歪な楽園
かさねの紫園家における暮らしは、溺れてしまいそうな、目の眩むような幸せに満ちたものだった。
燁子はかさねを大事なお気に入りの人形のように扱い、鷹臣は忙しい合間を縫っては僅かな時でもかさねを傍に置こうとする。
二人はまるで競うように、かさねに構う。
ほぼ毎日のように出入りの承認を呼びつけてはかさねを飾ろうとする。
部屋には庭師に命じて常に美しい花を飾らせ、料理人に命じては卓にかさねの好物を所狭しと並べさせる。
かさねが欠片でも顔を曇らせればその原因を躍起になって探し、小さな願いでも口にすればそれをすぐさま叶えようとする。
女中達はタキを始め、一人を除いて皆かさねをやんごとなき姫君のように丁重に扱う。
ふわふわと甘い砂糖菓子のような時間に、これは限りあるものと思っていても麻痺した脳裏が勘違いしかけてしまう事がある。
自分が本当に愛され大事にされているのだと、錯覚してしまいそうになる。
けれどもそれも、時折釘を刺すように為される『嫌がらせ』によって現に引き戻される事になるのだ。
始まりは子供の小さな悪戯のようなものだった。それが日々少しずつ直接的な悪意になりつつある。
かさねは、それが誰によるものか分かっていた。
影から向けられる憎しみに満ちた眼差しを感じれば、自ずと誰によるものかなどわかってしまう。
その人物は、燁子がかさねを慈しむ程に暗い光を強くしていく。それは、いずれ明るき世界を覆い尽くす程の黒雲となるような気がする……。
鷹臣は、かさねの喉元の徴が消えかけると、必ずかさねを部屋へと呼びつける。
そして、主が誰であるかを知らせるように再び証を刻みつけるのだ。
最初の宣言通り、確かに子を為すような事はない。けれど、かさねは身こそ未だ生娘のままでも、何も知らぬままではない。
吐息すら奪うような激しい口付けを。肌を伝い、そして触れる、少し冷たい唇や指の感触を。かさねは徐々に慣れ、受け入れるようになっていった。
折りに触れては、鷹臣はかさねに知らなかった感覚を刻みつけていく。かさねは拒絶できない。元よりそれは許されていない。
しかし、それ以上に気になるのだ。
言葉なくかさねに触れる鷹臣の瞳の奥に、焦がれたような、縋りつくような悲痛な光がある事に。冷静な表情が、哀しげに見える時がある事に。
そんな瞳をしないで欲しい。そんな顔をしないで欲しい。
秘め時を重ねる度に鷹臣へと手を伸ばしたくなる。酔うような感覚に浮かされながらも、触れたいと願ってしまう。
鷹臣という一人の男性を知りたいと願ってしまう……。
鷹臣の『証』は洋装ならば隠せるものの、和装では隠す事のできない場所に咲いている。
人の目に触れる場所にあるのだ、気付かれぬ筈がない。かさねを着せ替え人形のように扱う燁子には、当然その存在は知られている。
顔を歪めるけれど燁子は、かさねには何も言わなかった。抱いた負の感情を向ける先は、何故かかさねではないのだ。
燁子はかさねに洋装をさせたがる事が増えた。時折、白粉を胸元に塗られる事すらある。
その都度鷹臣と燁子が険悪な様子で口論しているのを見かける。大体はタキが二人を取りなして終わるのだが。
一年を待つ事もできないなど節操のないことと燁子が嘲るように皮肉をいえば、鷹臣は冷ややかにそれを見つめ返す。
夫は妻を厭い、妻は夫へ憎悪の眼差しを向ける。
反発しあう二人は、しかし揃って日陰の身である妾に不思議な執着と異質な愛情を向けてくる。
鷹臣にも、燁子にも、かさねは翻弄され通しなのだ。
夫と正妻、二人が齎す溢れる程の贅沢と愛に埋もれる歪な日々だった。
歪な日々を形作る要素は、もう一つあった。
「あの二人も不思議な夫婦だからねえ。まあ、断れぬ話でお互い本意では無かったらしい。この時代だから仕方ないのだけどね」
鷹臣が『死神』と語った青年は、溜息交じりにしみじみとした声音でそう紡いだ。
あの子は不器用だから、と語る声音にはまるで弟を想いやるような不思議な色が滲む。
ここは庭園の池のほとり。斎と初めて出会った石碑の前である。
かさねが二人の事を気にしているのを知ると、斎は語りだした。
鷹臣は断り切れぬ筋からの紹介で燁子を妻に迎えたが、その際に燁子の実家には多額の援助をする事になった。
それ故に、燁子は未だに自分を金で買った男、と鷹臣を倦厭する。
燁子は燁子で抱える傷があるし、鷹臣は鷹臣で抱える過去と思いがある。
それら故に反発しあい、あの二人は結婚後一度として心を許し合う事がないのだという。
妾を持てと迫ったのは、何と燁子の方であるという。あなたの子を産むなど命に関わらずとも嫌だと。
せっかくの縁で迎えた妻なのだから大事にすれば良いのに、と妙に屋敷の事情に通じている斎は肩を竦めた。
神妙な面持ちではあるが、手には豆大福があっては台無しである。
「伴侶を得られたのに無碍に扱うなんて。何てもったいない」
羨ましい、と恨めしそうに呟く斎へと、怪訝な眼差しを向けてしまうかさね。
溜息をつく死神が、心からの羨望を言の葉に滲ませているのを感じ取ったからだ。
「私はかつて、紫園の祖に願ったのだよ。願いを叶えてやるから、お前の血筋から花嫁をおくれ、とね。そして、願いが叶うまで、血筋に加護を与える約束をした」
大福を頬張りながら、死神と呼ばれる青年はおっとりとした声音で言う。
かさねは、自由にするのを許される時間で斎の元を訪れるようになっていた。
甘味に喜ぶ斎とは、不思議な茶飲み友達のような雰囲気ですらある。
初めて斎と出会った日の翌日、何と鷹臣は本当に斎のねだったどらやきを買って帰ってきた。
溜息をつきながら、あれに持っていってやれという命を受けたので持って行ってみれば、死神という物騒な肩書を持つ青年は満面の笑みを浮かべて喜んだ。
それ以来、斎はかさねに次はこれがいいと言ってくるし、かさねがそれを伝えれば眉間に縦皺を刻みながら鷹臣がそれを買って帰って来る。
渋面ではあったものの『あれ』と口にする声音には不思議な温度があった。
鷹臣は何処か兄弟に手を焼いているような様子であり、けして嫌と思ってはいないのではないかと思ってしまった。
かさねは二人の間に挟まれて奇妙な伝書鳩をしている状態である。
しかも、斎はかさねに一緒にお食べとおすそ分けをしてくる。
石碑の傍にある岩に並んで腰をおろし、斎とあれこれ話をしながら何がしかの甘味を喫するようになっていた。
斎の姿は鷹臣とかさねにしか見えないというなら、もしやかさねが独り言を言いながら甘いものを食しているだけにしか見えないのではないかと思う。
屋敷内では『胡蝶様』の好きにさせるように言い渡されているので物申す声はないが、水面下ではどうなのやら。
斎は豆大福を綺麗に食べてしまうと、大仰な溜息を吐きながらぼやく。
「しかし困ったことに、一向に女児が生まれてこないのだよ。私の願いは叶わぬまま。おまけにこの屋敷の敷地から出る事もできない」
願う花嫁となり得る娘は血筋に生まれてきていない。彼の願いは未だに叶っていない上に、外に探しに行く事も出来ないのだ。
斎は、かさねを自分の花嫁と言った。
花嫁を求め焦がれるあまり、かさねを目にして間違えたのだろうか。
もしくは、かさねがいずれ花嫁となる者を産むかもしれないから、それ故に……?
それにしても、とかさねは思う。この死神は、随分と屋敷の内情に通じているようだ。その眼差しを感じ取り、斎は笑って答える。
「私は、あの離れ以外の事なら……屋敷の事情なら、ある程度は教えてあげられるよ」
敷地内から出られない代わりに、屋敷の中については色々と見えるのだという。
ということは、まさか……と思うが、口に出来ない。
しかし、それを察したように下世話な物見はしない、と苦笑いされてしまう。
離れ、とは話にきいた妾が子を身籠った後に住まう事になる『終の棲家』の事だろうか。
何故、そこだけ斎の眼が届かないのだろう。何か暗い理由があるような気がしてならないのは気のせいだろうか。
「だから、代わりにあなたも色々と外の事を教えておくれ」
またの訪れを願う意味も込められた言葉を、かさねは無碍に拒否出来なかった。
のんびりと微笑んでいた斎の表情に、その時だけ寂しげな色が滲んでいたからだ。
その時だけ、何故か斎と鷹臣が似ている、感じた。
平素は全く異なる気性と空気を持つ二人であるのに。心の裡に、何かに焦がれ縋るこころを秘めていると感じるのだ。
次はカステラが食べたいという斎に背を向けて歩き出す。
斎がどんな顔をしてかさねを見送っているのかは分からない。けれど、かさねはカステラを手にしてまた彼の元を訪れるのだろう。
人ならざる存在を恐ろしいと思うのも事実。しかし、同じ蝶を宿す身である青年の手を振り払う事が出来ないのもまた事実だった。
現実と非現実が入り交じり。愛情と憎悪が入り交じり。溢れ、溺れてしまうような日々だった。
けれども、かさねは見失うまいと思う。自分がここに来た理由と、そこに至るまでに決めた心を。
例え贅に埋もれ大切にされていたとしても、人の道に背く身の上となってしまった事を母は嘆いているだろうか。
母の姉もまた、妾として子を産んで死んだと聞いている。
それを思えば、今ここに居る事に哀しい顔をするかもしれない。ましてや叔母と同じく子を産んで死ぬ未来が待っているのなら。
けれど、唯では死なない、とかさねは思う。
例え近い将来に終焉が見えていたとしても、そこまで精一杯生きていこう。
命を終える間際に、自分はやり遂げた、走りきったと笑えるような日々を送ろう。
そして、終わった時には母に笑って会いに行こう。
侭ならぬ生だとしても、居に染まぬのに選ばされた選択肢だとしても。
一度覚悟を決めて行くと選んだ道であるというならば。どのような境遇になろうとも、けして俯かず顔をあげて生きると。
――それが母と、そして『よひら様』との約束だから。
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