四葩の華獄 形代の蝶はあいに惑う

響 蒼華

買われた蝶

 美しい着物を纏った少女は、軍服の男性の前にて礼の手本とも言えるような見事な所作で頭を垂れた。

「不束ものではございますが、よろしくお願いいたします、……旦那様」

 少女は買われてきたのだ。この男性の子を産むためだけに。

 少女は、今日この時よりこの男性の妾となる――。

 

 ――遡る事、数日前。

 寒村の村外れにある墓地の、とある墓の前にて。少女は、膝を付いて手を合わせて居た。

 色褪せ擦り切れた着物を纏っていても、手や顔を泥で汚していても。少女の姿かたちが美しい事だけは隠しきれていない。

 日の焼ける事もなく染み一つない滑らかな、どこか真珠の輝きを思わせる肌。揺れる睫毛の下には黒真珠、紅を刷いておらずとも艶やかに赤い唇。

 鄙の地には稀な美貌の少女の顔に浮かぶのは物憂げな表情だ。

 少女は心の中で盛大に溜息を吐いた。世の中とは実に侭ならないものだ。ましてやこの時代、女の身であれば尚更だと少女は思う。

 生まれ育った村を離れるにあたり、唯一心残りはこの墓を守ってくれる人間が居なくなる事だけ。それも良きように取り計らいます、と言われはしたけれど……。

 あまり長居をして待たせてはいけないと思いながら立ち上がり、墓を見つめる。そして、未練を断ち切るように墓に背を向けて歩き出した。


「かさね様……!」


 家に戻ると、家の前に立っていた『使い』だと言う初老の男と女が待ちかねたように名を呼んできた。

 少女――かさねは、待たせた事を素直に詫びた。家の周囲には遠巻きにこちらを伺う野次馬、もとい近所の村人たちの姿がある。

 猶予として墓参の時間を貰ったが、その間あの視線に晒され続けたというなら居心地の悪い思いをしただろう。

 お支度をして頂きますと言われて顔や身体を用意されていた湯で洗われた。髪を梳いて結い上げて、白粉をはたいて紅をさす。

次いで、女の手を借りて用意された着物に着替える。

平素触れるものとは格段に質の違う、今まで袖を通した事もないような上等な着物だった。

初めて見る友禅の着物は、田舎の村の娘には分不相応な品である。みすぼらしい姿では『旦那様』の面子に関わるから、ということらしい。

何でも『旦那様』が京の名人に頼んでわざわざこの日の為に誂えさせたという話だから驚きだ。

名高い作家によるものであり、花の咲き乱れる絹地に蝶が舞う様は一服の絵画を思わせる程。

 唖然としていると、包みから次々と小物が取り出される。当然ながらどれ一つとっても格が違う。

 肌に触れる感触が馴染まない。今までとは間違いなく違う世界に行くのだと否が応でも知らせてくるような気がして、悟られぬように唇を噛みしめる。

 それまで着ていた着物は処分しますかと問われたが、出来れば取っておいて欲しいと頼み込む。

 母が亡くなる前に苦労して手に入れてくれた品なのだと告げれば、女はそれ以上何も言わなかった。

 やや暫しして、土間で待つ初老の男の前にかさねと女は姿を現した。


「これはお美しい……。旦那様も、さぞご満足される事でしょう」


 支度が終わったかさねの姿を見て初老の男が目を細めて呟く。女も出来栄えに非常に満足している様子だった。

 眩いばかりの装束に身を包んだかさねは、掛け値なしに美しいのだという。

 絢爛の中に埋もれることなく凛と気高く咲き誇る花とも、名の在る職人による精巧な人形とも思える姿と男達は褒めたたえる。

 しかしながら、かさねの心中は褒められれば褒められる程に複雑に、そして重くなっていく。

 美しくある事。それが誰の為なのかを考えれば、自分がどういう立場に居るのかを嫌でも思い知る。


 かさねの心の内など知らぬまま、二人はかさねを導いて歩き出す。

 囲炉裏の側には顔に大きな傷のある、昔は伊達男だった残滓がある男が横たわっていた。

 しかし、かさねは一瞥をくれただけで何も言わずに通り抜けて背を向けた。

 男は、かさねの父だった。

 父の周辺には酒瓶が転がっており、昼日中から酒精の匂いを漂わせている。

 転がり込んだ大金で早くも酒を買い込んできたようだ。既にそれもほぼほぼ空にして夢の中である。

 かさねは、この父親に売られた。値として提示された金額に、父は一も二もなく飛びついたという。

 父の酒代にこの身を変える事を知った時には、嘆きより呆れが先だった。

 お前とて贅沢な暮らしが出来るようになるのだから有難く思え、と言われても思える筈がない。

 買った人間に纏わる噂は、このような鄙にも聞こえる程に有名なのだから。

 しかし、娘が父親の選択に逆らえる筈がないのだ。諫めてくれたであろう人は、先だって世を去っている。

 思えば、父とは情が通わない間柄であった気がする。

 身を削ってでもかさねを慈しんでくれた母とは違い、父はどこか余所余所しく時には懐疑的な眼差しを向けてきた。

 かさねは父とも母とも似ていなかった。故に疑っていたのかもしれない、本当に我が子かと。

 しかし、今はそれすらどうでも良かった。

 身の丈に合わぬ金を手にして男が更に身を持ち崩そうと、酒に溺れて身体を損ねようと、もういい。もはや今生では会う事もあるまい、と思いながら家を出る。


 距離を保ち遠巻きにしながらも、野次馬達は気が付けば増えている。村の主だった者達が集まってきているのではと思う程だ。

 彼ら彼女らの視線は、二人を通り越してかさねに釘付けだった。

女達は食い入るようにかさねの纏う着物を見つめている。絢爛豪華なそれに集まった村の女達の惚けたような眼差しで穴が開きそうだ。

それも仕方のない事だと思う。このような村では下手をすれば一生目にする事の無いような目も眩む品である。

 けれど、羨望の中にちらほらと入り交じるのは蔑む眼差しだ。

どれほど豪勢な支度をしてもらったところで、結局は。美しいから『高値』がついて良かったではないか。

人々の小声での騒めきは漣のようにその場に満ちている。こちらを見つめていながら、恐れるように近づいては来ない。

 かさね内心の溜息を押し隠しながら、気にした風を見せる事なく男に続こうとした。

 その時、聞えよがしな下卑た声が耳に届く。


「『蝶憑き』が居なくなって清々するな」

「せいぜい御奉公して、可愛がっていただくといいさ。見目だけはいいんだから」


 それは若い男の二人組だった。

 親が分限者であるのと良い事に、逆らえない者達を引き連れ、いっぱしのワル気取りをしている村の鼻つまみ者達。

 日頃、かさねに対して手を変え品を変え嫌がらせをしてきていた筆頭格でもある。

 かなり前には言い寄られた事もあった。かさねが応えないでいると、今度は力に頼って迫って来た。

 しかしその時にあったある出来事のせいで、かさねに言い寄るのを止めた代わりに、幼稚な嫌がらせを繰り返すようになったのだ。

彼らにしてみれば、憂さ晴らしの玩具が消えるのが面白くないのだろう。無論、かさねにとっては彼らの顔を見なくていいのは寧ろ重畳であるが。

 彼らの言葉が人々に連鎖していく。徐々に一人、また一人と『蝶憑き』と口にして表情に恐れを見せるようになる。

 恐ろしい『蝶憑き』が、呪われた娘が村から消えてありがたい。騒めく人々に、何の感慨も湧かない。

 かさねにとって、この村に在る意義は亡くなった母だけだった。その母がいない今、この村に留まる意義もなければ、去る事に何の想いも湧くはずがない。

 今からかさねが行こうとしている道は、母の想いに反する道なのかもしれない。

 けれど、そこから逃げてももう何処にも行く場所はないのだ。それならば、何が待ち受けていようと進むだけ。

 そう思えば、騒めきも何も聞こえない。促されるままに、かさねは自動車に乗り込んだ。


 恐れと羨望と蔑みを込めた数多の眼差しを集めたまま車は村から去った。

 どれ程の時間を車に揺られただろうか。休みを挟みながらも、車は一路帝都へと向かう。

 やがて帝都に入り、近代的な建物が並ぶ街並みが過行くのを呆然と見つめ続けている間に車は進み続け。やがて見事な門を越えたと思えば、ついにはそこへと辿り着いた。

 着きましたよ、と声をかけられて降り立った先で初老の男が手でそこを示して告げた。


「お疲れ様でした、かさね様。こちらが、紫園しおん家のお屋敷です」

 息を吐きながら何気なくそれを見たかさねは、思わず息を飲んで絶句する。

 和風と洋風の絶妙に調和する豪壮なお屋敷、それが、かさねがまず抱いた感想である。

 季節を問わず咲いているという紫陽花の生垣に囲まれるようにして在る敷地内には、洋館と和館から為る母屋に蔵、幾つかの離れの他、大きな池を有する庭園があるという。

 感情の揺れ動きが鈍り気味だったとはいえ、あまりの見事さと規模の屋敷に流石にかさねも呆然と立ちすくんでしまう。

 これが、帝都でも有数の名家と言われる紫園家の屋敷なのだ。

 本当に来てしまったのだという思いと、ここでこれから過ごす事が信じられない思いが綯交ぜとなっている。

屋敷の中に導かれ、天上の世界に足を踏み入れたかのような、雲の上を歩いているような地に足が付かない感覚を覚えながら歩み続けた先。

奥まった場所に存在する、どこか寂しいまでに落ち着いた和の空間。その人は窓の向こうに視線をやりながら立っていた。


「……着いたか」


 かさね達に気付いたその人は、視線を向けると口を開いた。

 労わる言葉ではあったが、その声音におおよそ温度といったものは感じられない。

 抜き身の刀のような冴え冴えとした語調で紡がれた言葉に、またも呆然としかけたかさねは打たれたように我に返る。

 美しい人だ、と思ったのだ。眉目秀麗という言葉がこれ程似合う人もいないだろうと。

 纏う陸軍の軍服と相まって清冽なまでに高潔な雰囲気を持つ男性であり、名家の主としての威厳を備えた人物だった。

 凍てついた雪原のような冷厳な空気に息を飲むけれど、同時に何故か……。

 しかし、次の瞬間裡にて頭を左右に振る。


 この人が紫園家の当主である、紫園鷹臣たかおみ

 帝国陸軍参謀本部付少佐。誰もが命を落とすような過酷な戦況でも生き残り、致命傷を負っても命を取り留める。

 誰に対しても等しく冷酷で執着せず、時として使い捨てる様子から『死神少佐』とすら呼ばれる男性。


これから先、彼女の世界であり、彼女の全てとなる男性である。

一筋の無礼とて許されない相手であると思い直せば、射すくめるような鋭い眼差しに背筋に冷たいものが伝う。

 しかし、内なる動揺も怯えも悟られぬように最大限の注意を払いながら、かさねは一歩前へと踏み出して。

 畳の上に静かに両膝を揃えて座すと、母から教えられた通りに、出来得る限りに美しい所作にて礼をする。


「かさねと申します」


 膝の前にて手をつきながら、かさねは伏したまま静かに名乗り、続けた。

 鷹臣の表情は見えぬまま。そして自身の表情も見せぬまま。何故か不思議な懐かしさを感じる自分に心の中で少しばかりの戸惑いを覚えながら。


「不束ものではございますが、よろしくお願いいたします、……旦那様」


 かさねは買われてきたのだ。この男性の子を産むためだけに。

 かさねは、今日この時よりこの紫園家当主・鷹臣の妾となる――。

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