帝都の、ある場所にて

 それは嘉臣とかさねの邂逅から、少し遡る。


 三宅坂の陸軍参謀本部にて。書類仕事を片づける鷹臣は、周囲が怯える程の渋面だった。

 ただでさえ纏う雰囲気は冷淡であり威圧感を与える存在が、顰め面で無言を貫いていれば、近づく事すら忌避されるだろう。

 普段であれば多少そのあたりを気にして振舞いを律するが、今の鷹臣にそこまでの余裕はない。

 気を抜けば、只管に溜息が出そうになってしまう。

 目の前の書面に集中せねばと思っても、気が散る自身に対して苛立ってしまう。


 身に纏う全てが、何もかも酷く重い。

 金の飾緒も、銀の徽章も、他者にとっては羨望の的だろうと鷹臣にとっては唯煩わしい。

 彼はもとより出世を考えて軍人を志したわけではない。願った事は、ただ一つだ。


 前線にあり続けたかったというのに、他者の命と畏怖と引き換えた『功績』がそれを許してくれなかった。

 断り切れない思惑から、本意ではない地位に至ってしまった。

 裏に恐れを隠しながら、誰もが羨ましいと褒め称える。

 地位も家柄も、そして妻も、何もかもが素晴らしい、恵まれていると。

 鷹臣は、自室にて硝子玉のような眼差しを宙空に向けていた燁子の姿を思い出す。

 妻を何時までたっても迎えようとしない鷹臣に、家督を継いだ頃からの後見人であった存在が結婚話を持ってきた。

 相手は本来であれば皇族とも縁組できるような格上の家門。

 何故にと思って聞いてみれば令嬢に瑕疵があるという。それ故に縁組が定まらぬまま嫁き遅れてしまったらしい。

 断る事も考えたが、事情を聞けばそれも出来ず。元より幼少から頭の上がらない相手が有無を言わせぬ圧力をかけている。

 鷹臣は、仕方なくその話を受けた。

 せめてもの罪滅ぼしに、と密かに困窮していた家を救うために行った資金援助は、後の大きな禍根となってしまう。

 自分を買った、と初夜にて燁子は鷹臣を殺しかねない程の勢いで睨みつけ、拒絶した。

 その時、彼は自分が打つ手を誤った事を知ったが、それで良いとしてしまった。

 元より情が通わずとも良いと思っていた。むしろ、いずれ来る日を思えば、却って良かったと。

 自分を憎むならば、それでいい。そう思い今日まで来た事が、心の裡を明かす事なくかさねを迎えた事が、あの事態を引き起こしてしまった。

 今更悔いても仕方ないとは思えども、心の裡はただただ苦い。それが、かさねのあの悲しげな顔に繋がってしまったと思えば尚の事。


 鷹臣の顔を渋くさせる要因は、もう一つあった。弟の嘉臣に関してだ。

 別邸にて嘉臣に仕えさせていた男が、昨日蒼褪めて報告してきたのだ。

 嘉臣がこのところ帰宅していないと。何の報せもなく家を空け、更には大学をも休んでいるらしい。

 級友たちも教師も、誰も嘉臣を見かけていないという。

 姿を消す前に、嘉臣がまとまった額を引き出した事だけは分かっているが、その後の動向が全くわからないのだと……。

 使用人は、悪い遊びを覚えたのではないか、悪い女に引っかかりでもしたのではないかと震えていた。

 何か悪い遊びを覚えた、というならまだ許容できる。今までが真面目過ぎたぐらいだ。女だとしても、何とでも出来る。

 しかし、何か悪い事が嘉臣に起きている気がして胸が騒めく。弟が今とてつもなく不安定である気がしてならない。

 嘉臣は幸せにならねばならない。何にも気兼ねすることなく、何に恥じる事もなく、明るい道を行き、自由に。

 それに生じる翳りは、出来る限り取り除いてやりたい。

 人をやって探させてはいるけれど、何故か足取りが掴めず鷹臣の苛立ちは更に増すばかりだった。

 気難しい顔で知らずの内に深く嘆息する鷹臣に、周囲が蒼褪めて震えて居る事に彼は気付かない。

 脳裏に、燁子を、鷹臣を、そしてかさねを思い浮かべ再び溜息を吐き出しかけた時だった。

 鷹臣の耳に、能天気なまでな男の声が聞こえた。


「どうも、こんにちは!」

「……何の用だ」


 何時の間にか、机の前には一人の男が立っているではないか。

 軍人にあるまじき長髪を無造作に後ろで束ねた、軽薄そうな雰囲気の糸目の男である。

 カーキ色の軍服は同じ陸軍の所属である事を示しているが、男は参謀本部付ではない。

 何かと出入りはしてくるが、その場合大概禄でもない用事である事が多い特異な部署に所属する男だった。

 恐れる事もなく今の鷹臣に話しかけた事に驚愕して言葉を失っている周囲を他所に、年齢不詳な男は全く恐れもせずに言った。


「ご機嫌伺いと、あとはまあお知らせがありまして」

「……悪いが出直してくれ」


 まともに相手をするのも厭わしいという様子を隠しもせず、言って鷹臣は書面に目を戻す。

 しかし、相手がこれ見よがしに肩を竦めて言った言葉に僅かに動きを止めた。


「多分、今の少佐が知りたい情報だと思うんですがねえ」


 男は特異な部署の所属であり、特異な存在である。

 そんな男に意味ありげに言われた言葉に、鷹臣の表情に怪訝な色が浮かぶ。

 興味を示してくれたと判断したのか、男は楽しそうな笑みを浮かべた侭続ける。


「少し前、男が一人脳天を撃ち抜かれて死んでいるのが見つかりまして」


 知りたい情報と言われて告げられた言葉に、まさか、と思いもしたが、続いた男の風体からして直ぐに違うと知れた。

 何を言いたいのかと若干苛立ちながらも、鷹臣は話の続きを待つ。


「まあ、普通に人間同士の諍いでしょうね」

「……それなら貴殿は関係ないのでは?」


 男がそう言うということは、明確に人が人を害したというだけ、という事だ。

 そこに何の不思議も不審も存在しない。それならば、男がその事件に関与する理由がない。

 鷹臣の裡の疑問に気付いているのかいないのか、男は唐突にある山間の村の名をあげた。

 知っているかと問われた村の名前に、鷹臣は覚えがあった。

 何故なら。


「少佐のお妾が、そこの出身でしたよね?」


 鷹臣はあからさまに顔を顰めて見せた。

 だからこの男は苦手なのだ、と鷹臣は思った。事情通な男は、何故その様な事までという事情まで把握しているからだ。


「有名ですからね。紫園少佐が偉く別嬪なお妾を囲っているのは。着飾らせては観劇やらに連れ出して大層可愛がっておられるという話じゃないですか」


 朗らかに言う男に、その通りなので何も言い返せない。

 鄙の寒村で育ったかさねは、隠そうとはしていても沢山の物に興味を抱いている様子だった。

 出来る限り多くのものを見せてやりたいし、経験させてやりたかった。

 正妻ではなく妾を人前に連れ歩く事で自身が謗りを受けようと、好奇の目で見られようと。

 嘆息しながら、鷹臣は男を見据えて低く問う。


「……それと、その事件とやらに何の関係が」

「撃たれて死んでいた男は、どうやらその村から来たらしいと分かったので」


 宿に残された荷物に加えて、男は実に景気よく飲み屋で散財していたようだ。

 酒が回って口が軽くなった男は、自分の住んでいる村についても語っていたらしい。

 死体が発見されてから随分と速やかに調べが進んだものだ、と鷹臣は裡にて溜息をつく。

 確かに、目の前の相手とその所属部署を思えば不思議ではないのだが。

 人間同士の事件であるというならば、男が所属する部署の管轄ではない。恐らくこの男が勝手に首を突っ込んだのだろう。

 呆れながらいたところに、男が被害者となった者の名を告げる。

 その瞬間、鷹臣が目を見張る。それが聞き覚えのある……かさねの、父親の名だったからだ。

 そういえば、と鷹臣は思い出す。

 かさねの母の墓を管理する為にやっていた人間が、気になる事を報せてきていた。

 かさねの父親が『良い金蔓を見つけた』と大層上機嫌であったと。

 どうやらかさねの父は娘を売った代金を酒と博打で浪費した挙句に、入れ込んだ女に持ち逃げされたらしい。

 その後、何やら家探ししている様子だったと思えば、突然目を爛々とさせて何処かへ消えたとの事だった。

 まさか帝都に来ていたとは、と鷹臣は苦い思いを噛みしめていた。

 だが、明らかに殺されたと分かる状態で見つかった事に疑問を抱いていると、男が更に口を開いた。


「周囲には大量の紙幣が散らばっていたそうです。恐らく金を受け取って勘定をして……振りむいたところを、やられたのでしょう」


 こわいこわい、とわざとらしく肩を竦める男を前に鷹臣は表情を強ばらせていた。

 鷹臣の中で、繋がっては欲しくない糸が繋がっていく。

 金と共に死んでいたのが発見されたかさねの父。金を手に姿を消した嘉臣。

 嘉臣と、かさねの父親――そこには、人知れぬ繋がりがある。

 事実を知る人間は今では鷹臣だけの筈。知り得た二人は既に鬼籍に入っている。

 けれど、もし真実に繋がる何かが残されていたとしたら? それをかさねの父親が見つけてしまったとしたら?

 下衆な男がどのような行動に出るかは、あまりに明白だ。かさねの父は言っていたというではないか『金蔓を見つけた』のだと……。

 もし、嘉臣が『知ってしまった』のだとしたら。次に嘉臣が向かう先は。


 鷹臣は荒々しい音を立てて立ち上がり、半ば駆ける勢いで男の横を過って歩き出す。

 一瞬きょとんとした表情を見せた男は、すぐに気を取り直した風に鷹臣の背に向かって声をかけてくる。


「うちの隊長も俺も、少佐が『うち』に来て下さるのを待っているんですよ? 色々と融通も利きますし、気が向いたら何時でもお声がけを」


 その言葉に思うところはある。だが、今はそれどころではない。

 背に男の意味ありげな眼差しと、部下達の唖然とした眼差しを感じながら。

 鷹臣は、ひたすらに悪い予感が当たらないでくれと願いながら、勤めの場を後にした。

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