死の口付け
「わたくしもお前と似たようなものよ。……わたくしも、あの男に買われたの」
元々暴君だった父の影響で、男性というものに対する嫌悪感が強かった。
そこに金で自分を買ったという事実が相まって、鷹臣への嫌悪は憎悪の域となる。
燁子は初夜の床で鷹臣を拒絶し、その場で宣告したのだ。
自分に指一本触れるな。すぐに美しい女を探し、妾を持てと……。
鷹臣は何も言わずそれを受け入れ、二人の間には今に至るまで何もない。
鷹臣は、燁子には好きなようにさせるだけでほぼ不干渉を貫いていた。
会話らしきものはなく、あっても冷ややかな必要最低限のものだった。
燁子は古今東西の美しいものを集めるようになった。
せめて美しいものに囲まれていれば、現の醜さを忘れる事ができるような気がして。
そうして暮らしていた日々に、彼女が最も美しいと思うもの――かさねがやってきた。
「お前はうつくしい。姿かたちも、心根も。美しくて、愛しい」
ふわりと空気が動いたかと思えば、気が付いた時には燁子は立ち上がりかさねの傍に佇んでいた。
そのまま、ゆるりとした動きでかさねを抱き締める。
戸惑うかさねの抵抗を封じ込めるようを抱く腕に力を籠めると、燁子は続ける。
「始めは、気紛れのようなものだったわ。退屈だから、賢婦人を気取ってみようと」
最初は妾に対しても優しく接する、慈悲深い自分を演じる事で無聊を慰めようと思っただけだった。
厄を引き受ける形代となる存在に、少しでも情けを与えてやろうと。
けれど、現れたかさねは置かれた状況に戸惑いながらも前を向いてひたむきで。
残りの時間が限られていると知っていても捨て鉢になる事もない。
かさねは、自分を慕ってくれた。それが嬉しかった、と燁子は噛みしめるように呟く。
そして……。
「お前はわたくしを信じてくれた」
父はどれだけ必死に訴えても、火事の原因が弟であると信じてくれなかった。
いや、もしかしたら知っていたかもしれない。
しかし、跡継ぎである弟の不名誉とするよりは、美しさを失い利用価値を失くした娘の不祥事としてしまう方が都合が良い。
母も、使用人達も。友と思っていた人々や崇拝者たちも一斉に手のひらを返して燁子を責めた。
多数の悪意に立ち向かってまで燁子を信じようとしてくれる人間は、一人も居なかった。
それなのに、あの時かさねは鷹臣に逆らってまで自分を信じ、味方してくれた。
あの日から、燁子にとってのかさねは意味を変えた。
退屈を慰める一時の玩具でもなく、ただの厄を引き受ける形代ではなく、心に灯る明りとなった。
燁子はかさねを抱き締めながら、悲痛な叫び声をあげた。
「お前を死なせたくないの。お前を、あの男のものにしたくないの……!」
鷹臣の子を産めばかさねは死んでしまう。だからこそ、他の女を妾にするように鷹臣に言った。
かさねを死なせないために。そして、かさねをもう鷹臣のものとしない為に。
燁子はかさねを大事に思ってくれている。かさねが燁子に向けるものとは違う、激しい形で。
燃える焔の片鱗を感じたかさねは、思わず息を飲む。
しかし、暫くの沈黙ののちに静かに己の心を紡ぎ始める。
「私は、もう旦那様のものです。このお屋敷に来た時から、それは変わりません」
抱き締める燁子の腕が僅かに震えた。
凍り付いたような気配を感じながらも、かさねは静かに続きを紡ぐ。
「私は、旦那様のものでありたいと思うのです……。終わりが見えていたとしても、それでも、その時まで」
捨て鉢にならなかったわけではない。怖いと思いもした、侭ならぬ事を恨めしくも思いもした。
自分はけして燁子が言ってくれるような明るい存在ではない。
けれども、ここに来てあの男性と出会った。
かさねの絶対的な主でありながら、深い苦悩を抱え、かさねを求め、縋る鷹臣。
どこか孤独を背負うあの人に寄り添いたいと願ってしまった。あの人に囚われていたいとすら思ってしまった。
子を産めば死ぬとわかっていても、先はもう限られているとしても、あの人と共に在りたい。
それが、例え血の繋がりがあるかもしれぬと知った今でも、かさねの唯一つの願いだった。
燁子の腕から力が抜けて、かさねは拘束から逃れる。
分かってくれたのかと見上げた先、かさねは再び凍り付く事になる。
「お前は、わたくしのもの。大事な、大事な、わたくしのかさね。……あの男にも、誰にも、渡さない……!」
「奥様……」
そこにあったのは、暗い焔のような激情だった。
燁子を焼く焔は、あまりに歪で哀しい独占欲。
渡さない、と取り憑かれたように燁子は繰り返す。
自分以外のものであってほしくない、ある事は認めないと譫言のように呟き続ける。
激しさに息を飲み、身動きすらとれないでいるかさねを見て、一瞬燁子の顏に笑みが戻る。
それは不自然な程に優しく静かなものだった。
「そうね。お前はわたくしと同じ。この屋敷から逃げられない、何処にも行けないのだったわ」
言葉をかけたくとも舌が石にでもなってしまったかのように言葉を発せないかさねの見つめる先。
燁子は指輪をはめた指を茶に翳したかと思えば、石の部分が蓋のように開いた。
そこから白い何かが茶へと落ちていくのを、かさねは凍り付いたまま凝視してしまう。
くるくると匙にて茶を交ぜる仕草はいつもと変わらぬ、優雅なものだった。
そして、燁子は花が綻ぶような笑みを浮かべて告げた。
「だから、わたくしと一緒に、いきましょう……?」
言って、次の瞬間『何か』を入れた茶を、燁子は口に含んだ。
そして、身動き取れず反応が遅れた静かにかさねに口付ける。
目を見開いたかさねの口の中に、何か不思議な味のする茶を流し込んだ。
喉が鳴る音がやけに大きく響いたが、次の瞬間渾身の力をこめてかさねは燁子から逃れていた。
そして、倒れ込みながら激しく咽込む。
背筋が凍る程の恐怖を感じて咄嗟に吐き出したものの、一部は飲み込んでしまった。
何だったのかと問いかけようとした瞬間、胸が大きく跳ねた。
息が出来ない、苦しい。
胸の奥から何かがせり上がってくるような感覚が湧き上がり、耐えきれなくなってくる。呼吸が徐々に困難になりつつある。
まさか、と思いながら見上げた先で燁子は口の端から一筋の紅を引きながら凄絶な笑みを浮かべていた。
燁子の唇が何かを告げるように動いた気がした。
それに何かを返しかけた時、誰かの甲高い悲鳴が聞こえ、倒れゆく燁子の姿を目に捉えながら。
かさねの意識は、そこで途絶えた――。
次にかさねが目覚めたのは、自分に与えられた寝室の、寝台の上だった。
硝子窓には緞帳が引かれ、明りが灯っているところを見ると今は夜であるらしい。
身体が酷く重い気がして、何とか辛うじて動かせたのは瞳だけ。
何とか頑張って眼差しをゆるりと向けると、そこには鷹臣の姿があった。
「かさね……!」
「旦那様……?」
瞼を開いて居る事すら辛いけれど、視線があった鷹臣は一瞬泣き出しそうに見えた。
安堵したように息を一つつくと、鷹臣はかさねの手を取り、押し頂くようにして触れる。
何が起きたのか、何が起こっているのか。自分は今何故ここに居るのか。
夢でも見ていたのかと思うけれど、それなら何故こんなに身体が重いのだろう。
その瞬間、脳裏に蘇るのは紅に彩られた燁子の姿。
ぼんやりとしていた表情が強張ったのを見て、鷹臣は重い口調で告げる。
「お前は、燁子に毒を飲まされた。……あんなものを所持して居た事に気付かなかった、私の落ち度だ」
鷹臣が言うには、緊急ということで屋敷から知らせが来たらしい。
何事かと戻ってみれば、タキが慌てふためきながら燁子がかさねに毒を飲ませて自分も服毒したようだと泣きついた。
女中が茶のお代わりを伺いにいったところ、血を吐いて倒れる燁子と意識を失っているかさねを見つけたらしい。
ただちに医者を呼ぶと同時に、鷹臣に使いをやったと涙ながらに女中頭は語ったという。
医者の手当を受け、今は何と一日たった後の夜であるという。
「お前は咄嗟に吐き出したから、そう大事には至らなかったらしい」
飲み込んだのが僅かだったからこそ、暫く床についていれば大丈夫だろうと医者は言っていたらしい。
しかし、かさねは自分の命があることに対する安堵よりも気になる事がある。
「おくさまは……?」
弱弱しい声音の問いかけを耳にした瞬間、鷹臣の表情が強張った。
躊躇っている様子に不安を覚え、縋るように見つめるかさねに、大きく嘆息する鷹臣。
最悪の予想に震えかけたかさねを落ち着けるようにしながら、鷹臣は短く告げた。
「……命は取り留めた」
燁子が死ななかった事に対して、かさねはその時は安堵した。
けれど、その短い言葉の意味を知る事になったのは床から起きだせるようになってからだった。
燁子はその日から床にて過ごす事となってしまった。
外界からの呼びかけには一切反応を示さず、何もかもされるがままを受け入れるだけ。
心が何処かに消えてしまった人形のように、ただただ瞳を宙に向けている。
そこに宿る感情は何も無い。激しい心に焼き尽くされてしまったかのように、今の燁子には何も無かった。
かさねは、燁子の手に縋って静かに涙を流した……。
かさねは、その日から鷹臣と別に休むのを希望した。
燁子の事を思えば、その腕に抱かれる事があまりに苦くて辛い。
鷹臣は何か言いたげであったが、結局はかさねの願いを尊重してくれた。
その日以来、二人は別に休むようになり、別に過ごす事が増えるようになる。
奇しくも、燁子は自分の存在を以てかさねと鷹臣の間に楔を打ち込む事に成功したと言える。
渡さないと叫んだ言葉は、現実のものとなった。
かさねの心の中から、唇から紅を流してわらう燁子の姿が消える事はなかった――。
◇◇◇
雲が月に隠れ、深い夜闇のもと。とある川沿いの道に二つの人影があった。
「金は用意できたか?」
片方が――かさねの父であった男が笑いながら低く問いかける。
そしてもう片方――嘉臣が、無言のままに厚みのある封筒を手渡す。
男はにやりと笑ってそれを受け取ると、背を向けて数え始めた。
そして、下卑た笑みを交えながら数え終えると、大仰に肩を竦めながら振り返る。
「俺だって血の繋がった息子が不幸になるのは見たくないが、もう少し弾んでもらえないとなあ」
足りないと言いたいのだろう。今回はこれで、と言いかけたところを見ると、この先も強請る気でいるようだ。
しかし、男はその言葉の続きを口にする事は出来なかった。
振りむいた先にあったものに、驚愕に目を見開き、完全に言葉を失ってしまっていた。
何が、どうして、と言いたげな表情を見つめるのは、感情の色のない眼差し。
男が自分の額に冷たい銃口が突きつけられている事を認識できたのは、引き金が引かれたのとほぼ同じだった。
血の筋を引きながら倒れる男を、嘉臣はただ無言で見下ろしている。
紙幣が散らばる中、暫く痙攣していたが、やがて驚愕の表情のままかさねの……嘉臣の父である男は事切れた。
金蔓を見つけた筈の男が金を手に出来たのは、それが最後となった。
頬に跳ねた血を無造作に拭いながら、抑揚のない声で嘉臣は呟く。
「……かさねに、会いにいかなくちゃ」
会わなければ、本物の彼女に。本当の紫園の娘であり、兄が愛を向ける唯一人の存在に。
彼女にあって、そして――。
小さな呟きだけ残して、嘉臣は踵を返して歩き始める。
やがて雲の隙間から零れた月の光が冷たく照らしたのは、置き去りにされた無惨な『父』の姿だった……。
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