よひら様
燁子に客人があると聞いて、その間本を読みたいと思ったかさねは鷹臣の書斎に足を踏み入れていた。
鷹臣からは、書斎の本は自由に読んで構わないと許可を貰っている。
蔵書はかなり充実したものであり、鷹臣はかなりの読書家であるらしい。
ふと、ある本が目を引いた。今日の本はあれにしよう、と思いはしたものの。その本があるのは最上段であり、かさねは背伸びして精一杯手を伸ばすものの届かない。
何か台でもあればと思うが、長身の鷹臣には不要のものである為かそれらしいものはない。
それでも必死で伸びて跳んでし続けていれば、少しずつ背表紙に指が掠めるようになっていく。
そして、ようやく本に届いたかと思った次の瞬間、勢いよく棚から滑り落ちた。
いけない、と咄嗟に手を伸ばして何とか受け止める。どの本も大切な蔵書である。
如何に毛足の長い絨毯が敷いてあるとはいえ床に落としたくなどない。
安堵の息を零した瞬間、ひらり、と何かが本から滑り落ちた。
拾い上げようとしたかさねが、ふと凍り付いたように動きを止める。
かさねの伸ばした指の先に落ちているのは、栞だった。
少しばかり色褪せてはいたけれど押し花があしらってある、一目見て手作りと分かる拙い細工の栞。四枚の花弁を持つ、元は淡い蒼色だったと思われる……。
どうして、と声なき声でかさねは呻く。
脳裏に過るのは恥じらいながら母に栞と手紙を手渡す自分の姿。
あれは神様に捧げたのだ、ここにある筈がない。これが、この栞が、そうである筈がないのに……。
でも、私がこれを見間違える筈がない。これは、これは確かに……!
「どうした? かさね」
不自然にかがんだ侭でいたかさねの耳に、訝しげな声音の問いが聞こえた。
振り返れば、そこには鷹臣が立っている。
ここは鷹臣の書斎である。主である鷹臣が姿を現した事に不自然はない。
けれども、かさねの表情は強張ったままだった。
いつもであれば笑みの一つも浮かべて鷹臣へと向き直るのだが、今ばかりはそれが出来ない。
「旦那様……」
かさねは絨毯に落ちた栞を拾い上げると、それを鷹臣へと示した。
その瞬間、鷹臣の表情が僅かに揺れた。
平静であり表情を殆ど崩さない鷹臣の面に走ったのは、間違いなく動揺だった。
それをかさねは見逃さなかった。掠れかける声を何とか抑えようと試みながら、鷹臣へと問いかける。
「何故、この栞がここにあるのですか……?」
鷹臣は厳しい表情で唇を引き結んだまま応えない。
かさねは、戸惑いで揺れる裡を必死で落ち着けようと試みながら、問いを重ねる。
「これは、私が『よひら様』にお納めしたものです! それが何故……!」
問いの答えを待つかさねと、答えを与えようとしない鷹臣の間に沈黙が満ちる。
それは、重く、苦しい程であり……。
やがて、それを破ったのは低い鷹臣の言葉だった。
「……知人が寄越したものだ。それ以上は知らん」
「旦那様……」
何故か、嘘だ、と感じた。
知らない筈がないというのは身体の奥底から湧き上がる不思議な直感だった。
鷹臣は知っている。この栞が何故ここにあるのかを。知っていて、それをかさねに知らせまいと口を噤もうとしている。
更に問いたい気持ちはあるけれど、口答えをする事に対する躊躇いもまた大きい。
主がそうだと言ったのであれば、異を唱えるなど妾の身分で許されるものではない。
尚も何か言いたげな震える眼差しを遮るように顔を背けると、鷹臣は鋭い声音で短く告げた。
「出ていけ」
温度を感じさせない声で紡がれたそれは、明確にして絶対的な拒絶を含んだ命令だった。
鞭で打たれたようにかさねの肩が跳ねる。
申し訳ありませんと震える小さな声で呟くと、栞をもとのように本に挟みなおし、その本を近くにあった小卓に載せる。
そして、かさねは一礼して書斎を後にする。怯えて逃げる仔兎のように駆けていく。怖くて振り返る事など出来はしない。扉を潜ると、ただ一心に走り去った。
だから、かさねは知り得ない。
かさねが去った後、鷹臣が本を開いて栞を手にして、押し頂くようにして口付けた事も。
それがどれ程切ない表情であったのかも、かさねは知らなかった……。
一目散に駆けたかさねは、気が付けば庭の一角にある東屋に辿り着いていた。
休む事なく駆け続けたせいで息が上がっている。それを落ち着けるように息を整えながら、改めて先程の出来事を思い出す。
あれは……あの栞は、かさねが作ったものだ。
かつて、かさねが学び修めるのを助けてくれた不思議な『神様』に贈る為に。
誰が自分を助けてくれているのかを不思議に思って母に何度問いかけても、何処の誰なのかは教えてくれず仕舞い。
あまりにせがむかさねに対して、母は『よひら様よ』とだけ教えてくれた。
かさねには『よひら様』という神様がついているから、心配しなくていいのよ、と……。
よひら、というのが紫陽花である事は知れた。幼い頃は、本当に紫陽花の神様なのかもしれないと思ったものだ。
どうしてもお礼を言いたくて、ある年の紫陽花の時期に『よひら様』へのお礼の手紙を認め、押し花の栞を手作りした。
そして母がそれをお供えしてくれた。母は、きっと『よひら様』は喜んで下さっているはずと笑ってくれていた。
手紙の応えは終ぞかえって来なかったけれど、それ以来かさねは紫陽花の季節になると『よひら様』への手紙を認め続けた。
何時かお顔を見る事が出来ればいいと思いながら、不思議な『神様』にお礼を伝え続けた。
それが何故、鷹臣の書斎に……。
知人が寄越したと言っていた。けれども、鷹臣は何かを隠している。
知らないと言うのは多分嘘だ。疑うのはいけない事と思っても、かさねの裡の何かがそう告げている。
鷹臣は『よひら様』と知り合いという事なのだろうか。
かさねを助けてくれた神様が何者なのか、知っていると言う事なのか……。
『よひら様』とこの家に関わりがあるなど思いも寄らぬ事だった。
この家と母が、正確にいうと母の姉が繋がりあったのは事実である。
それは知っているし、恐らくかさねがこの家に買われた理由もそれ故だと思っている。
けれども、だからといって。
東屋の椅子に腰をおろし、俯いて深く考え込んでいたその時。不思議そうな響きを帯びた、朗らかな男性の声が聞こえた。
「……あれ? 君は誰? 見ない顔だね」
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