嘉臣

 咎めるような響きはない、純粋に疑問を表した問いかけだった。

 かさねがそちらへ視線を向けると、そこには一人の青年が立っている。


「新しく入った女中? ……それにしては、身支度がいいな……」


 怪訝そうな表情を浮かべて言う男性を見た瞬間、かさねは一瞬身を強ばらせた。

 父だ、と咄嗟に思ったのだ。あの日酒に酔いつぶれて寝ているのを見たのが最後の父が現れたのかと。

 しかし、すぐに違うと気付く。確かに父に似通ってはいるが、大分若いうえに顔に走っていた傷痕がない。

 身に着けている物も派手ではないが質の良い洋装である。

 纏う空気も父のようにうらぶれて荒んだものではなく、穏やかで落ち着いている。育ちの良い人間特有のゆったりとした雰囲気である。

 かさねの様子から、警戒されていると思ったのだろう。

 男性は困ったように笑いながら、ふと目を瞬いた。何かに気づいたような様子で、首傾げて静かに問いかける。


「もしかして。君が兄さんの『胡蝶』……?」

「兄さん……?」


 確かに、かさねは『胡蝶』と呼ばれる身ではある。

『胡蝶』とは紫園家においては当主の妾を差す呼び名。かさねの主である人は、紫園家の当主の鷹臣であり……。

 まさか、とかさねが目を見開いたその時、男性は微笑みながら問いの答えを紡いだ。


「自己紹介が遅れたね。僕は嘉臣よしおみ。兄さん……鷹臣の弟だよ」


 母親は違うけどね、と人懐っこい笑みを浮かべながら嘉臣は言う。

 そういえば、女中から聞いた事がある。鷹臣には弟が一人いるのだと。

 母親違いの弟は大層出来が良いらしい。

 帝大に首席で入学し、以後も優秀な成績を修め続けているという。

 それで居ながら全く驕らぬ穏やかな好青年であるとも聞いている。

 ただ、鷹臣は異母弟をあまり良く思っていないようだ。

 大学に近いところに別邸を与えて、そこで暮らすように申し付けたのだという。屋敷には、余程の事がなければ近づくなと厳しく命じているらしい。

 とてもお優しい、お兄様を尊敬していらっしゃる方なのに、と若い女中達が溜息を吐いていて、タキに咎められていた事を思い出す。

 やや線が細く柔和な印象を与える青年は、あまり鷹臣と似ていない気がする。

 似ているというならば、顔立ちはやはりかさねの父に似ている。雰囲気などは全く違うけれども。

 かさねの不思議そうな顔を見て何か感じ取ったのか、嘉臣は苦笑いする。

 普段は立ち入らないように言われているが、今日は学業を続けるにあたっての相談事があって直接話がしたいと訪れたらしい。

 だが、鷹臣からは今しがた面会を断られた。

 かといってそのまま帰るわけにも、と庭園を散策して時間を潰そうと思って足を向けて、かさねと出会ったという。

 今は誰にも会いたくないと言われたと聞いて、かさねは思わず考え込んでしまう。

 もしかしたら原因は自分にあるかもしれないと思えば、表情は曇る。

 そんなかさねを見た嘉臣は、一言断わりを入れてから、少し離れた場所に腰を下ろした。

 気遣うように、嘉臣はかさねにこの屋敷での暮らしを問う。

 優しい青年であるらしい。かさねが屋敷で恙無く暮らせているかを気にしており、良くしてもらって居る事を伝えれば安堵した様子だった。

 かさねが自分と同い年である事を聞いた時には驚いたものだったが、そのかさねが鷹臣の妾となった事には複雑そうな様子を見せた。

 自分の母が父に同じ様に迎えられたのを思い出したからであろうか。そして、自分を産んで死んだ事を……。

 嘉臣はかさねの様子を気にかけながら、取り留めのない話を続ける。

 警戒は既に解けており、むしろどこか不思議な親しみのようなものを感じる気がした。

 青年の言葉の端々には兄への情が滲む事にかさねは気付く。


「兄さんのように正妻を母に持つ跡継ぎの方が珍しいんだよ。大体の跡継ぎは僕のように『胡蝶』腹なんだよね」


 概ね代々の正妻は命と引き換えるのを嫌がり、不本意であろうと妾に子を産ませ、その子供を育てて来た。

 しかし、先代の正妻は自ら子を産んだという。そして、当然の流れとして直後に命を落した。

 先代は正妻を愛していたのだという。出来る事ならば子を産ませたくないと言っていたらしい。

 しかし結果として正妻は子を産んで死んだ。先代は後添えを貰う事はせず、跡継ぎである鷹臣を乳母に育てさせたらしい。

 けれどもその一方で、一人では心元ないと思ったのであろうか。渋っていたが妾を迎え、もう一人子を産ませた。それが嘉臣であるという。


「嘉臣様のお母様が、先代の様の『胡蝶』であるというなら……」


 かさねは少し躊躇いながらも口にする。

 母から聞いたとある過去の逸話と、目の前の青年の生まれに関わる事を照らし合わせたならば、導き出される可能性があるのだ。


「私は……母の姉が先代のご当主のお世話になっていたと聞いています」


 かさねも、母から直接聞いたわけではない。

 父と母が夫婦喧嘩をしていた際に、切れ切れに聞こえた内容からそうと知っただけだ。

 かさねの叔母にある女性は、紫園家の先代当主の妾であったというのだ。

 そして、身重の姉のもとを身重の状態で見舞った母は、そのまま帝都で出産となったらしい。

 それについて父が面白く思っていない事や禍根となっている事は言葉の端々に滲んでいた。

 母は姉の事については何も語ろうとはしなかった。恥じていたのか、悲しんでいたのか。とにかく、母が自分の姉について話題に出す事はなかった。

 何が理由で叔母が紫園家当主の世話になったのかは分からない。どのような人だったのかは分からない。唯、子を産んで亡くなった事だけは確かである。

 恐らく田舎の村までわざわざかさねを買いにきたのは、その繋がりを伝ってのことだろうとは思う。

 それを聞いた嘉臣は、きょとんとした表情で目を瞬く。


「……父さんの妾は、僕の母一人だよ」


 今度はかさねが目を瞬く番だった。

 先代の妾は一人だけ。そして、かさねの叔母は先代の妾だった。つまり……。

 二人は思わず顔を見合わせ、次いで嘉臣が信じられないといった様子で息を吐く。


「ということは、僕たちは従兄妹って事になるのか」


 世の中は狭い、と驚きを露わに嘉臣は肩を竦める。

 かさねもまた驚いていた。もしかしてと思いはしたが、本当にそうだとは思わなかったのだ。

 血の繋がりがある青年を前にして、かさねの表情と緊張が緩んだ。

 覚悟を決めてきた場所ではあったものの、何処か張り詰め続けていたのだろう。

 同い年であり更には血縁であったという事を知ったかさねは、嘉臣に対して自然と笑みを浮かべている。

 かさねが口を開きかけた、その時だった。


「……気になって様子を見に来てみれば……」


 二人は弾かれたようにそちらを向いた。

 そこには、鷹臣が立っていた。

 全く温度を感じさせない表情で、しかし殺しかねない程に険しい負の感情の籠った眼差しを実の弟に向けている。

 鬼とも見紛う雰囲気に、かさねも嘉臣も思わず息を飲む。

 蒼褪める二人へと順番に視線を向ける鷹臣に向かって、暫しの逡巡の後に嘉臣が絞り出すように口を開く。


「に、兄さん……?」

「会う気はないから帰れと言った筈だぞ」


 吹きすさぶ雪のように凍える声音で返されれば、嘉臣の顔色が更に消え失せる。

 何か言葉を返そうとしているようだが、言葉が喉でつかえているようでもある。

 兄に対する恐れに固まってしまっている弟に対して、鷹臣は容赦なく続ける。


「お前は当面屋敷の出入りを禁じる。……見つけ次第叩き出す。無論、かさねに近づく事も許さん」

「そんな、旦那様……」


 それではあまりにも辛い仕打ちではなかろうかと思い、恐る恐る声をかける。

 そのまま、かさねが何か言いかけた瞬間だった。鷹臣はかさねの腕を力に任せて引くと、何か言う間も与えずに歩き出したのだ。

 転げそうになりながらも、かさねは鷹臣に続かされる。

 背後から悲痛なまでの嘉臣の声が聞こえたけれど、何と言ったのかは遂に分からなかった。

 痛い程に強く腕を引かれて、引きずられるようにして屋敷の中を進む。

 あまりの剣幕にタキや他の女中達が何事かと顔色を変えたけれど、鷹臣はその全てを下がらせる。

 扉を抜けて、抜けて。鷹臣がようやく足を止めたと思って顔をあげようとした時、強い力で引寄せられた。

 そして放り投げられた先は馴染みのある寝台で、かさねは漸く自分が寝室まで連れて来られた事に気付く。

 寝具が受け止めてくれたおかげで左程衝撃は感じなかったが、すぐに身動きが取れなくなる。

 覆いかぶさりながら射殺すような眼差しを向けてくる鷹臣を見てしまったならば、息をする事すら躊躇ってしまう。


「少し叱責しただけで、他の男に走ろうとするとはな」

「ち、違います! 偶然お会いしただけで……!」

「それにしては、随分と気安そうだったが」


 両の手首を敷布に縫い付けながら、鷹臣がかさねを見下ろしている。その目は震える程に冷ややかだった。

 しかし、瞳の底には燃え盛る焔を感じる――かさねを絡めとり焼き尽くす程に激しい、嫉妬の焔だ。

 思わず息を飲み、硬直してしまう。

 言いたい事はある。やましい事などありはしない。ただ見つけた血のつながりに心が和んだだけだ。

 けれどもそれも何もかも、激しい眼差しに封じられてしまう。


「暫く部屋から出る事を禁じる。燁子を含め、私以外の人間と接する事も」


 しばらくお前の面倒の一切はタキにさせる、と続ける鷹臣にかさねは言葉を紡げない。

 異を唱える事などできはしない。かさねにとって絶対の存在が怒りを露わにしている事に、ただ震えるだけ。


「足に枷でもつけてやればいいのか。……それとも、いっそ腱でも切ってやろうか」

「旦那様……」


 かさねの首筋に顔を埋めながら、何かに憑かれたかのように呟く鷹臣。

 肌に触れる感触に唇を噛みしめながらかさねは唯耐えるばかり。

 感じとってしまったからだ。鷹臣の怒りの影に過る感情に。狂おしい程の独占欲と……かさねを失う事への恐れに。


「お前は私のものだ。……私以外のものであるな……!」


 まるで縋りつくようにのしかかる重みを感じながら、かさねは悲しく思う。

 何故か、と思う。

 貴方は私の主です。私にとって世界の理に等しい、命運握る絶対の存在です。貴方以外のものである筈がありません。

 それなのになぜ、貴方はそんなにも私が自分から去る事を恐れているのですか。私が他を向く事をそんなにも……。


 自分が籠の中にあれば鷹臣は少しでも安心してくれるのだろうか。どうすれば、その心は平穏を得るのか。

 その為ならば、世界が閉じても構わない。

 何時しかそう思い始めている自分もまた、かさねは哀しいと感じていた……。

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