『胡蝶様』

 燁子に先導されて、かさねは母屋の洋館部に足を踏み入れる。

 名の有る建築家に設計を依頼して、資材も一級の物を使って建てられたという建物は、細部に至るまで細かい意匠が施されている。

 煌びやかな天の上の世界に迷い込んだ気がする。酷く自分が場違いに思えてならない。

 鼻歌さえ歌いそうな程に機嫌よく燁子は大階段を進み、踊り場のホールからごく当然のように二階を示す。

 かさねは驚愕して、震える声で問いを紡いだ。


「お、母屋にお部屋を頂けるのですか……?」

「身籠る前なのに離れに置くなんて寂しいじゃない。日当たりのよいお部屋を用意したのよ」


 上機嫌に微笑みながら燁子が応えると、思わずかさねは目を見張ってしまう。

 何度目かわからない「有り得ない」を裡に呟く。

 そもそもが、妾が母屋に部屋を貰えると言う事が有り得ない。

 妾と同じ屋根の下で寝起きするのを良しとする正妻もまず居ないし、世間に眉を顰められる不道徳を良しとする主人もそう居ない。

 てっきり敷地内にある離れの一つでも与えられるかと思っていたが。


「……身籠る前は……?」

「身籠るまでは屋敷で過ごすの。身籠った事が分かってから、離れに移って子を産むの」


 母屋で暮らす事は確定らしい。少なくとも子が出来るまでは。

 燁子の話によると、子を身籠った後に過ごす為の離れが用意されているらしい。

 ああ、そうか。かさねは心の内にて頷く。

 恐らく『穢れ』を母屋に持ち込まない為だろう。伝え聞いていた噂と合わせれば、その事実はすんなりと腑に落ちた。

 成程、そこがかさねの『終の棲家』となるのかとぼんやりと思う。それまではこの御殿のような母屋に住まわせて頂けるらしい。

 燁子はかさねに言うと、傍らの老女に問いかける。


「そうよね? タキ」

「そうでございます。代々『胡蝶こちょう様』はそうしてお過ごしになられました」


 老女は紫園家の女中頭のタキと名乗った。

 何でも先々代の頃から紫園家に仕えており、紫園家の生き字引とも呼ばれる人物であるとか。

 当主でさえも頭が上がらないのよ、と他人行儀に夫を呼ぶ燁子は笑っていたが、当の本人はそんな事は御座いませんと謙遜するばかり。

 ふと、気になる言葉がタキの言葉に含まれていたことに気づいて、かさねは疑問の声をあげる。


「……『胡蝶様』……?」 


 思わず表情が強張りかける。

 田舎の村で呼ばれた忌み名が既に伝わっているとういことだろうか。自分が不吉な『蝶憑き』であることが、既に知れて……?

 黙り込んでしまったかさねを見て、タキは安心させるようににこやかに微笑むと説明してくれた。


「紫園家ご当主がお世話をする女性は『胡蝶様』とお呼びするのが習わしです」

「この家にとって、蝶は吉兆なのですって」


 タキによると、紫園の祖である男性の妻が胡蝶という名だったらしい。

 腕の良い人形師であった祖が熱愛した、それこそ人形のように美しい女性だったという。

 彼女が歩く度、その腕を動かす度、美しい蝶が彼女の周りに集い舞った。

 夢幻のうつくしさを紡いだ女性にちなみ、代々当主の妾を『胡蝶』と呼び、大切に扱う習わしなのだとタキは語った。


「お前にはとても似合う気がするわ。蝶の着物が良く似合っていること」


 言われて漸く、用意された着物が蝶の意匠であった意味を知る。

 いずれ蝶を冠して呼ばれる事になるからこそ、蝶の着物を誂えさせたのか。

 てっきり不吉な謂れが知られていたのかと思って身構えていたかさねは、思わず心の中で安堵の息を吐く。

 あの事が知れて、憑きものの妾など要らぬと追い出されたらどうしようという懸念があったのだ。村に戻ったところで、今度こそ遊郭に売られるのがオチだろう。

 かさねの内心の葛藤など知らぬ顔の燁子は、長い廊下を抜けた先にて立ち止まり、ここよ、と笑いながらとある扉を示す。

 扉からして精緻な細工がなされた一枚板の立派なものである。

 どれほど立派な部屋なのか、と先程までとは違う懸念を抱きながらタキの開いてくれた扉を潜り、部屋へと足を踏み入れる。


「お前はうつくしいのだもの。美しいものに囲まれて過ごして欲しいと思って」


 燁子の声が遠くに聞こえそうなほど、意識が消え失せかけた。

 別世界、それが脳裏を埋めつくす言葉だった。

 目の前に広がるのは、幼い頃に母が語り聞かせてくれたおとぎ話にでも出てきそうなほど、現離れした美しい部屋だった。

 豪華ではあるが下品さはまったくない。上質なものが奏でる調和による美しさがあった。

 暖炉まである立派な居間に、続きの寝室には、天蓋のついた寝台。それに小さいながらも衣装室まで。

 壁紙も緞帳も、敷かれた毛足の長い絨毯も。置かれた様々な調度類も、今までお目にかかった事のない上等な品だ。

 居間の張り出した硝子窓からは一面に広がる庭園が一望できる。

 何もかもが目の眩む程の贅を尽くした品であるが故に、部屋全体が眩く思える。

 椅子一つとっても、背や肘や脚には黒漆に金蒔絵、張られた布には西陣織。腰を下す度に緊張で強張りそうである。

 部屋の中央に置かれた円形の卓にいたっては金の象嵌で飾られていて、怖くて上に物を置きたくないと思う程だが、そこにはうず高く箱が積み上がっている。

 調度類は全て蝶の意匠で統一されていて、これが既にある品を集めて来たのではない事を告げている。どう見ても、それ相応の名人に頼んで作らせたと思しきものばかり。

 思わず、錆びついた人形のような動作で燁子とタキを見てしまう。

 これは、女主人の部屋であると聞いても納得してしまう程見事な設えだ。

 本当にいいのか、と狼狽えて言葉も出ないかさねを見て、燁子は気に入らない? という風に哀しげに眉を寄せる。

 とんでもないと慌てて礼を伝えると、燁子は再び笑顔になり続けて卓に載る箱をタキに命じて一つ一つ開けさせる。

 かさねは、更に息をする事も忘れてしまう。

 肌着に襦袢に帯。小物類に草履に、無論着物が数点。更には、洋装用の下着や小物にドレス。それに合わせた装飾品の数々。

 普段着にと示された着物は、どう考えても晴れ着に相当するような高級品だ。

 かさねのいた村ではそれこそ祝言の時にも着られるかどうか。

 装飾品の一つとっても、売れば郷里の村の人間がどれだけの間暮らしていけるか。

 傷んだらすぐに新しいのに変えますからねと言われて、有難いより先に冷や汗が出た。

 燁子は楽しそうに、出入りの呉服屋や仕立屋を呼ぶから、お前により合うものを作りましょうと言う。

 何かが違う、どころではない。

 余りに煌びやかで眩くて、もうあまりにも何もかもが有り得ない。度を越すどころではなく有り得ない。想像もしなかった贅沢がここにある、というだけではない。

 かさねは、何度も確かめるがあくまで妻ではなく、妾の身である。

 が、そのかさねに対して正妻である燁子は満面の笑みで、目も眩む贅沢を当然のように与えてくる。まるで、かさねが大切なもののような態度であり心遣いである。


「奥様。胡蝶様も今日はお疲れでございましょう。夕食までの時間、少し御くつろぎ頂いた方が良いのでは?」

「ああ、そうね。少しお休みなさい。夕食の時間にはまた知らせをやるわ」

「あ、ありがとうございます……」


 タキに促されると燁子は口元に手を当てながら、いけない、と呟く。そして頷いた後に微笑むと、タキを伴い部屋を後にした。

 取り残されたかさねは、彼女らの姿が消えた途端その場に糸が切れたように座り込む。

 それなりに大切にされるとは思っていたが、あくまで『それなり』にだ。

 ここまで……こんな女主人のみ許されるような扱いが与えられるなど、当然ながら予想していなかった。

 正妻である燁子に甚振られたとて文句の言えない立場である筈なのに……。


「……形代……」


 燁子はかさねを称して『形代』といった。わたくしの形代と。

 あれはどういう意味なのか。

 形代とは厄を引き受ける人形の事である。

 かさねは、燁子の厄を引き受けるものなのか。ならば、その厄とは。

 かさねが燁子に代わりする事といえば、子を産む事だ。その事実と燁子と鷹臣の様子を思い出せば、少しずつ見えてくることはある。

 その時、少しばかり乱暴に扉を叩く音がしたのが聞こえて、かさねは弾かれたようにそちらを見た。

 慌てて立ち上がるのと、応える前に扉が開かれたのはほぼ同時。現れたのは若い女中だった。年の頃はかさねよりも少し上といった辺りだろうか。

 女は、燁子の命にてかさね付の女中となった者だと名乗った。名をしのぶというらしい。

 お着物を仕舞うように仰せつかりました、と忍はてきぱきと手早く積み上げられた品々を片づけていく。

 手伝おうかと申し出たものの。


「ああ、貴方様はお触りにならないで下さい。どうせ今まで縁もなかったお品ばかりでしょうし」


 棘を隠そうともしない物言いに、成程、とかさねは心に呟く。

 忍は恐らく、かさね付となった事を快く思っていないのだろう。

 正妻の命令だから仕方なく世話を焼いているけれど、かさねに向ける眼差しには蔑みがありありと見える。

 かさねにそれ以上口を挟ませることなく、無言の圧を以て忍は作業を進め、そして用は済んだとばかりに背を向けた。

 ツンと突き離すような後ろ姿を見せながら、忍は口を挟む暇も与えずにそそくさと部屋を後にする。

 消えた忍の、慇懃無礼とも言える態度に、かさねはむしろ安堵すら覚えていた。

 ようやく『普通』の対応に出会った気がする。世間一般的には、主の妾に対する態度としては忍の示したものの方が正しいのだ。

 今度こそ、煌びやかな部屋に一人取り残されるかさね。

 この部屋で自分が暮らすのだという事に、あまりに現実味がない。

 けれども、と気を引き締める。自分は役目を果たす為に買われてきたのだ。それを弁えなければならない。

 そして、忘れてはならない。どれほど溺れるような贅沢を与えられようと、所詮『一年』の幸せなのだということを。


「……『胡蝶様』、か……」


 『蝶憑き』と忌まれていたものが『胡蝶様』と呼び尊ばれるようになったなんて皮肉だな、と思う。

 一つ溜息を吐きながら、かさねは出窓から庭を見下ろす。

 庭には多くの花々が咲き誇り、教えられた通りに大きな池もある。

 池のほとりには石の碑が立っている。あれは何のために建立されたものなのだろう。


「あれ……?」


 戸惑いの声をあげるかさね。

 最初は気のせいかと思った。続いた衝撃に気の迷いが見せた幻かと思ったが、どうにも違うようだ。

 石碑の側に、男が立っている。

 屋敷の人間かと思うけれども、何故か違う気がする。風にそよぐ長い髪が不思議な色合いを帯びている気がする。

 長身の男は、こちらを見て笑ったような気が……。

 かさねは窓から離れると、扉へと歩き出す。

 何故か不思議とあれは誰かと確かめたくてたまらなかった。

 気のせいと片づけられない事を不思議と思いながら、かさねは足早に部屋から出た。

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