平穏にして不穏
破砕音と共に悲鳴が上がる。
視線の先では破片となった花瓶が中身の花を散らばらせながら転がっている。
若い女中が顔色を変えながら問いかけてくるが、寸でのところで避けて大事はない。
裡なる蝶がざわめいたのだ。これこそ虫の知らせというものかとぼんやり思いもする。
これは二階の踊り場に飾られていた花瓶である。確か舶来の高価な品であった筈なのに。それが階段下にいたかさねの上に落ちてきた。
女中達は大事な『胡蝶様』に何事かあったら如何しようと狼狽えるばかりであり、かさねは言葉を選び彼女達を落ち着けようとする。
同時に、気付かれぬように溜息を吐く。
花瓶があった場所からして風や重みで自然に落ちるとは思えないし、先程見間違えでなければ人影を見た。
このところ嫌がらせが頻発している。
鷹臣が外出の為にと贈ってくれた晴れ着が、外出当日に汚されて台無しにされていた。
タキが慌てて違う着物を着付けてくれた為事なきを得たが、鷹臣は怪訝そうな顔をしていた。
問われれば何があったかを知らせねばならない。そうなれば誰が何をしたかが鷹臣に知れてしまっただろう。故に問われなかった事にかさねは安堵していた。
誰の仕業かは分かっている。だが、かさねは何も言わない。その人物の気持ちが分かるからだ。
本来なら、その人物に傅かれるのは別の人であって自分ではない。
けれども命令故にそうしなければならない。面白くないのも当然だ。
ましてや仕える相手が、己より格下としか思えない卑しい存在であるならば。
聡いタキは気付いているようだが、かさねは口止めした。
自分のせいで罰を受ける人間を見たくないのだ。自分の氏素性や立場を考えれば、その人物の向ける感情や態度こそが自然なものと思うから。
タキは何か言いたげだったが、それ以上何も言わなかった。
自分以外に害が及んでいるならばかさねとて黙ってはいなかっただろう。だが、今の処被害はかさねだけに留まっている。
それならば負の感情を連鎖させるよりは自分で受け止めて断ち切ろうと思うのだ。
ただ、徐々に洒落で済まないものに変わりつつあるのが気がかりだが……。
暫し後、かさねは燁子と共に、中庭に面した温かな日差し差し込む部屋にて茶の時間を持っていた。
流れるような所作で茶を喫するかさねを見て、燁子がふと問いかける。
「かさね、お前は田舎で育ったのよね?」
「はい……。帝都からは大分遠く離れた山間の村です」
静かな手付きで茶の椀を置いて、怪訝に思うのを表に出さぬように気を付けながら応える。
かさねの素性についてはとうに知れているはずである。何故にそのような問いが今出たのかと不思議に思いながら燁子を見ると、首を緩く傾げた燁子が呟く。
「先生達が驚いていらしたのよ。それにしては立ち居振る舞いが洗練されているし、嗜みもあると」
「……その、田舎のものとはいえ……一応、町の女学校を出ておりますので……」
燁子が思わずと言った様子で目を瞬いた。
それもそうだろう。田舎の村育ちの、その日の暮らしにも苦労していた筈の娘が女学校など。
母は、父が要らぬと顔を顰めるのを気にせず、かなり無理してかさねを町の女学校まで通わせてくれた。
それだけではない、自身は古着を何度も繕うような暮らしをしながら、かさねに出来る限りの習い事をさせてくれた。
ただの行商だった父の稼ぎだけでは、食べていくだけで精一杯。到底、学費やら習い事の為の費用など出せるはずだがない。
けれど、母は言ったのだ。かさねには『神様』がついているのよ、と。
かさねが学び修める為の費用は、母からではなく何処かから直接学校や習い事のお師匠さんに渡っていたようだ。
どれ程問い詰められても、母は何処から齎されている援助なのか口を割らなかった。かさねには、不思議なご加護があるのだから、とだけ言って。
結果として、かさねは鄙には稀な程に教養ある娘に育った。
村においては学も教養も余計なもの。賢しい嫁などお断りなのに、ましてや『蝶憑き』ではと敬遠されてはいたが。
町の資産家から父親のもとへ、憑きものでも構わないから後妻に欲しい、或いは囲いたいという話が少なからず来ていたようだ。
しかし、その度に母親が恐ろしい剣幕でそれを止めていた。
一歩間違えばそのまま夫を殺しかねない程の勢いで詰め寄っていたのを垣間見た覚えがある。
母としては、成績の良かったかさねには上の学校に進んで欲しいと思っていたようだった。
だが父はそれを許さず、母の死を契機に続けていた稽古事を一切やめさせて、かさねを売る事を考えるようにになった。
そして、より金を積んでくれる相手を探している時に、鷹臣の遣いである紫園家の人間がやって来たのである。
どうにも破格の値をつけてくれたらしい。父は一も二もなく申し出を受け入れた。
「お母様は出来た方だったのね」
燁子が微笑みながら紡いでくれた言葉に、かさねは嬉しそうに笑いながら頷く。
母は、本当にかさねを愛し、大事に慈しんで育ててくれた。
かさねが、一つまた一つと学びを得て、芸事が上達する度に、涙を零して喜んでくれた。
病一つ娘にはさせぬと言わんばかりに守り支えてくれた母は、代償として己の命を削っていたのではないかと思う。
母は、かさねが女学校を卒業するのを見届けるようにして亡くなった。これなら顔向けができる、と透き通るような笑みを残して。
二人が静かな時間を過ごしていると、女中の一人が待っていた人物の訪いを告げた。
それは、かさねの芸事の先生である。今日は踊りの稽古の日なのだ。
かさねは何か願いをと言われて、途中で終わらせてしまった稽古事を再び修めたい、と願ったのだ。
燁子程の貴婦人になれるとは思わない。流石にそれが叶うと思うのは思い上がりにも程がある。
妾が望まれているのは主を慰める事であり、かさねが望まれているのは子を産む事だ。
それを理解した上で、願いが叶えてもらえるならば、とかさねは更なる学びと教養を求めた。
鷹臣はそれがかさねの願いであれば叶えてやれと、家庭教師や稽古事の師を手配するように燁子に命じた。
燁子は、驚きはしたが反対する事なく、むしろ積極的に手配を行った。
恐らく、かさねが稽古事に勤しむ時間が増えれば、鷹臣と過ごす時間が減ると思ったのだろう。
燁子はどちらかといえば教える方の立場である。理由をつけて同席する事は容易く、稽古の時間が増えれば自然な流れとして燁子との時間が増える。
勝ち誇ったような笑みを鷹臣に向けていたので、多分そういう事なのだろう。
専門的な学問を教える家庭教師だけではなく、お作法、琴、お茶にお花に舞踊の師匠が招かれた。詩歌は燁子が師である。
女中達は不思議そうに話しているらしい。『胡蝶様』は随分変った方だと。
どうせ先が見えているなら、溢れる程に与えられる贅沢に溺れて楽しく暮らす事だけ考えればいいのに、という事らしい。
かさねは学びたかった。そして自分を磨きたかった。
最後の瞬間に、誇れる自分であるように。
そして、せめて紫園家の主に……鷹臣の近くにあって恥ずかしくない程度の存在でありたいと思ったのだ。
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