死神である人

 ――遡り、少し前。


 鷹臣が帰宅したのを見て、足がもつれる程に狼狽したタキが声をかけてきた。


『旦那様……! 胡蝶様とご一緒では無かったのですか……!?』

『何……?』


 蒼褪めたタキの言葉に、鷹臣は怪訝そうな眼差しを向ける。

 鷹臣の様子を見て、タキは更に動揺を深くしながら言い募る。


『胡蝶様のお姿が見えないのです。女中達が言うには、旦那様にお呼びだしを受けたからと屋敷を出られたと……!』


 次の瞬間、ハッとした様子で鷹臣は踵を返した。

 かさねは、鷹臣から呼ばれたと姿を消した。そこに、何者かの悪しき意図しか感じ取れない。

 恐らくかさねは偽りの言伝で罠にかけられ、かどわかされたのだ。

 何処へ連れ去られたのか、何の為に……。

 珍しく狼狽えている自分に気付きながら、駆けだそうとした鷹臣の前にひらり、と何かが飛来する。

 美しい青紫の翅を持つ燐光帯びた蝶。

 一瞬このような時に、あの死神が嫌がらせをしようとしているのかと思った。

 だが、見ている内に気づく。これは斎のものではない。これは……かさねの蝶だ。

 『蝶憑き』と呼ばれたかさねの守り手が、鷹臣の目の前に姿を現した理由は……。

 再び出かける旨を伝える暇すら煩わしく、蝶から眼差し外すことなく鷹臣は再び車を出すように命じた。




「お前の居場所を知らせてきた。……賢いな、お前の蝶は」


 かさねは目を瞬く。

 自分の内にある蝶が、何時の間にか鷹臣を導いてくれていた事を、徐々に理解していく。

 意のままにならない蝶なれど、やはりかさねを守る為に舞ってくれているのだと言う事を改めて思う。

 鷹臣の指先に止まる蝶は労いの言葉にひとつ強く輝きを見せると、ふいと消えた。役目を果たしたので戻る、というように。

 鷹臣は乱れきった姿のかさねを隠すように、着ていた上着を肩にかける。

 感じる鷹臣の温もりと香りに、透明な雫がひとつ、またひとつと頬を滑り落ちていく。

 必死に抵抗していた時には押さえ込んでいた恐怖が遅れてやってきて、かたかたと身が震えるのを止める事が出来ない。

 鷹臣は静かにかさねを抱き寄せる。指先から伝わるのは、ただひたすらに優しく、気遣う心に満ちた温もりだった。

 しかし、その温もりに割り込むように無粋な、皮肉に満ちた声が響く。


「紫園の旦那さんのお出ましとはね。余程その妾が大事と見える。そんなに……」

「黙れ下郎……!」


 平素の冷静さが嘘のような怒声が、男の言葉を遮るように響く。

 叩きつけられた言葉に怯んだ男に、続いて告げられた冷徹な言葉だった。


「お前には、聞き出さねばならない事が山程ある。……そこの男共からでも構わんが」


 鷹臣の低い呟きと、男が息を飲むのはほぼ同時。

 何らかの行動に出ようとした男に先んじて、気付いた時には血の滴る刃が男の喉元に突きつけられている。

 魂を凍らせるような声音でいう鷹臣の眼差しは、切り刻めるのではないかと思う程に鋭い。

 男が身じろぎ一つでもしたなら、即座に首が飛ぶであろうという威圧感に、かさねすら身を強ばらせてしまう。

 呼吸すら躊躇う程に緊迫した空気がその場に流れ……。

 顔を歪めていた首領の男は、ついには観念したという風に呻いた。


「分かりましたよ……。俺だって命は惜しい。全部喋るから命だけは……」


 その先は、震えて言葉にならない様子だった。

 顔色を失いながら言葉にて白旗をあげた男を見て、沈黙したまま眼差しを向ける鷹臣。

 心の底を探るように見据える鷹臣の眼差しは険しいまま。

 続く沈黙に場の緊張が最大限に張り詰めた時、空気がふと揺らいだ。

 鷹臣が弾かれたように振り向くと、蒼褪め唇を噛みしめたかさねの身体が揺らめき、その場に崩れ落ちかけたのだ。

 狼狽を滲ませて、鷹臣は咄嗟に両腕を差し出しかさねを支える。

 背を向けた刹那、それが。


「詰めの甘さは、結局良家の旦那様だな!」


 叫びながら、男が懐に隠し持っていた短刀を、鈍い音と共に鷹臣の脇腹に突きたてる。

 くぐもった呻き声を零す鷹臣の脇腹が徐々に紅に染まっていく。

 嘲笑う男は更に突き立てた刃をより抉り、欲望のままに引き抜いた。鮮血が宙を舞い、呆然と目を見開いたかさねの白い頬にも飛び、伝って地に落ちる。


「旦那様っ……!」


 沁み出る紅に、漸く理解が追い付いたかさねの悲鳴があがる。

 男は勝ち誇ったように鷹臣を見つめていたが、返ったのはあまりにも静かな声音だった。


「……馬鹿な真似さえしなければ――」

「……何……?」


 ――死なずに済んだものを。

 呟きを拾う余裕が、男にあっただろうか。


 男が怪訝そうに眉を寄せた瞬間、それは起きた。

 きらきらと舞い散る粉雪のような光が強まり、奔流となり、鷹臣へと注がれる。

 短刀を手にした男が瞬く間に老いていく。

 見る見る内に皺が刻まれ、かと思えば肌が干からび、驚愕に固まったまま地に伏していた。

 気が付けば、鷹臣には刺された傷が無い。まるで、最初からなかったかのように。


 光が消えても、かさねは茫然とただただ瞬いていた。


「……『死神』と称される所以だ」


 かさねは思い出す。

 鷹臣は確かに『死神少佐』という呼び名を持っていた。それは紫園家の呪いを皮肉った呼び名ではと思っていたけれど……。


「傷を負うと意図せずして他者の命を喰らう。他者を犠牲にしてでも生き残る。……故に、私もまた『死神』だ」


 どれほど厳しい戦況であっても、他者を犠牲にしてただ一人生き残る。

 例え自身が拒んだとしても、身体は意に反して犠牲を求め、生を繋ぐ。

 同輩を、部下を、上官を。喰らって繋いで、今日の自分があると鷹臣は言う。

 だからこそ、家を取り巻く呪いと相まって彼は不吉な二つ名にて呼ばれるのだと。

 何故に彼はそのような力を持ちえたのか。

 これもまた紫園の呪いなのか。これが、あの死神の『加護』だというのか……。

 すっかり顔色を失くして立ちすくむかさねに、鷹臣は口元を歪めて問いかける。


「……恐ろしいか……?」


 その声は皮肉を紡いでいるようで、どこか物悲しい響きを帯びていた。

 己を嘲るような表情が、かさねには泣き出すのを堪えているように見える。

 この人は耐えてきたのだろう。

 窮地において、共に乗り越えたかった者達を喰らって生き延びる事の葛藤に。

 望まずして、死を齎す者となってきたという事実に……。

 かさねは、鷹臣と向き直る。真っ直ぐに鷹臣を見上げながら、首をゆるゆると左右に振った。


「いいえ……いいえ……!」


 鷹臣が目を見開く。

 咄嗟に出た否定は、思わぬ程に強い言の葉だった。

 それは紛れもなく、かさねの本心だった。

 かさねは、静かに鷹臣の頬に手を伸ばす。

 触れたいと思ったのだ、この人に――かさねが、心から想う唯一人の人に。


「……あなたは、私の大事な方です……!」


 ただ、あなたが愛しいのだと伝えたくて鷹臣の頬に触れた。

 そして、次の瞬間かさねは鷹臣の腕の中に居た。

 先程の優しい抱擁とは違う激しい腕に抱かれ、かさねは苦しい、と裡に呟くけれど不快ゆえではない。

 胸が詰まる程の想いに息が出来ない。縋りつくように、鷹臣の腕は自分を戒め捕らえている。


 もう、自分は何処に行けない。否、行きたくない。

 囚われでいたいと願っている自分を、もう否定できない。

 この先の、自分に許された時間をこの人と共に在りたい。

 例え何れ潰える命であったとしても、この人の中に私という存在を残す事が出来たなら。

 かさねは、そう思ってしまっていた……。


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