ただ苦しく、切なくて


 かさねと鷹臣の間は微妙な空気が漂うままだった。

 鷹臣は自分を追い詰めるように職務に打ち込み、屋敷を空ける事も増えた。

 朝、鷹臣が勤めに向かうのを以前はかさねが見送っていた。

 けれど今は、かさねは遠くから見つめるばかりで送り出す言葉をかけることもない。鷹臣がかさねに言ってくると微笑む事もない。

 今日も遠くから哀しげな眼差しを向けるかさねの姿を目にして、出立の支度を手伝っていたタキが思わず涙ぐんだ。


「この頃のお二人はあまりに辛すぎます……!」


 タキが零した悲痛な言葉に、鷹臣の表情が曇る。

 これが他の人間からの言葉であれば、出すぎた事を咎めもするだろう。

 しかし、鷹臣はタキには頭が上がらない。古株ということもあるが、もう一つ事情がある……。

 言葉に詰まっている様子の鷹臣見つめ、タキは涙声で言い募る。


「この家が枷となるのであれば、いっそ……!」

「タキ……」


 鷹臣は静かに首を左右に振り、それ以上のタキの言葉を止める。

 それだけは言ってはならないと、穏やかではあるが絶対の圧を以て。

 眼差しに宿る意思を感じ取って、タキはとうとう涙を一つ零す。

 そして、口元に手をやり嗚咽を抑えるようにしながら、必死に心にある唯一つの願いを紡いだ。


「タキは、鷹臣様に幸せになって頂きたいのです……!」


 鷹臣は沈黙したまま、落涙する老女を見遣る。

 そこには、身内を見るような温かな情が微かに滲んでいた。

 それ以上は何も言わず、何も言わせず、鷹臣は歩き出す。


「行ってくる。……かさねを頼む」

「行ってらっしゃいませ、鷹臣様……」


 遠くから哀しげな愛しい眼差しを感じる。

 鷹臣は胸に湧き上がる心を押さえつけながら、頭を下げ見送る老女に一言残して、静かに出立した。




 かさねは去り行く鷹臣の背を見送った後、庭に出た。

 池の石碑の元にはいかない。むしろそこを避けるように大きく遠回りして歩く。

 視線の先にはかつて斎が結界だと称していた紫陽花が咲き誇っている。

 かさねは一つ一つの色合いを確かめながら歩いていく。

 栞を作ろうと思ったのだ。紫陽花を押し花にして、新しい栞を。

 今のかさねの想いをこめて、あの人に。かつて『よひら様』にお贈りしたように。

 あの栞が書斎にあった事と、かさねの本当の生まれ。二つを結び合わせて考えたなら、かさねを助けてくれていた『よひら様』については自ずと知れてくる。

 かさねが田舎であろうと不自由なく学びを得られるように、したいと願う事が出来るように。

 『よひら様』は……鷹臣はかさねを、ずっと見守ってくれていたのだ。

 あの人は、子供が拙い手で作った栞を今も取っていてくれた。

 何故かさねを買ったのかは分からない。何を思って、妹であるかさねを妾としたのかも。

 問いは消えない。けれど、どれほど揺れても、かさねの胸に灯った明りのような想いもまた消えない。

 この想いと共に在りたいと思う。

 例えこの先、本当の意味で触れあう事が叶わなくても。終わりを迎えるその日まで。


 物思いに沈みながら歩みを進めていたかさねは、ふと足を止める。

 美しい色合いの花弁を探して歩いて、気付けば庭園の端まで来てしまっていた。

 気付けば空模様もあまり良くないし、あまり姿が見えないままが続けばタキや女中達が心配するかもしれない。

 そう思い身を翻しかけた時、不意に男性の声が耳に届いた。


「久しぶりだね」

「嘉臣様!」


 何時の間にそこにいたやら、笑みを浮かべながらかさねに声をかけたのは嘉臣だった。

 直接こうして顏を合わせるのは、それこそあの日の東屋での最初の邂逅が最後。

 どうして居るだろうかと心配してはいたが、タキたちから伝え聞くのが精一杯だった。

 今日はどのような用向きだろうか。

 鷹臣に会いに来たというならば、鷹臣は務めに向かってしまった後だ。

 それについては嘉臣も承知のはずだ。だから以前は鷹臣が早く帰宅する日に合わせてやってきていた。

 不思議に思うかさねに対して、口元に笑みを浮かべたまま嘉臣はいう。


「女中に聞いたら庭だって聞いたから」


 その言葉からすると、嘉臣の今回の来訪の目当てはかさねであったという事だろうか。

 自分にどのような用向きだろうと思っていた時、かさねの脳裏に鷹臣に引かれた腕の感触が過る。

 あの日、偶然顏を合わせた嘉臣と話をしていたところを鷹臣に咎められ、そのまま部屋に閉じ込められた。

 嘉臣と二人で居ると、どうしてもあの日を思い出す。

 用事があるというのなら、せめてタキや女中の目がある場所でなければ。

 鷹臣の怒りの眼差しを思い出したかさねが嘉臣を促して屋敷へ戻ろうとした時、声をかけながら振りむいたかさねの眼差しの先で。


 ――鈍い光を放つ銃口が、彼女へと向けられていた。



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