第7話ーSpringー

「なんだ、君がこの国のことを知りたいと言ったんだぞ」

 慌てる俺に向かって、レジスが言った。

 いつ日本に帰れるか、いや、そもそも帰ることができるのか、わからないならこの国のことをもっと知らなければと思い、俺はレジスに連れられて地形を覚えるために外出していた。もう二度と、間違えて他人の城に迷い込みたくなかったし、この先きっと必要になるだろうと思ったからだ。レジスの城の近くを馬で回った後、森の中の泉に案内され、その澄んだ空気や透ける水面に見とれた……ところまではよかった。驚いたのはその後、レジスが上着を脱ぎ、更にブラウスにまで手をかけたことだ。

「いや、だからと言って服を脱ぐ必要は」

「私にずぶ濡れで城に帰ろと?」

 金色の瞳を楽しそうに揺らしながら、彼女はブラウスを脱ぎ捨てる。幸いなことに、ブラウスの下に袖の細い薄い下着を纏っており、俺はほっとため息をついた。だが、そのなだらかな肩やきめの細かく白い肌、俺が手で掴んだら親指と中指がくっつきそうな上腕部や、細い首筋は、高く上った日の下に晒されている。彼女は長い髪をかき上げ、俺を見た。

「脱がないのか?」

「え……は?」

 驚いて彼女の瞳を見つめ返すと、彼女は少し柳眉を寄せる。

「まあ、着ていても泳げないことはないだろうが……君の国では服を着たまま泳ぐのか? それとも泉もないのか」

 その言葉に、俺は自分が少し勘違い、いや、変な想像? をしていたことに気づいた。

「泳ぐ……」

 泳ぐ、そうか。泳ぐのか。そう言えばさっき、ずぶ濡れがどうとか……

 途端に恥ずかしくなり、俺は顔が熱くなるのを感じた。いや、別に、何をどう思っていたと言うわけじゃないけど、そうか、泳ぐ。

「君の国の文化で人に肌を見せないのなら別に脱がなくて構わない。溺れたら助けてやるから」

「あ、いやそんなことはない」

 この際、もう脱ぐか。相手は気にしていないんだし、女性ではないわけだし。

 見ると、彼女はタンクトップみたいな下着と紺色で膝丈までのキュロットを身につけている。俺は思い切ってブラウスを脱いだ。傍にあった木の枝に掛け、靴を脱いでその下に置く。振り返ると彼女は既に膝くらいまで泉に入っていた。水に浸かったキュロットの裾だけ、色が濃く変わる。

 彼女の背を追うように、俺も水面に足をつけた。思っていたよりも冷たい。でも気温も暖かかったので耐えられないほどではなかった。奥へ進む彼女の方に向かうと、水面が脛、膝、太ももを撫でて上がってくる。

 水の下にたくさんの丸い石が転がっているのが、足の裏からわかった。

 下が砂や土じゃないから、こんなにも水が澄んでいるのか。

「カオル」

 レジスに手招きされ、水を掻きながら早足に近づく。彼女がいる場所は肩まで水面が来ていて、俺より背の低い彼女は顎までが水に沈んでいた。

「潜ろう」

 そう言って俺の手を握る。

「あ、うわぁ!」

 いきなり彼女に引っ張られ、俺は予め息を吸っておくこともできずに底に沈んだ。目を瞑っているので何も見えず、彼女の手を強く握りしめる。不意に、あの時のことを思い出した。橋から落ちて、あまりにも苦しくて、痺れる手足でもがいたあの時。頭痛がして、やっと水面から顔を出したらこの世界に来ていた。ぞくり、と背筋が寒くなる。

 そ、と頬に柔らかいものが触れた。思わず体を硬くするが、すぐにそれが彼女の掌だと気づく。彼女の指は頬に沿って俺の瞼に辿り着き、トントン、と扉を叩くように優しく俺の瞼をノックした。

 ……目を開けろということか? でも、水中眼鏡もないし……

 躊躇していると、再び彼女の指が催促する。仕方がないので、恐る恐る瞼を持ち上げた。ぼやけた青い視界が広がり、その後すぐにそれは鮮明な景色になった。遠くまで見渡せる澄んだ水に差し込む光の梯子、その隙間を縫うように泳ぐ小さな魚、ゆらゆらと揺れる海藻は深い緑色で、ここが森かと錯覚させる。

 彼女を見ると、その視線に気がついて俺に微笑みかける。普段彼女の額を隠している前髪が波の中に浮遊し、滑らかな額が露わになっていた。長い金髪は、彼女の身体を隠すように彼女の身体に沿って揺れている。

 ふと、彼女が自分の唇を指差した。

「……?」

 すると口を開き、唇の形をゆっくりと変える。

 何か、伝えようとしてるのだろうか?

 俺は彼女の口元に注目した。まず、歯はつけたまま、唇だけ少し横に開く。

“き”

 次は口の中で舌を上から下に弾く。

“ら”? いや、“れ”?

 最初と同じように、いやそれよりも平たく。

“い”

 それから舌を弾きながら唇を開き、

“た”、いや、“だ”か。

 また舌を弾きながら唇を窄める。

“ろ”……“ろう”か?

 放たれた言葉の破片を頭の中で組み合わせる。

“綺麗だろう?”

 意味がわかり、俺は彼女の瞳を見つめながら頷いた。彼女が満足そうに微笑む。そしてまた、自分の唇を指差した。

 今度はなんだ?

 さっきので慣れたと思ったのか、少し早いリズムで唇を動かす。

 窄めて、弾いて、横に引いて、また窄める。そして前歯の近くで舌を弾き、横に引いて上顎に下の根元で触れた。

“く、る、し、く、な、い、か”

“苦しくないか?”か。思ったよりも読み取れるものだと感心する。正直、そろそろ少しまずいと思い始めていたので、首を振った。それを見て彼女は離していた手を繋ぎ、思ったよりも高い位置にある水面に向かって泳ぎ始める。さっきは目を瞑っていて気が付かなかったが、片手を俺の手と繋ぎ、残った手と足のみを使って泳いでいるはずなのに彼女は驚くほど滑らかに、早く水の中を進んでいった。俺も一応手足を動かすが、特に何の意味を成していないように思える。

 俺二人分くらい遠くにあったように見えた水面は、瞬く間に近づいて、俺は水から顔を出した。すぅーーと、思い切り空気を吸い込む。

「大丈夫か?」

「ああ、そっちは?」

 そう聞くと、彼女は陸の方へ歩いて行き、濡れたキュロットを絞った。慌てて追いかけ、俺も水を吸って重くなったズボンを絞る。

 彼女は柔らかい草の上に座り込み、濡れて真っ直ぐになった金髪を左肩に流した。俺も少し間を置いて地面に腰を下ろし、彼女の顔を伺う。彼女は泉の方を見つめた。

「君も知っての通り」

 俺はその彼女の言葉に少しだけ困惑しつつ、耳を傾ける。

「私はこの国の王族だ。昨日会ったアロイスは私の従兄弟で、現国王の兄の長男に当たる、王族だ」

 それが、どう、俺の問いに関係しているのかわからないまま、俺は彼女の言葉を待った。頬についた水滴をそよそよと吹く優しい風が乾かす。

「昨日、ポセイドンの話をしただろう?」

 彼女がこっちを見た。その唇はいつものように、自信ありげに少し笑っている。

「あの……この国の王族がポセイドンの子孫っていう」

 以前、姉さんにも聞いた話だ。海の神、ポセイドンの末裔。どうせ実在しない島なのだからそんなこともあるかと思っていたが、本当に?

「ああ、最近はどんどん血が薄くなっているが、それでも直系ならまだその痕跡を受け継いでいる」

「痕跡……?」

 彼女が頷く。

「私たち王族は、代々他の人間と違うところがある。それは水の中を自由に泳げることだ」

 ああ、だから。あんなに速く泳げるのか。納得しようとすると、彼女が言葉を被せた。

「水中でも息ができるし、魚のように泳げる」

 水中でも、息ができる。水中でも、息が……??

「は?」

「そう驚くな」

 目を丸くした俺を見て、彼女はおかしそうに笑う。

 レジスが両性皆無ノンバイナリーなことにも死ぬほど驚いたのに、今度は水の中で息ができるって……? 本当に同じ人間かと疑いたくなる。いや、同じではないか。

 思わず彼女の顔を凝視した。相変わらず整った顔だが、今は濡れた髪が頬に張り付き、露出した肌が瑞々しくて、女性よりもまるで、少年みたいに見えた。いや、少女のように? 昨日俺を助けに現れた時は、まるでドラマのヒーローかのように思えたが、今はもっとあどけない。まるで子供みたいだ。そしてその顔で、衝撃的な言葉を投げつける。

「だから、一緒に泳いでいても、君がいつまで息が続くのかわからない。無理をさせたなら、悪かった」

 彼女は真っ直ぐ俺を見て、少し悔やむような口調でそう言った。

「いや、無理はしてないよ。大丈夫だ」

 思わずそう即答する。レジスが気づいてくれたから、苦しくなる前に上がって来れた。彼女が手を引いてくれたから、あんなに深いところからすぐに戻って来れたんだ。

 ふと、一昨日この世界に来た時のことを思い出した。彼女の機転で兵や侍女たちが俺をアテナイのスパイじゃないと認め、逃げ出してアロイスに捕まってからはすぐに助けに来てくれて、彼から守ってくれた。彼女のお陰で、今がある。もしもあの噴水じゃないところに着いていたら……彼女がいなかったら、どうなっていたかわからない。

 それなのに、俺は、まだ彼女に礼の一言も言っていない。

「レジス」

「ん?」

 彼女が首を傾げる。乾き掛けた髪が肩の上で揺れた。

 いつの間にか、服はほとんど乾いていた。木漏れ日が、時折肌に乗って暖かかい。風が頬を撫でる。

「ありがとう」

 そう言うと、気にするな、と彼女は笑った。






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