から人目を忍び隠れるようにして去っていく女の姿を。

 まるで逃げるようにして女児と思しき赤子を抱えて去った女。聞いたところによると『胡蝶』の妹であったらしい。

 父が死の床にあって屋敷全体がざわついていたが、姉を見舞っていた女がそのように姿を消した事を不思議に思っていた。

 思い出したその光景が何故か気になって仕方なかった鷹臣は、手を尽くして調べさせた。

 その結果分かったのは、妹が産んだのは男児だったという事実だった。

 男児を産んだはずの女が抱えていたのは女児であり、その姉が産んだのは男児だった。

 それを知った鷹臣は、ある可能性に至った。


 そして、彼は先の『胡蝶』だった女の妹が住んでいると言う鄙の村を訪れた。

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