第9話ーNocturnal assaultー

 ユリカが去り一人になると、しんと静まり返った室内に、風に揺れる木々の葉音と鳥の声だけが残った。矢をもう一度眺めてみる。

 ……何かおかしい。アトランティスとアテナイは確かに敵対しているが、正直言ってアトランティスが勝手にアテナイを敵視しているだけで実際の関わりは皆無と言っていい。アテナイとは貿易も盛んではないし、私には父上を始めとした上層部の人間がアテナイへの敵対心を煽っているように思えた。

 でも、タイミングが悪いな……

 矢を机に放り、ベッドに横になる。今、アテナイの矢で私が狙われたことが広まれば、身元が明らかになっていないカオルの立場が危うくなる。ユリカはまだカオルを警戒しているし、私だって完全に信用したわけではない。矢で狙われた時はカオルもいたから、可能性としては仲間がいることが考えられるが……とりあえず、しばらくカオルを監視させてみようか。

 天蓋を見上げると、机に置かれた蝋燭の火の影がゆらゆらと布の上を泳いでいる。私は目を閉じて瞼の上に手の甲を乗せた。ひんやりと冷たい手の甲が熱い瞼に触れて、瞼が僅かに反応する。緩い風が掌を優しく撫でた。

 …………風? 私は瞼に置いていた手をゆっくりと外し、できるだけ音を立てないように半身を起こした。確か……バルコニーの鍵は閉めてあったはずだ。女官やユリカが開けたのでなければバルコニーに続く扉は開いていないはずで、女官は開けたら閉めるだろうしユリカが勝手に扉に触るとは思えない。

 息を殺し、枕の下にそっと右手を滑り込ませる。指先に当たった硬い金属の感触を確かめ、それを握った。風が頬を撫でる。物音はしない。蝋燭は枕元に置かれた二本と、少し離れた場所にあるテーブルに置かれた燭台のみ。

 ふと、テーブルの蝋燭が揺れた。風は吹いていない。私は手に持ったダガーを胸の前に構え、ゆっくりと体制を整えた。―――――くる。

 不意にテーブルの上の蝋燭が消え、僅かに床が擦れる音がしたかと思うと胸元で鈍い音が響いた。ダガーが相手の剣を受け止め、振動を掌に伝える。相手の顔は見えなかったが

 直感的に、殺す気だ、と思った。牽制や脅しではなく、確実に私の心臓を狙っている。唇を舐め、自分を奮い立たせるように少し口角を上げた。それならこっちも容赦はしない。相手の剣を跳ね除け、ベッドから降りて僅かに蝋燭に照らされる相手の輪郭を狙ってダガーを振る。触れた感触はあったが掠っただけだったのか、すぐに次の攻撃がやってきた。俊敏な動きと予測困難な攻撃に思わず感心してしまう。何度かダガーが触れているはずなのに、全く怯まない相手に、少しずつ体力が消耗していくのを感じた。背の高さ、剣の重さからすると相手は男だ。鍛錬を積んでいるとは言え、両性皆無ノンバイナリーの私は体力的にやや劣っている。だからと言って完全に女性のような身の軽さが手に入るわけでもなく、長期戦になると不利としか言いようがない。

 ふと、開け放たれた窓から強い風が滑り込んできた。唯一の明かりだった枕元の蝋燭が風に揺れて消える。

 ……今だ。

 私は少し体制を低くしてダガーを右胸の前に構え、床を蹴った。ダガーの先が相手の衣服に少しだけ突っかかった後、布を破り肉にのめり込んでいく感触が伝わる。相手の叫喚が耳に届くのと同時に、右肩に衝撃が走った。

「あぅ……っ!!」

 熱い。まるで……そこに焼鏝を押したかのようだ。咄嗟に左手で肩を押さえると、べっとりと温かい液体が掌に張り付いた。どこか遠くで金属の音がして、ダガーが床に落ちた音だと気づく。拾わなければ、としゃがもうとしたが、そのまま崩れ落ちてしまいそうで、膝に力を込めて立っているので精一杯だった。相手が立っていた場所に目を向けると姿が見当たらない。探さなければと足を踏み出すと、何か柔らかいものが爪先に当たった。

 右肩を押さえる左手の指の隙間から、幾筋もの血が流れ出しブラウスを赤く染めていく。ユリカを呼ぼうと扉の方に向かおうとすると、さっき爪先に当たったものに躓き床に倒れ込んだ。

 ――――この香り……どこかで嗅いだことがある……そうだカオルだ。今朝彼が纏っていた――――

 鉄の匂いが充満して、その香りを覆い隠していく。口を開けたが声が出なかった。ただ、薄く開いた目に、アーサの星が瞬いているのが見えた。




 多分、私は信じたくなかったんだ。カオルが刺客だとか、アテナイの人間だとか。夢で見たことがあったから、執着していたのだろうか? まだ出会ってニ週間だというのに、まるで何年も前から付き合っている知人のような気分でいた。彼は私を知らないのに。ただ一方的に私が夢に見ていただけなのに。

 何を錯覚していたのだろう。

 なぜ、信じてしまったのか。




 うとうとと重くなり始めた瞼をゆっくり閉じて、心地よい睡魔に身を任せていると、不意に無機質な音が割り込んできて俺は目を開けた。コン、コン、と規則的な音が眠りかかっていた俺の脳をノックする。

 ……なんだ?

 半身を起こして耳を澄ませると、どうやらその音はバルコニーの方から聞こえてきてるようだ。ベッドから出て枕元の燭台を持ち、足音を忍ばせてバルコニーの前のガラス戸まで歩いて行くと、規則的な音と共に見覚えのある顔が燭台の明かりに照らし出された。

「うわっ! どうしたんですか?!」

 思いがけない人影に驚きつつも、慌ててガラス戸の鍵を開け、尋常じゃない様子の相手を部屋に招き入れる。扉の鍵を閉め直し、駆け寄った。

「血が……な、何があったんですか」

 彼は静かに、と言うように口元に人差し指を持って行った後、その場に崩れ落ちた。前代未聞の事態に俺は驚きを隠せず、無駄に荒い呼吸を繰り返す。どうしたらいいかわからず、とりあえず手に持った蝋燭の火をテーブルの上の燭台に火を移すと、真っ赤に染まった彼の腹部が露わになった。彼の腹部から服が受け止めきれなかった血が硬い床に流れ出し、水溜まりを作ろうとしている。俺は自分の頬を思い切りひっぱたいた。

 何やってんだ、ぼーっとしてる場合じゃないじゃないか。

 キョロキョロと室内を見回し、止血に使えそうなものを探す。さっきまで自分が敷いていたシーツが目に止まり、急いでベッドから剥ぎ取った。手で破ろうとしてみるが、一万二千年前の技術と言えども手で裂くのは流石に難しく、鋏を探す余裕もなく歯で噛み切った。端に切り込みが入ってしまえば力任せに裂くのは容易で、網飾りを作る時のように裂いていけばあっという間に長い包帯が出来上がる。その間にも血の水溜まりは大きくなっていき、俺の焦燥感を煽った。

 彼の上着を脱がし、ブラウスをはだけさせてがっしりと筋肉質な上半身を持ち上げると、椅子の足にもたれかけさせて急いでシーツを巻いていく。

 ……こんなんじゃ全然止血が間に合わない。どこか太い血管が傷ついているのか?

 三十回ほど重ねて巻きつけると、やっと少し出血の流れが遅くなってきて、安堵のため息をつきその場にしゃがみ込む。小学校から高校の間に緊急手当てのやり方は何度も習ったはずなのに、ちっとも思い出せない自分に腹が立った。

「やっぱ……シーラさん呼んでこないと……」

 立ちあがろうとすると、不意に強い力で腕を掴まれ俺は尻餅をつく。

「痛……なんなんですか」

 振り向くと、半眼の彼が唇を少し動かしながら小さく首を振っていた。だかやはり力は出ないのか、俺の手首を掴んだ彼の手は次第に緩んでいく。

「俺じゃ手当てしきれないんですよ! ちょっと待っててください」

 まだ何か言おうとする彼の手を振り払い、俺は小走りに扉に向かった。どうしろって言うんだ。このままじゃ死んでしまうかもしれないっていうのに。

 扉を引こうとすると、力を入れる前に扉が開き俺はバランスを崩して後退りする。誰だと顔を上げると、ちょうど呼びに行こうと思っていたシーラが慌てた様子で部屋に入ってきた。

「シーラさん?」

「よかった! 今ちょうど起こさなきゃと思って……レジス様が、レジス様が今……」

 混乱しているのか焦っているのか、レジスの名前を連呼する彼女の続きの言葉を待つ。レジスが……どうしたって? まさか何か……

 言葉の続きを促そうと口を開くと、シーラは部屋の中の何かに気がつき、椅子の置いてある方向を凝視した。室内を振り返ってみると、手当てが中途半端なままの男が椅子の足にもたれて目を閉じている。顔色は悪く、まるで蝋みたいだ。

「カオル様…………あれは……?」

「あ、ちょうど彼のことで呼びに行こうと思っていたんです。俺だとうまく手当てができなくて」

「どなたですか……?」

「え? どなたって……」

 その問いに答える前に、彼女は耳をつんざくような大声で叫び、それからのことはよく覚えていない。ただ、彼女の叫び声に驚いてやってきたユリカや衛兵の、俺への視線が前とは違っていたことだけが記憶に残っている。

 

 

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好きになってはいけない 中尾よる @katorange

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