証を刻んで
幾分波乱含みだが、かさねの紫園家での生活が始まった。
鷹臣は帝国陸軍の参謀本部付の軍人である為、職務の為に家に居ない事が多い。
使用人達は皆、鷹臣を恐れている様子だった。誰に対しても冷淡な態度であるのは変わりない。
長身の美丈夫に怜悧な眼差しで見られれば大抵の人間は怯えるだろう。
鷹臣は何かとかさねと共に過ごす時間をとってくれる。
食事も妻である燁子ではなく出来る限りかさねととってくれるし、気塞ぎにならないようにと外に連れ出してくれもする。
あれは、鷹臣が帝劇で上演される歌劇を見る為に連れ出してくれた時の事だった。
偶にやってくる旅芸人の芝居を見るのが精々だったかさねは、初めてみた帝劇の天井の高い、眩い程の威容に目を見張った。
お上りのような真似はすまいと思っても気を抜けば釘付けになってしまった。
裾模様が艶やかな、絹の光沢が美しい特別誂えの着物で飾らせたかさねを連れて、鷹臣は当たり前のように特等の座席を用意させる。身に余ると固辞しようとも鷹臣が意向を変える事はなかった。
生まれて初めての観劇は、それは素晴らしかった。
しかし、妾を連れて歩く事で鷹臣の評判に関わりはしないか、という懸念をかさねは抱き続けていた。
それを裏付けるように、二人が姿を表せば眉を潜めて囁き合う人々が居る。しかし、鷹臣が意に介する様子はない。
人の目など気にする事なく、公の場でかさねをまるで本当の妻のように扱う。
本来燁子が居るはずの場所に立つことに対して負い目はある。けれども、当の燁子はというと……。
鷹臣が不在の間は、かさねはほぼ燁子と共に過ごしていた。
燁子はほぼ外出する事はない。用向きは出入りの商人に言いつけるし、観劇などもしない。鷹臣の妻として社交の場に出る事もない。
それは恐らく、燁子が仮面を着けている事に関わるようだ。
燁子はまるで妹か、或いは娘を甘やかすようにかさねに接する。
常に傍に置いて、美しい着物をとっかえひっかえに着せて。髪を優しく梳いたと思えば、甘い菓子を勧めてくる。
妹か何かというよりも、まるでお気に入りの人形のような扱いというのが正しいだろう。
目障りな妾を忌む気配は欠片もない。かさねを慈しむ様子は純真で無邪気ですらある。
古来妾に入れあげた夫が正妻を蔑ろにする事も、すげ替えてしまうことも多々ある事。
かさねに対して負の感情を抱かないのだろうかと疑問に思うのだが、燁子は楽しげに笑って言うのだ。
「だって、わたくしが探してと言ったのよ。うつくしい女を探してきて頂戴、とね」
どう答えて良いやら困るかさねへ視線を向けながら、燁子は続ける。
「お前の子はわたくしの子として育つのだから。美しい子の母は美しい女がいいもの」
ああ、とかさねは内心で息を吐いた。
確かに、かさねの産む子供は、将来燁子の子として育つ事になる。
それは、けして本妻のもとで養育するほうが良いから、という理由だけではない。
――その時、かさねはこの世に居ないからだ。
あまりに有名な話だった。
栄華を誇る名家である紫園家の当主の子を産んだ女は、今まで一人の例外もなく出産直後に死んでいる。
出産で生命力を使い果たしたかのように、子を送り出すのと引き換えるように世を去ってしまうのだ。
家を存続させる為には、一人でも多く子は欲しい。
しかし、正妻が子を遺してくれるとは限らないし、生まれたのが女児であれば家は継げない。
故に、紫園の主は大金で妾を買うのだ。
世には金で娘を売り渡す親も少なくない。それこそ、酒代の為にかさねを売った父のように。子を産めば娘が死ぬと承知の上で。
恐らく子をもうけるまでに一年の猶予を与えるのも、溢れるような贅沢を与えるのも、死にゆく女への慈悲だろう。
紫園の家は死神に呪われているのだ、と人は囁き合う。
呪いの力が宿る子供が母親の命を喰らって生まれてくるから、子を産んだ女は皆死んでしまうのだと。
かさねの脳裏に過るのは、先日邂逅した死神と呼ばれていた青年だ。
かさねを花嫁と言った不思議な男。かさねと同じように蝶を従える人ならざる者。
死神が紫園を呪っているというなら、斎は紫園の家を恨んでいるのだろうか。
自分は、斎に殺されるのだろうか。無邪気に甘味をねだる、人の好い青年にしか見えぬ斎に……?
いや、人ならざる者だとしたら有り得るのかもしれない。
人と人ならざる者は異なる理にて生きるもの。
たとえ微笑んでいても、一歩傍に近寄ればそこは深淵という可能性がある。花嫁と呼んだ相手の命を笑顔で喰らう事すら、もしかしたら。
不意に、頬に手が添えられる。
我に返って目を瞬けば、嬉しそうに笑う燁子がかさねの頬を両手で挟んでいる。間近でかさねの戸惑う様子を見つめながら、燁子は笑みを深くする。
「お前が気に入ったわ。わたくしの大事な形代として相応しいもの」
また、形代という言葉を燁子が口にする。厄を引き受ける人形と、嫣然とした笑みを浮かべながら正妻は続ける。
「大事な大事な形代よ。あの男という穢れを受けてくれる」
あの男、が誰か分からぬ程にかさねは愚かではない。
思わず息を飲んでしまったかさねを、燁子は白い二本の腕で引寄せる。
「あの男が手出しできるようになるのは一年の後ですもの。それまではお前はわたくしの大事なお人形」
かさねを抱き締めながら、上機嫌な燁子が歌うように囁く。
視界の端で、こちらを険しい表情で見据える者がいる。あれは、女中の忍だ。
時折燁子を憧憬の眼差しで見つめていると思えば、かさねに対しては憎悪ともとれる激しい眼差しを向けてくる。
視線があえばすぐさま感情籠らぬものに変えるけれど、刹那であっても向けられる負の感情に気づかぬかさねではない。
好意と悪意、同時に二つの感情を受け止めて身を固くしてしまった、その瞬間だった。
「いい加減にしろ。……かさねはお前の玩具でない」
冷たい声音で淡々と紡がれた言葉が耳を打つ。
そちらを見遣れば、帰宅した鷹臣が険しい眼差しを此方へ、否、燁子へ向けている。
鷹臣はかさねと燁子の距離の近さに明確に眉を寄せると、かさねへ命じる。
「かさね、来い」
低く呟かれた言葉を聞けば、弾かれたようにそちらへと向かおうとする。けれど、それを燁子の腕が絡みつくように阻んだ。
「お前はわたくしと一緒に居ればいいの」
「燁子!」
切り裂くような鋭く厳しい声音で鷹臣は叱責する。
蒼褪めたかさねの肩は跳ねるけれど、燁子は全く動じない。寧ろ負けじと睨み返している。
この屋敷へ来てから僅かとはいえ、分かった事はある。
燁子は夫である鷹臣を嫌悪している。いや、嫌悪などという易しいものではない。燁子は……夫を憎悪している。
朧げに聞いた話では、燁子は政治的な意味合いで嫁いで来たらしい。
だが、それは珍しい話ではない。何故にここまで鷹臣を疎んじるのか。
「いい加減にしろと言った。……弁えろ」
女中頭のタキが、蒼い顔で燁子に何事か囁いている。恐らく逆らってはいけないといった内容だろう。
目に見えて燁子の顔が歪んでいく。けれども、燁子はそれ以上逆らおうとはしなかった。
かさねを解放した燁子にそれ以上目もくれず、鷹臣はかさねを促して足早に歩き始める。
やはり小走りになりかけながら必死についていき、辿り着いたのは鷹臣の居室である和の空間だった。
鷹臣は暫く無言でかさねに背を向けていたが、おもむろに振り返る。
ぶつかった眼差しに、かさねは思わず身を強ばらせる。そこには、暗い焔が宿っていた。
「燁子に随分良い様にさせているようだな」
聞くだけで怯えを呼び覚ます声音に、蒼褪めたかさねの顔から、更に色というものが失せる。
何か答えを返さねばならないと思っても、口の中が渇いて痛い。
言葉がうまく紡げない。それでも何とか、と己を叱咤して。漸くかさねは口を開く。
「せっかく奥様がお心遣いをして下さっているのに、お断りするのは……」
何とか絞り出すように紡いだ言葉は、酷く掠れてしまっていた。視線を合わせる事が出来ず俯いてしまう。
それに対して鷹臣の言葉はない。重苦しい沈黙がその場に満ちて、かさねは更に身を強ばらせてしまう。
ふと、空気が動いた気がした。
何がと思い顔をあげようとした瞬間だった。
「……お前は、誰のものだと言った?」
不意に腕をとられて強くひかれたと思えば、身体に強い衝撃を感じた。
背を打ち付ける感覚に、咄嗟に息が出来ずに目を見開く。
混乱したままの視界は、映る景色を一転させていた。
天井が見える。背には畳の感触と香りがある。そして、視界を覆い尽くさんばかりに自分にのしかかる鷹臣が居る――。
何をと問いを口にする。否、しようとしたが出来なかった。
音は音として紡がれる事はなく、息も何もかも鷹臣に吸い取られてしまっている。
自分が今、鷹臣によって押し倒されているのだと、そしてその唇によって口を塞がれているのだと。置かれた状態を認識できたのは、一瞬たってからだった。
信じられずに目を見開いていたが、直に苦しさにかさねの表情が歪み始める。
空気を求めて口を薄く開いた瞬間、唇の隙間から差し込まれるぬるりとした感触に全身が強ばる。
口腔内を蹂躙される初めての経験に、ただ怯え、凍り付く。
逃れたくて身悶えしかけたが、すぐに止める。何故なら、かさねはその為にここに居るのだから――。
漸く解放されて、熱に浮かされたような表情で空気を求めて喘ぐ。
目尻に涙を浮かべながら荒い呼吸をしていたかさねは、自分がいまどのような姿か……ひどくあられもない姿である事に気付く。
咄嗟に膝を閉じようとしても出来なかった。
はだけてしまった裾から割り込むように差し込まれた鷹臣の膝がそれを阻むのだ。
両の手は戒められて自由にならない。背に感じる畳の感触がひどく痛く感じる。
かさねは自らに馬乗りになっている男に対して、思わず狼狽えた眼差しを向けてしまう。
確かにかさねは子を産むために、と買われた身だ。求めがあれば受け入れなければならない。
だが、子を為すのは一年の後だと言っていた。それまでは何もしないと言っていたのに、と見上げた先で見下ろす鷹臣と視線が交わる。
「子を為さずとも、快楽を教え込む術はいくらでもある」
ゆるりとした動作で、かさねの両腕を頭上に一まとめにする鷹臣。
かさねの両手首を軽く戒める手は、鋼のようにびくともしない。
抵抗すら叶わず小刻みに震える白い喉元から乱れた胸元へと、殊更ゆっくりと一筋を描くように指でなぞる。
何か身体の奥から生じるような覚えのない感覚に、声を出さないようにと唇を噛みしめたかさねの身体が僅かに跳ねた。
悲鳴を上げそうになるけれど必死で耐える。
拒絶は許されない。未知の感触にも恐怖も、怯える事も許されない。これは、かさねにとって世界の全てである人から齎されているものだから。
「刻み込む必要があるのか。……己が誰のものかを」
弾かれたように見上げたかさねはそのまま凍り付く。
気付いてしまったのだ。平素冷淡な表情に滲む、自分以外の者がかさねに触れた事対しての激しい怒りに。そして、怜悧な眼差しの奥に潜む熱に。
だんなさま、と思わず声にならぬ声で呟く。
食べられる、それがかさねの裡を支配した想いだった。肉食獣の前に差し出された獲物は、こんな心持ちだろうか。
逃げたいと思うのに逃げられない。それをしてはいけないからではない。
獰猛にかさねの髄まで求めようとする意思を感じるのに、ただ魅入られたように目を見張ってしまって動けない。
かさねの裡などを知らぬ振りで表情一つ変えず、鷹臣はかさねの喉元へと顔を近づける。
食いつかれるかと思ったかさねは、思わず目を瞑ってしまう。
けれど、舌先でなぞる感触の後に生じた一瞬痛みだけを残して鷹臣の顔は離れ、次いで彼はかさねの両腕を解放して身を起こす。
頬を紅潮させたまま潤んだ瞳で見上げるかさねを見つめる鷹臣の表情がほんの一瞬だけ歪んだように思えた。
「……お前は私のものだという事を忘れるな」
吹雪を思わせる声音で鋭く告げると、すぐさま顔を背ける。
刹那に見えた横顔には、複雑な苛立ちが滲んでいるように見えた……。
鷹臣はかさねを残してその場から去った。
倒れたまま呆然と消えていく姿を見つめていたかさねは、暫くして漸く上半身を起こす。
そのまま崩れてしまいそうになるのを必死で堪えながら、無意識に喉元に手をやる。
鷹臣の唇が触れた場所が酷く熱くてしかたない。乱れてしまった襟元と裾を直そうとするけれど、手が震えてしまう。
おそろしい、と思った。身体を暴かれる事がではない。それは何れと覚悟していたことならば、それは理由ではない。
自分の中に得体の知れない何かが鎌首を擡げた気がする。それはかさねの意思とは関係なく、何かを求めて蠢く。
あの怜悧な瞳に、何かを見出してしまいそうになる。触れたとしても何れ終わるというのに、手を伸ばしてしまいそうになる……。
――白い喉元には、紅い華が咲いていた。
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