青年は真実を

 紫園嘉臣という青年は、帝大において常に首席であり続けるというだけではなく、非常に真面目な好青年との評判だった。

 週末がきて学友たちが悪所へ繰り出そうと誘ってもけして応えず、空いた時間は読書や研究に費やし、時には孤児院の子供達に勉強を教えに行く。

 絵に描いたような模範的な秀才であると、たまにやっかみも入るけれど、同輩たちは彼を讃える。

 兄が軍人の道を選んだのなら、彼は政治家でも目指すのだろうか、それとも学を極めるのだろうか、と周囲は囁く。

 何れにせよ、素行も良く人柄も穏やかで誠実、成績優秀であり教師たちの覚えも目出度い彼の将来は明るいと、誰もが疑っていない。

 前途明るい青年に、憂いがあるとすれば兄との確執である。確執と呼ぶにはやや一方的なものだが、彼は兄に疎まれていた。

 腹違いである故かもしれない。

 兄は正妻腹であり、彼の母は父の妾。兄にとって自分は目障りなのかもしれない、と嘉臣は思う。

 どれほど勉学に励み優秀な成績を収めようと、他者から称賛を受けようと、兄が嘉臣を省みる事はない。

 蔑ろにされているわけではない。学業に専念できるように取り計らい、何不自由ない暮らしを与えてもらえている。

 望めば大抵のものは与えられるし、無理難題でない限り何かを望んで叶えられない事はない。

 人からすれば羨む程に恵まれていると言っていい環境だ。

 洋行を勧められているが、それも申し出れば二つ返事で叶うだろうという確信がある。

 けれども、人間的な関心が向けられる事はない。

 子供達の元に行くのはそのせいかもしれない。自分を裏表なく見てくれる眼差しに、彼は確かに飢えている……。 


「紫園嘉臣さんだね?」


 川沿いの道に差し掛かった時、不意に声をかけられて嘉臣は驚きながら振り返る。

 そして、更に驚愕に目を見張ってしまう。

 鏡があるのかと思った。それぐらい、男と嘉臣は似ていたのだ。

 けれどすぐに違うと気付く。男は嘉臣よりも大分年上であったし、顏には大きな傷跡もある。

 着ているものの草臥れて薄汚れているし、どこか荒んだ印象が拭えない。

 金目当ての破落戸であろうか。しかし、それにしては嘉臣の名を知っており、行きがかりに狙ったという様子ではない。

 嘉臣は警戒の色も露わに身構えながら、問う眼差しを向ける。その様子を見た男は、面白そうに笑いながら大仰に肩を竦めて言った。


「俺はかさねの父親だ」


 嘉臣は更に驚き、言葉を失う。

 そういえばかさねと初めて会った日、彼女が自分を見て酷く驚いたのを思い出す。

 あれは父親と自分が似ているからだったのかと思えば、あの時の様子も腑に落ちた。

 しかし、疑問が解消される事はない。

 かさねに用事であるならば、紫園の屋敷に行けばよい事だ。

 もしや、行ったはいいが追い返されでもしたのだろうか。それで、自分に取りなしでも頼もうと?

 だとしたら残念ながら無駄である。自分が間に入ればより事態は悪くなるだろう。

 男が意味ありげに視線を向けるばかりなので、想像だけが脳裏を駆け巡る。

 堂々巡りの問いに片を付けようと、嘉臣は何用かと問いを口にしようとした。

 その時、男がようやく口を開いたのだ。


「いや、違うな」

「……何が、ですか」


 相手の様子を伺うように慎重に、嘉臣は問いかけた。

 男がにやにやと笑みを浮かべ続けている事に少しずつ不快が募っていく。

 何かが身体の内側を這いずり上ってきているような、何かに喰われているような、そんな何とも言えない不快感である。

 堅い表情のまま自分を見つめる嘉臣を見て、男はとっておきの秘密を披露するように両手を大きく広げて、哂った。


「俺はあんたの父親だよ、お坊ちゃん」

「は……?」


 嘉臣の口から、些か間の抜けた声が零れる。

 その様子を見て低い笑い声と共に、男は更に続けた。


「俺の女房とその姉貴が、自分の子供達をすり替えたんだよ。つまり、紫園家の子供のかさねと、俺の子であるあんたをな」


 呆然とした表情を取り繕えない。男が何を言ったのか、すぐに理解する事は難しかった。

 かさねの父である男は、言うに事を欠いて、嘉臣を自分の子であると言ったらしい。

 咄嗟にどのような返事をしていいものか、嘉臣は真剣に悩んでしまう。

 もしかして、かさねの父は少しばかりおかしいところがあるのだろうか。そうだとしたら、どうしたものか。


「ああ、悪いが俺は正気だぜ? 何なら、これが証拠だ」


 嘉臣の内なる迷いをまるで読んだかのように吹き出したかと思えば、男は何やら古い封筒を差し出した。

 色褪せたそれには二つ。一つの差出人には、嘉臣の母である先代の『胡蝶』の名があった。

 そして、もう一つには……鷹臣の名が記されていた。


「俺の女房がこっそり残していた手紙だよ」


 男によると、かさねには奇妙な守り神とやらがついていたらしい。

 大方器量の良いかさねに唾をつけておこうとした何処かの金持ちだろうと思っていたという。

 手元不如意となった時、そういえば、と思い出したその存在探る為に女房の遺品と家中を漁った。

 その『よひら様』とやらの素性が知れれば、そこから金を引き出せると見込んだからだ。

 男は笑みを消す事なくそう語った。

 射るような眼差しを向けながら、嘉臣は男から手紙を奪いとる。そして目を通し始めた嘉臣に対して、男は再び語り始めた。

 男が残されていた手紙から知った事実は、こうだった。


 紫園家においては、女は生まれてすぐに殺されてしまう事を先代の『胡蝶』は知ってしまった。

 女児であれば殺されてしまう家に生まれてくる娘。

 『胡蝶様』と呼ばれて大事にされていようが、それだけは変えられない。祖が遺したという決め事には逆らえない。

 かさねの母は恐れていた、我が子が女児である事を。

 彼女には、何故か自分の産む子が女児だという不思議な確信があった。それは子が育つ度に強くなっていく。

 だからこそ、同じ時期に身籠っていた妹が恋しいと無理を言って、妹を呼び寄せた。

 妹が産んだ子供は男児だったが、姉はそれを伏せさせた。そして、自身が産んだ子とすり替えるように妹に持ちかけた。

 我が子を手放す事に妹は悩んだが、悩みぬいた挙句にそれを承諾する。

 姉の子はそのままでは生きていけない。

 そして自分の子も、このままではしがない行商の子として苦労をさせる事になる。

 それよりも名家で不自由ない暮らしをさせてやれるなら、母はその思いに抗う事が出来なかった。

 姉は妹に感謝しながら、生まれた子を託して亡くなった。

 調度その頃、当主もまた死の床についており屋敷全体が慌ただしかった。離れの妾への視線も緩んでいた頃だった。

 我が子を姉の子として残して、妹は女児をつれて帝都を後にした。かさねを連れて、嘉臣を紫園家に残して。

 そして年月が流れ、どのような手段を通じてか鷹臣がかさねの存在に辿り着いた。

 母は鷹臣に平伏して詫びると共に、もうしばらく時間が欲しいと懇願したらしい。

 せめてあと少し成長する姿を見届けたいという願いを、鷹臣は聞き入れた。

 田舎でも学びに不自由しないようにと、密かに支援をする事となり、母は娘に支援者の存在を『よひら様』という神様だと教えた。

 震える手で手紙を持ち、綴られた内容に目を滑らせる。

 それは、確かに母たちのやり取りの手紙と。母と『よひら様』……鷹臣との手紙だった。

 記されていた内容と男が語った内容には差異はなかった。まさしく、今語られた話が、哀しい筆跡で便箋に綴られている。

 母は何時か、かさねに真実を告げるつもりだったのだろう。だからこそ、証となり得る手紙を捨てずに残していた。

 しかし、流行り病で手紙を始末する間もなくあの世へ行ってしまった。

 そして、証となる手紙は薄汚い思惑を抱いた男の手に渡ってしまったのだ。

 以前書斎にて垣間見た兄が、手紙と一枚の栞を大切そうに見つめていたのを思い出す。

 自分にはけして向けた事のないような、優しい優しい表情で……。


 嘘だと叫びたかったが、声が出ない。

 それまで当然のものと信じていた日常が崩れていく音がする。

 当たり前に存在し続けると思っていた地面が揺らいでいる。

 自分が、紫園家の人間ではないなど。鷹臣とは全く血の繋がらない、赤の他人であるなど。

 自分とかさねは、取り換えられていたのだと。本来あるべき運命を曲げられながら、それを信じて生きて来たのだと……。

 愕然とし言葉を失っている嘉臣を他所に、男は……嘉臣の父は上機嫌で語り続けている。


「元々自分の子かどうか疑ってはいたが、まさかかさねが紫園のお嬢様だったとはな」


 卑しい笑いを浮かべる男と嘉臣は、腹立たしい程に顔の造作が似ている。

 自分もこうなり得るのだろうかとぼんやり思う嘉臣は、まるで他人事のように我が事が遠く感じた。


「味見も悪くないとは思ったが、高く売れるだろうと我慢していて良かったぜ。しかし、あの旦那さんも自分の妹を買うとはなあ」


 お堅そうに見えて案外そういう趣味なのか、と下卑た笑いと共に呟く男を、嘉臣は睨みつける。

 兄を……例え真実血がつながらないとしても、嘉臣にとっては庇護者であり尊敬する相手を貶める発言だけは許しておけない。

 手の中の封筒を破り捨ててしまおうとした嘉臣だったが、男の動きの方が早かった。

 嘉臣の手から封筒を奪い返したかと思えば、やり取りの封筒は持参したものだけではないと追い打ちのように嘲笑う。

 殺気だった嘉臣を見ながら事実を葬ろうとしても無駄だと笑いつつ、男はやおら猫なで語り掛け始めた。


「今更紫園家の子じゃねえなんて知れたら、せっかくの帝大首席もお先真っ暗だ」


 嘉臣の眉がぴくりと動く。男が何を言いたいのか察してしまったからだ。

 唇を噛みしめたまま睨みつけてくる息子の眼差しをにやつきながら受け止め、男は本題だ、と切り出した。


「だが、俺も鬼じゃねえ。手元が温かくなれば、口も噤むさ。あいつを売った金もそろそろつきそうなんだよ。女が持って逃げやがったんでな」


 この男は、金を強請りに来たのだ。

 かさねを売って得た大金を使い果たしたらしく、次なる金蔓を求めていた。

 そして妻の遺した手紙を見つけ、紫園家の人間として輝かしい道を歩んでいた息子に目をつけた。良い金蔓になりそうだと……。

 恐らくここで嘉臣が拒絶した場合、手元にある証拠とやらを嘉臣の周囲や、或いは鷹臣の周囲にてぶちまけるだろう。

 全てを壊すつもりだろう。嘉臣が今まで歩いてきた軌跡も、これから歩む道も。そして、鷹臣の暮らしを、紫園家を……。

 男は嘉臣の答えを待っているようだ。

 殊更ゆるりと首を傾げながら嘉臣の様子を伺っている。その顔に浮かぶのは卑しい笑みだけ。仮にも我が子であると知った相手への情など欠片も見られない。

 暫く沈黙した後、ようやく口を開いた嘉臣は低い声音で呟いた。 


「……すぐには無理だ。日を改めて欲しい」

「そう長くは待てないぜ?」


 嘉臣が応じる意思を見せた事で、男は満足そうに笑う。

 嘉臣は冷淡なまでに落ち着いた眼差しを向けると、短く告げる。


「三日後、この場所で」


 それを聞いた男は頷いたかと思えば、身を翻して歩き出した。

 嘉臣はただ、その背が去り行き小さくなっていくのを黙って見つめていた。やがて、男の姿は見えなくなる。


 無言のまま佇みながら、ああ、そうかと嘉臣は呟いた。

 自分が本当の弟ではないから。すり替えられた偽物だったから、省みられる事が無かったのか。

 かさねは本当の妹だから。だからあんなにも愛されているのか。

 でも、それならなぜ妹として迎え入れずに、妾になどしたのだろう。

 いや、もうそれもどうでもいい事だ。そう、もうどうでも……。

 紫園の父は、父では無かった。鷹臣は、兄では無かった。

 母は既に亡いのだという。そして、父だという相手は自分を金蔓としか見ていないのだ。 

 自分は何故ここにいるのだろうか。自分は、一帯何なのだろうか。

 見えない、何も見えない。分からない。

 生じた問いに返る応えはなく、裡から湧き上がる暗い何かが少しずつ嘉臣を喰らい尽くして行こうとしていた……。

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