戸惑いの邂逅
「顔を上げろ」
満ちた暫しの沈黙の後に、鷹臣の感情を伺わせぬ平坦な声音がそれを破る。
声をかけられてゆるやかにかさねは上身を起こし、鷹臣と視線を合わせた。
触れれば忽ち凍り付いてしまうのではという程に冷徹な眼差しに、手が震えかける。
けれども、その奥にある何かが震えを止めるのだ。美しくて恐ろしい。でも、何故か惹きつけられてしまう。
かさねが心の内で不思議と思いながら次の言葉を待っていると、鷹臣がゆるりと口を開いた。
「……お前の役目は分かっているな?」
「承知しております」
かさねは手をついたまま、一度頷く。緊張が隠せぬままであっても、鷹臣から眼差しを逸らさずに。
その様子を見て一度言葉を切った鷹臣だが、すぐに続きを紡ぐ。
「……ならば良い」
正妻に代わり子を産む女を求めてやってきた、と紫園家の使いは言っていた。……厳密に言うと、了承したのは父親ではあるが。
かさねはその為に大金と引き換えられ、こうして飾り立てられ此処に居る。もはや逃げる術も逃げる先もない。覚悟は定まっている。
胸の内に悲痛なまでの決意を呟いた時、思いもよらぬ言葉が耳に飛び込んできた。
「ただし、子をもうけるまで一年を置く」
思わず疑問の声を上げかけたのを必死で飲み込んだ。
この人は跡継ぎを求めているはずだ。それは一日も早い事が望まれるのではないか……。
問いを口にしようとしたが止めた。それは主の意思を疑う事だから。
不敬な行いをしてはいけないという思いと、どういう事なのかと問う思いが鬩ぎあう。
鷹臣が前言を撤回する様子は見られない。それどころか、更に鷹臣は続ける。
「……その一年の間は好きに過ごせ。望みがあるなら叶えるし、欲しいものがあるなら言うがいい。お前の願いがこの家では何よりも優先される」
かさねはますます疑問を深めてしまう。
旦那様の裁量次第で妾は確かに大事に扱われる事もある。だが、何より優先されるほどにとは俄かに信じがたい。
自分は買われてきた田舎娘、そんな扱いなど恐れ多い。けれどそれを口にするのもまた鷹臣の言葉を疑う事になってしまう。
疑問と恐れが裡を巡りに巡り、かさねの表情は何とも言えない固い表情となってしまっていた。
ふと、空気が動いた気がした。
俯きかけていたかさねが顔を再びあげると、静かに歩み寄った鷹臣がかさねの前に片膝をついて彼女を覗き込んでいる。
思わず目を見張りながら言葉を失ってしまうかさね。
彼女の眼差しの先にある鷹臣の表情は、少しだけ和らいでいた。
頬に温かな何かが触れたのを感じる。
それが鷹臣の大きな掌である事に一瞬遅れて気づいた。はめていた白い手袋を外して、かさねの頬を包むように触れている。
覗き込む眼差しを見て、かさねは思わず目を瞬く。
「一年の間は……お前は、私のものだ」
手のひらに包まれるように触れられている頬が、熱いと感じてしまう。
まるで触れる事すら躊躇っているようだ。触れれば壊れてしまう宝に触れるような、繊細で愛しさすら感じさせる不思議な手。
戸惑いを宿した瞳が見つめる先、鷹臣の表情はどこか切なげだった。切なげであり、そして……。
かさねの裡に問いが更に更に巡る。
貴方は確かに私を買われたのに。確かに私は貴方のものであるのに。
鷹臣は確かにかさねの主であり、かさねが今ここにある理由であり、世界であるのに。
何故、とかさねは呟きかけた。何故、そのように不安げでいらっしゃるのですかと……。
胸の早鐘が止まらない。頬が熱を帯びるのも止められない。自分が今どのような顔をして鷹臣を見つめているのか、分からない。
分からない事だらけだ、と思う。この人の言う事も、自分の胸の裡も。
けれども確かな事は、自分がこの人に触れられる事を嫌とは思わないということ。
冷たいとも思った眼差しの奥に、確かに感じる不思議な何かがあること。
見つめ合う二人の何方も言葉を紡ぐ事が出来ない。何も言わず、ただお互いを瞳に映しているだけ。
二人が沈黙に揺蕩う事暫し。
戸惑いがちなかさねの手が、頬に触れた鷹臣の手のひらに触れかけたその時。
外で足音のようなものが聞こえた。それに合わせて制止するような声も聞こえる。
止める声も女性であるが、それを咎める声もまた女のもの。
漏れ聞こえるやり取りからすると、身分のある女性が進もうとするのを仕える者が止めている様子である。
かさねの頬に触れていた手を離して、舌打ちしてそちらを見据える鷹臣。次の瞬間、閉ざされていた襖が勢いよく開かれた。
「到着したのは聞いているわ。何故わたくしが蚊帳の外なのかしら?」
「……
権高な声と共に、洋装の女性がその場に飛び込むように姿を現した。
その後ろには、止めようとしたらしい老女の姿がある。
「申し訳ございません、旦那様……。今はお二人で御対面中ですからと、お止めしたのですが……」
「良い。……気にするな」
恐縮した様子で頭を下げる老女に、溜息交じりに返す鷹臣。
老女に対しては労わるような眼差しを向けたが、すぐに険しさを取り戻したそれが女性へと向けられる。
剣呑ですらある鋭い視線を向けられても、女性は露程も動じない。
かさねは女性に注目する。
鷹臣と並んで遜色ない程に美しいひとだ、と思う。
顔の半分だけは、絶世の、と称しても遜色ない美貌の女性だった。
しかし、もう半分は部分的に覆う仮面にて隠されている。そしてその仮面を隠すように半分だけ前髪が顔を覆っている。
均整の取れた身体を洋装で包んだ女性は、かさねの姿を認めると破顔する。満面の笑みを浮かべながら、かさねへと歩みよる。
「お前がわたくしの形代ね?」
「かたしろ……?」
喜びに輝いてすら居る女性がかさねを覗き込みながら首を傾げて問いかけてくる。
問われた言葉の意味が分からずに鸚鵡返しに呟くかさね。
かさねの傍らに膝をついた女性がそっとかさねに伸ばそうとした手が、次の瞬間音を立てて振り払われる。
「……お前のものではない」
「……わたくしの代わりに子を産んでくれる事には代わりないでしょう?」
火花が散ったよう見えたのは気のせいだろうか。
聞こえた音は思わず目を瞑ってしまうほどに激しくて、見れば打たれた女性の手は赤くなっている。元が白い分だけ尚更それは顕著である。
女性の手を打ち立ち上がった鷹臣は、女性を冷たく見下ろす。
凍てつくような声音で鷹臣が告げても、女性は欠片も動じていない。かさねに向けた笑顔とは対照的な程に険しい眼差しを鷹臣に向けている。
しかし、その言葉で漸くこの女性が誰かを確信した。
燁子様というお名前と、代わりに子を産むと言う言葉が示すのは。
「妻の燁子だ。……騒がしくてすまない」
「……貴方にそう呼ばれるのは本当に腹立たしいわ」
奥様、と思った瞬間にかさねは燁子に向かって速やかに手をついて礼を取っていた。
この燁子という女性は、鷹臣の妻なのだ。妻にとってぽっと出た妾など厭わしい筈。
せめて少しでもその気分を損ねないようにとかさねは必死だった。
「かさねと申します……!」
「恐縮する必要はない。……それについては気にせずとも良い」
「確かにないけれど、貴方がそれを口にしないで頂戴」
挨拶の口上を続けようとしたが、それは友好的ではないやり取りに阻まれた。
この二人、夫婦だというのにどうにも険悪な様子である。険悪どころか、抜き身の刀を突きつけ合っているような剣呑さすらある。
だというのに、かさねに対しては態度が違う。頭を下げたまま、かさねは内心狼狽えていた。
何かが思っていたのと違うと戸惑い、自分の表情が恐らく珍妙なものとなっているだろうと思うかさねは頭を上げられない。
旦那様は、何でも願いを叶えようと言い、お前が何よりも優先されると言い。
奥様は、わたくしの形代とかさねを呼んで、疎ましい筈の妾をむしろ歓迎しているように見える。
恐らく、そう無碍な扱いはされないだろうとは思っていた。仮にも名家の主の世話になるならば、その面子を保つためにも相応の扱いはされると思っていた。
だが、何かが違う。かさねは内心混乱しきりだった。
老女がとりなすように声をかけているのが聞こえる。このままではむしろ居心地が悪くなってしまわれます、とかさねを気遣ってくれている様子だった。
ここでいがみあう事がかさねにとって良くないと判断したらしい二人は、これ見よがしに溜息をついて休戦する事にしたらしい。
手を添えてかさねを起き上がらせると、自らも立ち上がりながら燁子は笑みを改めて浮かべながら言った。
「わたくし、とてもお前を待っていたのよ。お部屋もすっかり準備してあるわ。さ、行きましょう?」
え、と思わず声をあげかけた。
歓迎されているどころではない。どうやら燁子はかさねの為の部屋を準備してくれていたと。
夫を奪う泥棒猫とも言える存在の為に、正妻が部屋を整える。
本当に、本当に、有り得ない。
自分は何の為に此処にあるのかは当然分かっている。置かれた立場も勿論わかっている。
けれどもそれでも狼狽えずには居られない。理解が与えられた情報に追いついてこない。
呆然としているかさねは、燁子の勢いに逆らえず手を引かれて歩き出してしまう。
狼狽えて鷹臣と燁子を交互に見つめる老女に、鷹臣は視線だけで『言う通りにしてやれ』と示しているようだった。
手を引かれて歩き出したかさねに、冷淡さの中に少しだけ穏やかさを感じる声音の言葉がかけられる。
「長い道のりで疲れただろう。……まずはゆっくり休むがいい」
それを耳にした瞬間、かさねは動きを止める。
そして、燁子に一度断りを入れてから鷹臣の方へと向き直り、深々と頭を下げながら言った。
「お心遣い感謝致します。……お言葉に甘えさせていただきます、旦那様」
言って頭をあげたかさねが見たものは、少しばかり優しさを帯びたように見える鷹臣の横顔だった。
静かに辞する礼をすると、かさねは先へと導く燁子とそれに付き従う老女に続く。
だから、かさねは知らなかった。
鷹臣が絞り出すような声音で、万感の思いを込めてかさねの名を紡いだことに……。
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