秘されし真実

 程なくして、かさねは離れに辿り着いた。

 しかし、そこはかさねの中での『離れ』というものとは些か異なる場所だった。

 客観的に見ても、規模こそ母屋に比べると小さいけれど、立派に『屋敷』と呼ぶに値する建物である。

 紫園家にきてからこの家と世間との相違にも大分慣れてきたとは思うが、一般的に見て屋敷と呼べる建物を『離れ』とする価値観に若干眩暈がした。

 和館と洋館によって成り立つ母屋とは違い、純粋に和の造りのようである。

 離れを前にして、かさねは思わず息を飲んだ。

 圧倒されたのではない。感じてしまったからだ、ここには『何か』があると。そして『何か』がいる、と。

 鍵を渡してくれた家令は、今はまだ先の『胡蝶』の居た時のままであるが、もう暫くしたら、何れかさねが住まう為の準備を始める予定であると話していた。

 主を失って久しい建物は、言い知れぬ静けさを湛えている。

 静寂が満ちる離れの中には、何か言い知れぬ不安を搔き立てる空気が満ちていた。

 慎重に足を進めていたかさねは、先程とは違った意味で息を飲んだ。

 ささやかな飾りの一つをとっても、目も眩むような美しい品々で溢れていたからだ。

 まるで何処かの御殿かと思う程に見事な調度類に、室内を彩る飾りの品々。

 新しさこそないけれど、歴史を感じる豪奢な空間は到底限られた時間のみ使うものとは思えない。

 時の流れから隔絶された、美しくて歪な籠。そんな言葉が脳裏を過る。

 出来る限りの美しい調度を整えて、少しでも満ち足りた気分で過ごせるように。最期の瞬間、目に映すのが美しい光景であるように。

 それが子と引き換えに逝く事を避けられぬ女への、せめてもの情けであったのだろうか。

 使われていないものの、定期的に手が入っているのか荒れた感じはない。

 恐る恐る進むけれど、行けども進めども見事で美しい光景があるばかり。

 それ以外にとりたてて変わった事はない。斎が言うような、彼をこの場所から隔てる原因となる物は見当たらない。

 ここに『何か』を感じたのは気のせいだったのだろうか、とかさねの表情は曇る。

 いずれここで死ぬのだという無意識の想いが、何かあると錯覚させたのだろうか。そんな事を考えながら立ち尽くしていた時だった。

 ひらり、とかさねの内から蝶が一匹生じた。

 青紫に不可思議の光を纏った蝶は、ひらひらと誘うように軌跡を描きながら、先へと進んでいく。

 一瞬躊躇ったけれど、かさねは蝶の導きに従って再び歩み始めた。

 辿り着いたのは、奥座敷だった。

 床の間の、人形などが飾られた脇棚の下。地袋の前にて蝶はゆらゆらと舞っている。

 かがみ込み手をかけると、特に抵抗なく戸は引けた。

 中を覗き込んだかさねは、思わず目を瞬く。そこにあったのは。


「日記帳……?」


 それは重厚な皮張りの表紙の帳面だった。

 『Diary』と記されているのを見て、かさねは学んだ記憶の中からそれが日記帳であると知る。

 日記なのは分かった。しかし、これは誰のものであろうか。

 ここで過ごした『胡蝶』のものだろうか。しかし、それにしては些か重く堅苦しい雰囲気がある。

 どちらかといえば男性が持つもののような。それも、設えからしてそれなりに地位や財力のある男性が。

 そういえば家令が言っていた。先代当主は『胡蝶』が出産を間近に控えた頃、頻繁に『胡蝶』を見舞いながら、離れで考え事をする時間が増えていたと。

 もしその際に置き忘れたとしたら、これは紫園の先代……鷹臣達の父のものかもしれない。

 先代は、離れから帰ってきたかと思えば倒れて意識不明となり、そのまま亡くなった。

 先の『胡蝶』……叔母が嘉臣を出産したのは、当主が死の床について屋敷中が大騒ぎの最中であったという。

 どうやらその時、姉を見舞うためにかさねの母も離れを訪れていたらしい。

 先代逝去の混乱の中、姉の最期を看取った母は赤ん坊のかさねを連れて何時の間にか去っていた、と家令は当時を振り返った。

 つまり、かさねは一度ここに入った事があるということだが、当然ながら赤ん坊の頃の話など覚えている訳がない。

 『胡蝶』であり、嘉臣の母である叔母がどのような人であったのかも、全く知らない。

 逸れかけた注意を再び日記に戻す。

 人の日記を開く事への罪悪感に伸ばしかけた指が止まる。ましてや、それが既に亡き人のものだというならば尚更である。

 故人の記憶と心情に触れるという事に対して暫しの逡巡があった。だが、やがてかさねは静かに日記帳を開いた。

 流麗な筆致で記されたのは、始めのほうは予定であったり、日々の取り留めない記録であったりするようだった。

 だが、途中から趣が変って来る。

 この日記を記している男性の妻が子を身籠った。

 子が出来ぬように配慮していた筈の妻が身籠った事への懐疑。疑いを抱いたままそれでも時は流れた。

 子が生まれたであろう日に記されていたのは、震える筆跡の「妻は死ななかった」という短い一文だけだった。

 その後は、ただひたすらに苦悩が綴られていた。こまめに綴られていた日記が、次第に飛び飛びになっていく。数日どころか数か月開くようになっていく。

 ただ、徐々に錯乱しつつあるのが乱れ行く筆跡から分かる。この日記帳の主は、膨れ上がる負の感情故に、徐々に正気を失いつつあったようだ。

 長年記されていなかった後、思い出したように記された日付は十九年前。調度、かさねや嘉臣が生まれた頃のこと。

 筆跡はもはや乱れに乱れ、読み解くのが若干難しいものとなっている。


『あれは、日増しにあの男に似てくる』


 裏切りを糾弾し責める心と恨み。信じていたのに、愛していたのにと綴られた下りが痛々しい。


『池に沈めた時に死んでいてくれれば良かった。何を試みても、あれは死なない。あれの代わりに他が死ぬ』


 次いで、育ちゆく『何か』に対する嫌悪と恐怖。

 彼はその『何か』を何度も消そうと試みた。けれど、それは叶わなかった。

 彼が何をしようとけして死ななかった。


『誰か、あの化け物を殺してくれ……!』


 その頁を目にして思わず目を見張る。

 最後にあったのは、血を吐くような殴り書きだった。

 それ以後の頁は白紙である。日記はそこで止まっている。


 かさねは日記帳を閉じて大きく息を吐く。思わず呼吸を止めて見入ってしまっていた。

 この日記帳の主は、何かを恐れていた。何度もそれを消そうとして、出来なくて。結局は恐れに狂いながら、多分亡くなった。

 これは先代のものなのだろうか。それにしては腑に落ちない点がある。

 妻は死ななかったという一文が脳裏を過り、かさねは首を傾げる。

 紫園家の当主の主の子を産めば、母となった女は例外なく死ぬ。

 鷹臣の母も、嘉臣の母であるかさねの叔母も、子を産んで亡くなったと聞いている。

 それならば、これは先代のものではないのだろうか。

 記されている年を見れば鷹臣が生まれた頃の事だと思われるのだが、他にも誰かこの場所で生まれたというのだろうか。


 その時、ひらひらと漂うように舞っていた蝶が、再び誘うように軌跡を描く。

 そして、今度は床の間にかけられていた掛け軸の前に止まった。

 落款を見れば、かさねも聞いた事のある高名な書道家の物である事が分かる。

 しかし、それ以上に何かがあるようには見えない。

 かさねは首を傾げつつも、慎重な手付きで掛け軸に触れて裏を見ようと試みる。

 そして、思わず声をあげてしまった。


「隠し扉……?」


 掛け軸の裏に細長い木戸が隠されていた。

 物語か何かのようだと驚きはしたものの、次いでかさねは眉を顰める。

 複雑な文字とも文様ともつかぬものが、表面を覆い尽くすように刻み込まれていたのである。

 どうみても唯の飾りとは思えない。呪術的な意味合いを持つものだと、かさねの中の何かが警告する。

 それを開かなければ分からない事がある。けれども、それを開いたならば怖ろしい事が起きる。

 二つの心が鬩ぎ合う。進みたい気持ちと、戻りたい気持ち。

 知りたい気持ちと、知りたくない気持ち。

 二つが相反するそれぞれの方向にかさねの心を引こうとする。

 逡巡に沈黙した後、かさねはゆっくりと木戸に手を伸ばした。

 未知は恐怖である。けれども、知らぬままで居る事もまた恐怖である。

 それに何より、かさねは願ったのだ。斎を戒める原因を知りたいと――鷹臣を縛り続ける呪いを解く術を知りたいと。

 想いが恐怖に勝り、かさねは木戸を開いた。

 鍵などかかっているものと思ったが、少し力をかけただけで戸は拍子抜けするほどあっさりと開いた。

 開かれた先にあったものに、かさねは釘付けになる。目を見開いてそれに視線を据えたまま、掠れた声で無意識に呟いていた。


「刀……?」


 木戸の中には、一振りの刀が置かれていた。

 美しいそれはかさねの目を奪う。柄には蝶の象嵌の施された刀の刃は、まるで水晶のように透き通り、不思議な光を帯びていた。

 この光は……斎の、そしてかさねの蝶がまとう燐光と同じ物。

 先程までかさねを導いていた蝶は、まるで喜ぶように刀のまわりを飛び回る。

 恐らく刀剣としても、美術品としても、価値がある物である事には間違いない。

 同時に、ただの刀でない事も明白だ―― 幾重にも巡らされた符を見れば。不思議の世界に通じていないかさねとて分かる。

 これは、此処に封じられているのだと。

 ただ、何故ここに隠されていたのかは分からない。

 ここは、紫園の主に囲われた女が子を産んでは死んできた場所。そして、死神である斎が唯一力を及ぼせない場所。

 その理由が、この刀であるのだろうか。

 刀を前にして思索に耽りかけた時だった。


 かさねの耳に、聞こえる筈のない『声』が聞こえたのは。

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