罠
かさねは寝台に横たわり、ぼんやりとした視線を天蓋に向けていた。
唯一世話を焼く為に部屋に入る事を許されているタキは、昼まで用事で外出すると言っていた。
鷹臣も所用という事で屋敷を空けている以上、朝から誰とも顔を合わせていない。
時間の感覚も、自分という存在も曖昧になるような不思議な時間だった。
ゆるゆると自分が溶けて、次第に輪郭を失っていくような感覚。溶けて解けて、さらさらと消えていくような、不可思議な……。
けれども、それはコツコツと扉を叩く音にて一気に霧散する。
瞬時に意識が現に戻ったかさねの耳に、様子を伺うような若い女の声が聞こえた。
「胡蝶様」
「……忍さん?」
応えがあったのを確認したように寝室に足を踏み入れたのは、かさね付の女中である忍だった。
かさねが部屋に閉じ込められて以来、顔を見ていなかった。
相手にとっては寧ろその方が良かろうとは思っていた。鷹臣からは厳しく立ち入りを禁止されていた筈だが……。
忍はあまり感情を伺わせない表情で用件を告げる。
「旦那様からの言伝が御座いました。準備をお手伝い致しますので、お早く」
忍によると、何と鷹臣が観劇の誘いをくれたのだという。
劇場で待っているから、支度を整えてくるようにとの言伝があったらしい。
初めて歌劇に触れて感激したかさねをみた鷹臣は、折に触れては観劇の機会を作ってくれていたが、当然ながらここ暫くはなかった。
それなのに、そのような言伝があったということは……。
思索に耽りかけたかさねを半ば叱咤し急かすように、忍は散歩着一式を用意して、問いを紡ぐ間すら与えずに支度をする。
確かめたい事はあっても、忍に「旦那様をお待たせする気ですか」と言われれば飲み込んでしまった。
玄関前には既に俥が用意してあり、追い立てられるようにしてかさねは俥に乗る。
少しばかり人相の良くない車夫は、かさねが乗ったのを確認すると即座に走り始める。
忍に言葉を残す余裕もなく走り出した俥の勢いに、かさねは必死に揺れに耐えるばかり。
――それを見送る暗い愉悦の笑みに、気付く事などできはしなかった。
久方ぶりの外の空気に思わず深く息を吸い込む。
風を感じるのも、太陽の日差しを感じるのも、もう随分久しい気がする。実際はそこまで経っているわけでは無い筈だが。
移り変わり行く風景を眺めながら、あれほどかさねを閉じ込めておきたがった鷹臣の唐突な心変わりを不思議に思う。
それこそ、本当に足枷でもつけられかねない勢いだったのに。怒りを解いてくれたと言う事なのだろうか。
もう良いだろうと思って、気塞ぎだったのを紛らわそうと観劇の機会を設けてくれた?
けれど、今朝出かけると告げにきた鷹臣に変った様子はなかった。もし、そう考えてくれていたなら、出る前に告げてくれただろう。
それとも、外に出た後に考えが変った?
ひたすらに浮かぶのは疑問である。
鷹臣は思いつきで行動し、かさねを振り回すような事をする男性ではない。
確かに怒りでかさねを閉じ込めはしたものの、あれは例外だったはず。
それまでは何か思いついたりしたとしても、まずかさねの意向を確かめて考慮し、余程の無理がなければそれに合わせてくれていた。
かさねの願いをこそ第一に考えてくれていた。
今回のように一方的に言いつけてくるのは無かったのに。
未だに怒りを引きずっているゆえに鷹臣も揺れているのだろうか。けれども、それならばこのように外に出る事を許しはしないはず。
何かが気になり、腑に落ちない。得体のしれない何かが胸の奥に不安を誘うように蠢いている。
不安に表情を曇らせ思索に耽っていたかさねだが、ふとある事に気づく。
この俥は、何処へ行こうとしているのかと。
今進んでいる道は帝劇とも浅草とも、どう考えても別方向だ。
それどころか、流れる景色はどんどん寂れたものに転じているではないか。
見た事のない景色を突き進む俥に、かさねは叫ぶ。
「止まって! 何処に行こうとしているの……!」
俥を進め続ける車夫に、顔色をかえたかさねが叫ぶ。
しかし進みは止まらない。それどころか、車夫は声に下卑た響きを滲ませて応えた。
「いいところですよ、蝶々さん」
そして、俥は止まる事なく走り続ける。
やがて辿り着いたのは、入り組んだ道を越えた先にあった寂れた小屋だった。
俥が止まり引きずり降ろされたと思えば、小屋の中に連れ込まれ、乱暴に床に放られる。
土で肌をする感触に顔を顰めながら身を起こせば、そこには車夫を含めて三人の男達の姿があった。
車夫だった男の他は、どうお世辞に見積もっても破落戸としか言えない風体である。
三人はそろってにやにやと笑ってこちらを見ている。蒼褪めながらも無言で睨み返すかさねを見て、破落戸の一人が楽しげに笑い声をあげた。
「こんな状況だっていうのに、随分気が強いこった」
「しかし、なかなか良い女じゃないか」
その言葉と眼差しに、かさねは表情を強ばらせて唇を引き結ぶ。
この視線は覚えがある。故郷の村において受けた事がある、欲を孕んだ雄の眼差しだ。
下卑た笑みを浮かべた車夫を装っていた男は、かさねを顎で示しながら仲間二人に言う。
「好きにして構わない、だと。金になった上にいい思いが出来るなんざついているぜ」
それを聞いた男達は殊更下卑た笑みを浮かべて見せる。
此処に至れば流石に気付かぬわけにはいかない。自分がはめられたのだという事実に。
謀の主は、この男達に金を渡して頼んだのだろう。かさねを攫って滅茶苦茶にしてしまえと。
蹂躙され汚された妾を、それでも傍に置く男など普通はない。概ねそのまま切り捨てられる。
下賤の生まれの目障りな田舎娘を始末するのに、一芝居打ったのだ。あの言伝とて作り事だったのだろう。
随分と大胆な事をしてくれたものだと内心で皮肉を言うけれど、どうあがいてもかさねにとっては分が悪い。
相手は大の男が三人、そして地の利が全くない人気のない場所。
足の速さにはそれなりに自信はあるが、今はそう動きやすいわけでもない散歩着である。
背筋を一筋の冷たい汗が伝うけれど、焦りを表情には出したくない。少しでも怯んでいるところを、このような奴らに見せたくない。
気丈に睨みつけたままのかさねを見て、車夫だった男が二人に顎をしゃくる。恐らくこの男が三人の首領格なのだろう。
「まずは脱がせてしまえ。上等な着物だ、それだけでも金になる」
応じるように頷くと、男達はかさねへと歩みより距離を縮めてくる。
後退るかさねを見ながら、獲物を追い詰めるように殊更ゆっくりと近づいてくるのが腹立たしい。
その様子を見ながら、首領格の男は笑いを含んだ声で続ける。
「あまり手酷くして壊すなよ? その器量だ。恐らくそれなりの値で売れるだろうからな」
伸びてくる手を渾身の力でかわそうとしても、力では叶わずあえなく取り押さえられる。
それでも諦めずに、かさねは渾身の力でもがき、爪を立てては男達の腕に傷をつける。
抵抗を続けるかさねに苛立ったように男の一人が叫ぶ。
「所詮、買われた妾だろうが!」
「大人しくしていれば、いい思いをさせてやるっていうのに……!」
引きずり倒されて、地に身体を押し付けられる。おぞましい腕がかさねの自由を奪おうと伸びてくる。
押さえつけられても、馬乗りに乗られても、かさねは暴れ続ける。
何処からそれだけの力が湧いてくるのかという程、男達の顔に苛立ち徐々に余裕が無くなる程に抵抗を続ける。
嫌だ、絶対に嫌だ。あの人以外は、絶対に。
確かに自分は買われた身だ。卑しまれる妾の立場だ。けれど、だからこそかさねに触れていいのは、この男達ではない。
触れて良いのも、触れて欲しいと願うのも、唯一人。怜悧な眼差しに焦れた光を宿してかさねを見る、あの人だけ――。
「私は……旦那様のものです……!」
その瞬間、締め切られた小屋の中で風が起きた。
暴風とも言えるそれは、かさねにのしかかっていた男を弾き飛ばし、腕を押さえつけていた男を壁に叩きつける。
何が起きたのかと呆然とする首領の男の目には、有り得ざる光景が移っていた。
銀の燐光を帯びた蒼紫の蝶の大群が、螺旋を描きながらかさねの周りを舞っている。
どう見てもこの世ならざる存在が、まるでかさねを守るように彼女を取り囲んでいる。
かさねが危機に陥る度に、かさねを守る為に現れた不思議の存在。けれど、今はその存在に感謝する。
かつて憑きものと忌まれる原因となったものは、今自分の本当の願いを守ってくれようとしている。
今度は男達が蒼褪める番だった。何故なら目の前には、この世ならざる怪異が具現化しているのだから。
「何だよ、この蝶は……」
「この女が操っているのか……?」
蝶たちは男達を牽制するように、かさねの周囲を巡り、男達を翻弄するように舞う。
一人が、たかが蝶だといって掴み潰そうとして悲鳴をあげた。
蝶にふれた手が凍り付いたように冷たいと叫び、痛みを訴えて手を振りながら転げ回る。
かさねの拒絶に応じるように現れた不可思議の蝶に、もはや男達の顔からは色というものが消えていた。
恐らくいい思いが出来る上に見入りの良い楽な仕事と思っていたのだろう。
けれども、今目の前にあるのは尋常ならざる光景。予想など無論していなかった筈だ。
一人がじりじりと後退り、俺は下りると叫んで駆けだした。
それを咎める叫びに覆いかぶさるように、先程の悲鳴とは違う、より苦痛が増した切羽詰まった悲鳴が響き渡る。
咽返るような匂いと共に赫が飛ぶ。
かさねが呆然として見遣ると、そこには喚き声をあげて転がる男の姿。男の片腕は地に落ちて転がり、血だまりを作っていた。
何事かと呆然としたかさねの耳に、聞き覚えのある……今、何よりも聞きたいと思っていた声が触れた。
「……私のものに、何をしていた……!」
「旦那様……!」
吹雪の声音がその場に響く。
かさねが縋るような眼差しを向けた先、陸軍将校の軍服を来た男の姿がある。
冷徹に見える表情の中、鬼神もかくやという怒りの炎滾らせた紫園家当主が刀を抜き放って立っていた。
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