斎
部屋から出るまでは良かったが、どうしたら庭に出られるかで幾分戸惑った。
通りがかりの女中を一人捕まえて、庭にでられる出口を教えてもらう。
実際にその場に身を置いてみれば、実に見事な庭であると改めて思い知る。
重厚な緑から若い緑へ色彩の層を為す中、華やかな色に淡い色が調和する絵画のような光景。
さぞ庭師が丹精しているのだろうというのがしみじみと感じられる庭を歩んで行けば、水面に空を映す池のもとへ辿り着く。
その池のほとりに建てられた石碑の傍に、人影があった。その人影は、かさねに気が付くと微笑み浮かべて手招きしてきた。
いや、人なのだろうか、とかさねは思った。
青みを帯びた銀色の髪に瞳の、見た目だけで言えば三十歳程に見える青年だった。
ただし、その容貌は到底普通とは言えないが。稀な色彩を身に宿して居る事に加えて、人には許されざる美しい容貌である。
人とは……この世のものとは思えぬほど浮世離れした美貌の持ち主だった。
青年は、かさねを見ると無邪気とも言える笑顔を浮かべて言葉を紡いだ。
「ああ、あなたが私の花嫁だね」
かさねは思わず目を瞬いた。
かさねはこの不思議な青年に会うのは初めてだ。それなのに花嫁も何もある筈が。
「……私は、貴方の花嫁などでは……」
怪訝そうな眼差しを向けてしまうのはどうにもできない。
呻くように低い声で、かさねはかろうじてそれだけをまず口にする。
確かに顔も見た事もない相手に嫁ぐ事は珍しい話ではないが、かさねがこのお屋敷に来る事になった理由は一つだけなのだ。
おや、という風にきょとんとした表情を向ける美貌の青年に対して、かさねは表情を引き締めて言葉を絞り出す。
「私は、紫園家の旦那様の……鷹臣様の、妾、です……」
「鷹臣の」
きょとんとした様子で呟かれた言葉に、かさねはまたも目を見開いた。
紫園家の当主である鷹臣様を呼び捨てにするとは、この男は一帯何者なのだ。
人ではない事は確かである。だがそれ以上の繋がりが分からない。
何故ここにいるのか、そして紫園家にとってどんな存在なのか。
相手という存在を計りかねて身構えたままのかさねを見て、男は困った様に首を傾げた。
そして、かさねを指で示すと微笑んだ。
「けれど、貴方は『証』を持つ者だ」
男が言った次の瞬間だった。男の言葉に呼応するように、その変化は生じた。
ふわりとかさねの髪は着物の袖が何かに煽られるように揺れる。
かさねの身体のうちから湧き出るように、銀色の淡い光を帯びる青紫の蝶が飛び出したのだ。
蝶達はかさねを守るように彼女を取り巻き、光の粉を散らしながら飛び回る。
何故、とかさねは顔を歪める。このところこの力は表れる事なく過ごせていたのに、と心の中にて呻く。
守るように飛び回る不可思議の蝶。これが、かさねが郷里で『蝶憑き』と呼ばれて忌まれた理由だ。
幼い頃から、かさねに危害を加えようとする者があると、この不思議な蝶が現れて相手を攻撃する。
災難に見舞われると、この蝶達がかさねを救う。
苛めてきた子ども達も、不埒な行いをしようとした男達も、皆この蝶に追い払われた。
国が開かれ暫く経つとしても、未だ迷信は根強く残る。それが都会から離れた田舎であれば尚更顕著。
不思議な蝶に守られたかさねを、村の人々は『蝶憑き』の化け物と疎んじた。
かさねを守るけれど、けして意のままには出来ない蝶たちは腹立たしい程に美しい姿で飛び回る。
それに目をやりながら男は更に続ける。
「その蝶は、私の花嫁の証なのだから」
何時の間にか男の周りにも蝶が現れていた。
かさねの周囲に舞う蝶と同じ不思議な燐光を帯びた青紫の蝶は、かさねの蝶と誘いあうように戯れている。
風が吹き、男の蒼銀の髪を揺らす。
燐光の中に佇む妙なる色彩の男はあまりに美しい。美しすぎて、あまりにこの世のものではなさすぎて、恐ろしい……。
息を飲んだかさねが、言葉を紡ぐ事出来ずにただ立ち尽くしていると。
「かさね!」
暗雲を切り裂く雷鳴のような叫びが聞こえたと思った瞬間、強い力で腕を捕まれた。
何事と思ってそちらを見れば、必死な形相の鷹臣が何時の間にかその場に現れていた。
息を切らせている様子から見ると、何処からかはわからないがここまで駆けてきたのだろう。
腕を取られたと思えば、かさねは鷹臣の腕の中に引き寄せられていた。
鷹臣の鼓動と温かさを感じて、かさねの鼓動が走る。
かさねを抱き締めると、鷹臣はそのまま厳しい声音で男に問う。
「何をしていた、
「何をと言われても、彼女は私の花嫁だろう?」
斎と呼ばれた男は、問われた言葉にのんびりとした口調で返す。
きょとんとした表情が、特に含みなどない、言葉のままだと言いたげである。
鷹臣の表情に苛立ちが滲む。それでも、努めて冷静な声音を作り鷹臣は斎へと告げる。
「かさねは今日この屋敷にきたばかりだ。……まだ、一年たっていない」
「ああ……それなら仕方ないね」
二人が何のやり取りをしているのかはわからないが、かさねは鷹臣の手が僅かに震えている事に気付く。
それは何故か、怒りか、それとも恐怖か。
わからない、何も分からない。
かさねを花嫁と呼ぶ斎という男の言う事も、男に対して警戒心を剥き出しにかさねを守る鷹臣も。
分からない事は恐怖であり、足元がぐらぐらと揺らいでいるような気さえする。
確かなのは自分を抱き締める鷹臣の腕の温かさと感触だけ。
斎が息を吐いて苦笑いをして、すまなかったねと呟いた。
険しい表情は消さぬまま、鷹臣は暫し沈黙した後にかさねを腕から解放し、斎へと背を向けて歩き出す。
かさねがそれに続くべきかと思案していると、斎が呑気な声音で鷹臣へと声をかける。
「ああ、鷹臣。双華堂のどらやきが食べたい。今度買ってきておくれ。そうだ、どうせならかさねに持たせて寄越して……」
「忘れていなかったらな!」
斎の言葉を遮るようにして叫ぶと、鷹臣はかさねの手を引いて歩き出す。
手を引く力が強くて、引くというより半ば引きずるようなものであった為に逆らう術などなく、かさねは鷹臣に続いてその場を後にする事になる。
背に、不可思議な男の眼差しを感じ続けながら。
鷹臣は暫くの間無言で足早に歩き続けた。長身の鷹臣にそう歩かれれば、かさねはほぼ小走りにそれに続くしかない。
やがて、庭への出入り口の扉が見えてきた時、鷹臣がふと歩みを止めた。
少し息があがりかけていたかさねは、声が上ずらないように気を付けながら口を開いた。
「あの、旦那様……?」
あまりの鷹臣の剣幕に、不興を買ってしまったかとかさねは怯える。
もしや、庭は立ち入りに許可が必要だったのか。または立ち入りは禁止されていたのか……。
不安を抱きながら鷹臣の背を見つめていると、鷹臣はやっと手を話してかさねに向き直った。
「何故あの場所に居た」
叱責と思える厳しい声音で短く問う鷹臣。かさねは打たれたように肩が跳ねあがる。
しかし、答えねばと己を裡にて必死に叱咤して答えを紡ぐ。
「窓から見かけて……気のせいかとも思ったのですが、気になって……」
与えられた部屋の窓から池のほとりにある石碑の傍に見出した影が、どうしても気になってしかたなかった。
気のせいであるならそれでよかった。しかし、足を踏み入れた場所で斎と出会ってしまった。
かさねは震えかける声を抑えながら、必死に申し開きをする。
黙してそれを聞いていた鷹臣が、大きく嘆息する。
「やはり、お前にもあれが見えるのだな……」
あれとは斎の事だろう。見えるのだな、という事は斎を見る事が出来る人間は限られていると言う事なのだろうか。
それも不思議ではない。あの人ならざる彩と美しさを、そして不可思議な蝶を従える男は恐らく人間ではない……。
ただ『やはり』とはどういう事だろう。まるでかさねが斎を見る事が出来ると予め分かっていたような言い方だ。
僅かに蒼褪めたまま口を噤んでしまったかさねを見て、鷹臣はもう一度溜息を吐いた後に、低く呟いた。
「あれは……『死神』だ」
不吉な響きを帯びる言葉に、かさねが思わず目を見開く。
怯えの入り交じる眼差しを受けながら、鷹臣は斎がいた方角……池のほとりの石碑の方角を見据えながら続けた。
「お前も、この家に纏わる噂は耳にしているだろう。あれは、この家の加護の源であり……呪いの源だ」
噂、の言葉にかさねの身体が強張る。
無論知っている。そしてそれ故に自分がそう長くない事を悟っている。
けれど、それを面と向かって鷹臣に……紫園家の当主である男性に口にするのは憚られた。
口籠った様子にかさねの葛藤を察したらしい鷹臣は、それ以上は噂について追及する事はなかった。代わりに、斎についての説明を重ねていく。
「元は旧い土地神であったというが、それ以上は分からない。蝶を従え、不可思議な刀で身体から断ち切った魂をあの世へ導くらしい」
かさねの身体が目に見えて跳ねる。蝶、の言葉に反応したのだ。
鷹臣はあの場に現れた。かさねが不可思議の蝶に守られ佇んでいた場所に。かさねの『蝶憑き』の所以を見られてしまったのだ。
誤魔化すには、あれは斎の蝶だと言えばいい。けれど、斎が蝶を従えると知っているならば、何故かこの人は見分けて見せる気がする。斎の従える蝶とかさねの蝶を。
嘘を口にしたところで鋭い眼差しでかさねの裡を穿ち、真実を射すくめるだろう……。
暫し沈黙していた鷹臣は、蒼褪め言葉を失ったままのかさねに対して落ち着いた声音で告げる。
「全て承知の上でお前を迎えた。だから怯えなくても良い」
かさねは思わず目を見開いて鷹臣を見た。
知っていたと、今この人は言ったのだ。かさねが『蝶憑き』と呼ばれる不可思議な力を持ち合わせる事も、周囲から忌まれる存在であった事も。
確かに、少し人に探らせれば分かる事実である。鷹臣が知っていても不思議はない。
けれども、それを知ってもなおかさねを迎えてくれたというのか。
仮にも己の子を産ませる女が不吉を背負って居る事を気にしないというのだろうか……。
「私はお前と定めた。それ以上は必要ない」
不安と戸惑いの入り交じる視線を向けてしまったけれど、それを受け止める鷹臣は平然としていた。
先程までと変わらない、冷淡とも言える様子。
けれど、ほんの少しだけ温かく、どこか哀しい響きを帯びている気がした。
鷹臣は部屋まで送ると言って、今度は突然手を引くのではなくて、手を差し出してくる。
まるで対等な貴婦人でも扱うような丁寧な仕草に気後れしてしまう。
しかし、一瞬の逡巡の後差し出された手にそっと手を重ねる。無言のまま鷹臣に伴われてかさねは歩き出す。
――刺々しい女の眼差しがかさねの背に向けられていた事を、二人は気付かなかった。
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