第8話ーArrowー

 微風が、開け放たれた窓から入ってきて頬を撫でる。窓の外のバルコニーには、レジスが手摺りにもたれて、どこか遠くに視線を投げていた。風が彼女の髪をふわりと舞い上がらせ、その首筋を露わにする。

「カオル様、聞いてらっしゃいますか?」

 ペンを手に持ったまま、ぼんやりとバルコニーを見ていた俺に向かって、ユリカが不機嫌さを隠さない口調で言った。

 あ、という顔をすると、これ見よがしにため息ををつく。

「あなたが知りたいと言うからお話ししているのですが」

 目の前には、数冊の分厚い歴史書が置かれていた。ページはよれ、黄ばんだ紙はその歴史書がどれだけ昔に書かれたかを示唆している。そこに書かれている文字は、俺には読めなかった。紙が皺になっていたり、滲みがついたりしているからではない。残念なことに、俺にはこの国の言葉は話せても字は読めなかったからだ。英語に似てないこともないが日本語とは似ても似つかないその文字に、俺は自分で歴史書を読むことを断念し、レジスに勧められてユリカに教えてもらっていた。

「……はい」

 ユリカは綺麗な顔をしているのに、言葉は冷たい。日本にいたら高校生くらいだろうか? まだあどけない顔つきで、短い巻き毛はレジスの髪の大きなウェーブとは違い、もっと細かくカールしている。美少年と言っていい容姿だが、その視線の鋭さに、時折俺はたじろいでしまう。

「ほら、ユリカ。そんな言い方をするな。カオルが困ってるじゃないか」

 少し笑い、翻る髪を片手で抑えながら、レジスがバルコニーから室内を振り返った。

「君が彼を警戒する気持ちもわからないわけじゃないが、そんなでは仮に彼がスパイだとしても、尻尾を出してもらえないぞ」

「だって……! レジス様」

 スパイじゃないと言っているのに……ユリカはガードが固く、なかなか信じてくれない。それほどアテナイを警戒しているのだろうか。それとも、ただ単に俺が気に入らないのか。

 反論しようとするユリカを、レジスは仕方ないな、と笑う。

「ユリカ、私が代わるか?」

 彼女がバルコニーから部屋の中に戻ろうとした。

 その時だった。

 彼女の背後で、何かが光った気がした。



「レジス様!!」

 頬に細く痛みが走り、バルコニーの下を振り返った。広い庭はいつも通り静かで、植木や花も落ち着いて風に身を委ねている。一見、何も異変はない。

 ため息をつき、二人の無事を確認しようと室内を見ると、ユリカが素早く私の横を駆け抜けバルコニーの手摺りを乗り越えた。

「ユリカ!」

 私の声にも反応せず、彼は南の方向に走って行く。体力がある方ではないが、こういう時の瞬発力は高い。長距離走るのは苦手だが、短距離なら誰にも負けないほど足が速かった。

 おそらく、バルコニーから飛び出そうとしていた私に気づいていたのだろう。

 室内を振り返ると、床に落ちている矢に気がついた。細くて細工は粗いが、手に取ると矢尻は重く、無駄のない羽根とのバランスがいい。見覚えのある矢だ。

 この矢は……

「レジス! 頬が……」

 いつの間にか横に来ていたカオルが、心配そうな瞳で私の顔を覗き込む。先ほど痛みが走った左頬に手を当てると、生温い血がべたりと手に纏わりついた。

「かすり傷だ、気にするな。それより……」

 矢に視線を戻すと、彼は私の手から矢を取り上げて私を睨んだ。

「それよりじゃない! 化膿したりしたらどうするんだ。ちょっと待ってろ」

 彼は矢を机に置くと、足音荒く部屋を出て行く。焦ったような足取りで去って行く足音を聞きながら、私は思わず笑ってしまった。

 私に命令するなんて、父上とアロイスぐらいだ。全く……

 その瞳も、雰囲気も、どこか落ち着いて感じられるのに、行動は無鉄砲で、口を開けば天邪鬼、危ういくらい素直に表情を変え、ともすれば、夢の中で会った時のような苦しげに瞳を翳らせたりする。

 出会ってまだそう経っていないからだろうか? 彼の行動は予測不能で、いちいち私を戸惑わせた。

 先ほどカオルが座っていた椅子に座ってみる。机には歴史書と一つの矢。私は歴史書の背を撫でた。昔、幾度となく読み返したこの本は、亡き母からの贈り物だ。母が子供の頃に読んだものを、私にくれた。

 ――綺麗な人だった。私と同じ金の髪に、金の瞳は優しく、口元には常に柔らかい微笑みを湛えていた。

 城の中で大切に守られ、外出はほとんどせず、楽しみは読書と庭園の散歩だと言っていたあの人は、あの頃、幸せだったのだろうか。

 日に日に痩せ細る腕が、腰が、風に飛ばされて消えてしまいそうだったあの人は。日々の政務の合間を縫って、束の間会うことができる王を待ち、籠の中で暮らしたあの人は……本当は何を考えていたのだろう。

 本を開くと、古びたページからあの頃の思い出が香る。優しかった臣下たち、母の部屋にいつも飾られていたラベンダーの花。顰めっ面で部屋を訪れる父王の顔。姉とアロイスと私の、三人で泳いだあの泉。

 まるで、つい最近のことのように瞼の裏に情景が浮かぶ。もう、全てが変わってしまったというのに。

 本を閉じてため息をついた。

 ふと、背後から物音がし、振り返ると救急箱を持ったシーラが、薫と一緒に部屋に入ってくる。

「レジス様! どうなさったんですか、その傷」

 何も説明せずに、ただ知っている人間を連れてきたのか。全く……

 目を丸くして駆け寄るシーラに、大丈夫だよ、と微笑んでみせる。

「いや、ちょっと……ね。大したことないから」

 その言葉が耳に入っているのかいないのか、彼女は素早く救急箱からタオルと水を取り出して私の頬を拭く。血はもう止まっていたが、先ほど流れた分が乾いて赤黒く頬にこびりついていた。綺麗に拭き取ってしまうと、次に彼女は小瓶に入ったワインを取り出し、タオルの端に染み込ませて傷口に当てる。アルコールの香りが鼻をついた。

「ユリカは?」

 いつも傍にいる彼がいないことを訝しんだのだろう、彼女が傷口から目を逸らさずにそう問う。

「ん、外に刺客を追って行った。……あ」

 失言した。恐る恐る顔を上げると、眉を八の字に寄せたシーラが俯いている。

「やっぱり、襲われたんですね」

「シーラ、心配するな。かすり傷なわけだし……」

 彼女は私の言葉には答えず、頬に当てていたタオルを離し、次は薬草を取り出して、その上から布を被せ、粘度のある植物の液で固定した。

 彼女は私が幼い頃から傍にいて、私の世話をしてくれている。姉のような存在で、いつも優しく穏やかだが、心配性な一面もあり、大怪我でもすれば私を部屋に監禁しかねない。昔から、私はシーラに頭が上がらなかった。

 せっかくカオルが何も教えなかったのに、うっかり口を滑らせたのは失敗したな……

 悔やんでも、もう後の祭りだ。

 小さくため息をつき、彼女の腕を掴んで引き寄せる。かつて何度も私を抱きしめ、守ったその身体を、今度は私が包み込んだ。

 軽い抱擁。背中をポンポンと軽く叩き、心配しないで、と耳元で囁く。

「危険なことは……なさらないでください」

 細い声で言う彼女を解放し、微笑んでみせた。

「わかってるよ」



 レジスがシーラを宥めて帰し、二人きりになった頃には、もう日は暮れかかり空が橙色に染まっていた。

「悪かったな、カオル。歴史、全然習えなかっただろう」

 一応安全の為、扉の閉まったバルコニーの窓越しに夕日を見ながら、彼女が言う。

「え? いや、そんなことより怪我はもう平気なのか?」

 なぜ、平然としているんだろう。もしあの時、レジスが部屋を振り返らなかったら、あと十センチ、矢が逸れていたら。今彼女はここにいないかもしれないのに。

 それとも、あんなことは日常茶飯事なのだろうか。室内にいるのに外から矢で狙われることが? まさか。

 王族だから、こんな風に普段から狙われているのだろうか。隙をつこうと、影から目を光らせて。虎視眈々と機会を窺うものがいるのだろうか。

「だから、かすり傷だと言っているだろう?」

 振り返って俺を見る瞳は、先週泉にいた時とは違い、普段通り、自信ありげで他人を自分の領域に立ち入らせない。

 あの時と同じ、細い背中。その背中に、今はやんわりと拒絶されている気がする。

「そうか……」

「そろそろ部屋に戻る。狙われたのが私とは限らないから、君も気をつけてくれ」

 彼女はバルコニーの扉の錠が下りていることを確認した後、俺の返事も待たず部屋を出て行った。

 扉が閉まる音が静かに響く。机を見ると、歴史書はそのままで、矢はなくなっていた。歴史書の一冊を手に取り、ページを捲る。

 やはり、読めない。



 自室に戻ると、ユリカが待っていた。扉に鍵をかけ、彼に駆け寄る。

「どうだった」

「わかりませんでした。僕が行った時には既に逃げた後だったようで……衛兵の中にも怪しい人間を見た者はいませんでした」

 彼の身体を目で確認するが、怪我はしていないようだった。ほっと胸を撫で下ろし、椅子に腰掛ける。

 ふと思い出し、カオルの部屋から持ってきた矢をユリカに手渡した。受け取ったユリカが、顔色を変える。

「これは……!」

「アテナイの矢だ。アトランティスとは作りが違う」

 ユリカは矢を四方八方から眺め、触れて確認し、眉を顰めた。私は左腕でテーブルに頬杖を突き、右手の親指を口元に持っていく。歯に挟んで力を入れると、噛み切れない爪がもどかしい。

「おかしいと思わないか」

「……ええ」

 ユリカが矢を私に返す。受け取った矢を撫で、空気の中に弓を見立てて矢を射るふりをしてみた。

「見たところ、アトランティスの矢もこの矢もきっと射程距離は変わらない。王族の城は元々城門の外から矢が届かないように造られている……距離も、城門の高さも。それなのに……」

 構えた矢を下ろし、もう一度爪を噛む。カチ、と爪が割れる音がした。

「僕も、そう思いました。なのでおそらく」

「城の中に、刺客がいる」

「————はい」

 

 

 

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