正しき紫園の血

「嘉臣様……?」


 何が起きているのか理解出来なかった。

 あまりに有り得ない、違和感だらけの光景が目の前に広がっている。

 温和であると聞いている嘉臣が、穏やかな笑みを浮かべながら自分に銃を向けている。

 伝え聞く人柄には全く以てそぐわないものを手にしながら、嘉臣は微笑みと共に言葉を紡ぎ始める。


「君の父親だっていう男に会ったよ。……僕ととてもよく似ていた男にね」


 父親、と聞いた瞬間かさねの顔色が瞬時に蒼褪める。

 かさねの父親が嘉臣と似ているのは事実であり、真実を知った今ではそれも道理と思うばかり。

 けれど、彼は知らないはずだった。何も知らされずに、この紫園家の息子として輝かしい道を歩いていたのに。


 ああ、と裡に呻く。

 嘉臣は知ってしまったのだ、とかさねは気付いた。

 自分とあの父が親子であると――かさねと嘉臣が入れ替えられていたのだという事を。

 斎の言った事が事実であり、それを何らかの形で知った父により、嘉臣もまた知ってしまったのだ。


 かさねの強張った表情を見て、嘉臣は口元に皮肉な笑みを浮かべた。

 それはとても歪んだ、何処か父を思わせる暗い笑みだった。


「知っていたんだ。自分が紫園家の娘だって」


 かさねは顔色をますます失くして唇を噛みしめる。

 証拠と呼べるものはなかった。あったのは死神の言葉だけ。

 確かめる術はあったけれど、それを躊躇う内に言葉を交わす事すら出来なくなってしまって。

 けれどもかさねの中の何かが、それは確かだと叫び続けいた。日を追うごとに、その疑念は確信へと姿を変えていっていた。


「分かっているのに、知らない顔で兄さんを誑かしていたってわけか」

「それは……!」


 蒼褪めて押し黙るかさねを見ながら、嘉臣が吐き捨てるように言う。

 そう言われても仕方のない状態だ。知ったのは最近であろうとも、それを沈黙し、秘してきたのは紛れもない事実なのだから。

 言葉は形になろうとする端から霧散していき、かさねの口から否定も弁解も紡がれない。


「実の兄だってわかっている相手に妾として可愛がられて。大した悪女だよね、君は! 汚らわしい……!」


 言葉を失ったままのかさねを見た嘉臣は、眦を吊り上げて更にかさねを糾弾する。

 出会った日の穏やかで落ち着いた笑みはもう何処にもない。醜悪なまでに歪んだ形相で彼は只管にかさねを責める。

 嘉臣は鷹臣を尊敬している。その兄を誑かし、道を誤らせたかさねに対して憎悪すら感じる剣幕だ。

 かさねは何も言えない。

 悪意も何もかも、甘んじて受け入れるしかない。それが、かさねの負うべき咎だから。

 銃口が、かさねの胸へ向けて据えられる。


「君は本物だから。本物だから愛されて必要とされて見てもらえる」


 嘉臣の声に宿っていたのは、寂しさ、哀しみ、そして羨望。

 自分が真に紫園家の血を引かない事、それ故に味わった絶望と、かさねを羨ましく恨めしく思う心。

 痛い程に伝わる負の感情に、かさねは思わず息を飲む。

 壊れかけた笑みを浮かべた青年は、凶器を手にしてわらっている。


「……君が居たら、僕は本物になれないんだ。だから、消えて?」


 そんな事はない、と思うけれど喉からは掠れた息が零れるだけ。

 恐らく鷹臣が嘉臣を遠ざけるのは理由がある。嘉臣は疎まれているのではない、むしろ……!

 何故か殊更ゆっくりと、引き金にかかった指に力が籠ったのを感じる事が出来た。

 身を強ばらせたまま、衝撃を覚悟して目を瞑った、その時だった。


「……それ以上は許さん。銃を下せ、嘉臣」

「兄さん……⁉」

「旦那様……!」


 荒い息を整えるようにしながらも弟へと真っ直ぐな眼差し向けながら、そこに立っていたのは鷹臣だった。

 戻る時間はまだ先であるし、今日はもしかしたら戻らないかもしれないという話であったのに。

 かさねは驚きを以て現れた鷹臣を見つめる。

 嘉臣もまた、唐突な兄の出現に震えながら鷹臣を凝視している。

 この状況を糾弾されたなら、彼が知り得た事実を告白しなければならない。自ら、己が血の繋がらない存在であると明かさねばならない。

 何と言葉を紡ぐべきかと蒼褪めていく嘉臣に、鷹臣が向ける視線に宿るのは糾弾の意思ではない。

 あったのは、相手慮る深い情だった。


「ここ数日、大学にも行かず家に戻らずに居たらしいな。お前につけた使用人が蒼い顔で報告してきた」


 嘉臣は黙して鷹臣を見つめている。そんな嘉臣から視線を外す事なく、鷹臣は続けた。


「お前が理由なくそんな行動に出る筈がない。その矢先に、かさねの父が射殺された状態で見つかった」


 かさねは小さく息を飲んだ。

 田舎の家で酔いつぶれて寝ている背中を見たのが最後だった父が、死んだという。

 不思議な事に哀しみは少しも湧いてこない。

 これは血がつながらない存在であったからなのか、元より通う情がなかったからなのか。

 射殺という言葉に、かさねは嘉臣の手にある銃を見てしまう。


「かさねの母の墓を管理させて居た人間が、父親が金蔓を見つけたと吹聴していたと報告してきたので警戒はしていたが……」


 鷹臣は最初の約束通り、かさねの母の守りを人に任せてくれていたらしい。

 父がどのような形で真実を知り得たのかは分からないが、彼が言った金蔓とは恐らく嘉臣の事だろう。

 実の子である嘉臣から強請る為に、あの男は帝都にやってきた。そして、嘉臣の手によって殺された……。


「……まさか、と思った。悪い想像が当たっていなければいいと思ってきたが……」


 蒼褪め唇を震わせる嘉臣を悲痛な眼差しで見つめながら、鷹臣は悔いも露わに呻くような呟きを零す。


「責めを負うのはかさねではない。知っていた事が咎であるなら、責めを負うのは私だ」

「なんで、承知の上で……。兄妹だと知っていて……!」


 その言葉から、鷹臣もまた知っていたのだと知る。

 かさねが紫園家先代当主の娘であり、自分と血のつながった存在である事を。

 やはり、という思いと、それならば何故という思いがかさねの裡を支配する。

 震える声でいう嘉臣と同じ言葉を、かさねも問いたかった。

 鷹臣は、一度かさねを見て、そして再び嘉臣へと視線を戻す。そして、暫しの逡巡の後に静かに口を開いた。


「私とかさねは兄妹ではない」

「何でだよ! かさねは紫園家の娘だ、それなら兄さんとは……」


 鷹臣が口にした否定の言の葉に、かさねは思わず目を見開き、嘉臣は愕然とした面持ちで疑念を口にした。

 その否定は成り立たない。

 鷹臣が紫園家先代当主の正妻腹の長男である限り、そしてかさねが先代当主の『胡蝶』腹の娘である限り。

 母は違えども二人は兄妹だ。

 問いの眼差しを受けて、鷹臣はひとつ深く息を吐く。

 二つの眼差しを受けながら黙していた鷹臣は、やがて決定的なその『真実』を口にする。


「……私が、紫園家の血を引いていないからだ」


 場が凍り付いたように、かさねは感じた。

 鷹臣は、今何と言ったのだろう? 彼の言った言葉が意味を成して裡に入ってこない。

 理解できずに呆然と鷹臣を見つめてしまうかさね。

 それは嘉臣も同じだった。唇を震わせ、何か言いたげであっても言葉を紡ぐ事ができないまま、愕然とした様子で兄を凝視している。

 物言いたげな空気を感じ取ったらしい鷹臣は、口元に僅かに苦い笑みを浮かべると更なる真実を口にする。


「私は、母が……先代の妻が間男との間に作った子だ。だから紫園の血を引かないし、かさねとも、お前とも血は繋がっていない」


 先代の妻は、庭師をしていた男と何時の間にか只ならぬ仲となっていたらしい。

 庭師、と聞いて何かを思い出しかけるけれど今はそれに辿り着けない。

 明かされた過去があまりに衝撃すぎて、事実があまりに信じられなくて。

 紫園家の為の為に生きてきた筈の鷹臣が、紫園家の血を引かない。

 そんな筈がない、と言いたいけれど言えない。鷹臣の表情に欠片の偽りもない。ただ悲痛なまでに真摯な色があるばかり。

 その時、かさねの脳裏に宙を裂く雷のように過ったのは、離れで見た一冊の帳面。

 誰のものかわからなかったあの日記帳に記された『妻は死ななかった』という一文。

 あれは、本当に先代当主のものだったのだ。

 先代は妻を愛していた。だからこそ妻が子を身籠らないように配慮していたのに、身籠った妻。

 紫園家の当主の子を産んだ女は命と引き換える。けれども先の当主の妻は子を産んでも生きていた。

 それはつまり、妻が産んだ子は当主の子ではなかったという事を示している。

 夫は赤子の誕生を以て妻の裏切りを知ってしまったのだ。

 かさねは目を見開いた。更に思い出した内容が頭を過ったからだ。

 先代は生まれた子供をどうした? 我が子ではないと知った相手……妻を寝取った憎い相手の子供を、どうしようと? 

 その答えは日記の続きに記されていた。先代は恐らく、生まれた子供を。


「先代は妻が不義を働いたことに気づいて、出産直後の妻を手にかけた。そして、私を池に沈めた」


 そう、先代は記していたでは無いか。


『池に沈めた時に死んでいてくれれば良かった。何を試みても、あれは死なない。あれの代わりに他が死ぬ』


 鷹臣は傷を負えば周囲にある人間の命を喰らう。

 恐らく、何度も先代は鷹臣を殺そうとしたのだろう。けれども、どれ程窮地に陥っても鷹臣は他者の命を代償に生き延びた。

 殺そうとしても死なない鷹臣に先代は恐怖し、心を病んでいった。表向きは息子として遇していた相手を恐れながら、逝った。

 嘉臣は完全に顔色を失ってしまっている。銃を握る腕からは既に力が失せている。

 掠れた呻き声が、うそだ、と繰り返しているのが聞こえる気がする。

 生まれたばかりの赤ん坊が池に沈められた助かる訳がない、と嘉臣が呟いた時、かさねの耳にふわりと愉しそうな声が過る。


『だから、手駒を手に入れた。調度良く池に沈んだものが死んでいたから、拾って繋いだんだ』


 愉しそうに呟かれた蒼銀の死神の言葉。

 紫園家に報復する為の手段を探していた斎。

 彼の前に現れた、沈んでいたもの。既に死神の領分に迎えられていた、紫園の血を引かない存在。

 それは、死神の手駒とされる為に命を与えられた。とても複雑に歪んだ、他者の命を喰らう『死神』としての命を。

 まさか、と乾いた声で呟いたかさねの言葉に応えるように、鷹臣はあまりに静かな眼差しを二人に向けて言った。


「私は、池に沈められて命を失った。……私は、もう死んでいるのだ」

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